悪党

Teufel

prologue

青年は暗闇に一人でいた。見上げればそこには青白い蛍光灯。錆びた脚のパイプ椅子とテーブル。埃の被ったブラインドカーテンの隙間からは、しんと静まり返った暗闇だけが、こちらをじっと見つめている。青年は暗闇に一人でいた。見上げればそこには青白い蛍光灯。錆びた脚のパイプ椅子とテーブル。埃の被ったブラインドカーテンの隙間からは、しんと静まり返った暗闇だけが、こちらをじっと見つめている。

取調室はまるで、この世の終わりのような閉鎖空間だ。男は一人、濁ったため息を吐く。その白い肌のあちこちには、生々しい傷やあざが無数にあった。しかしそれすらも彼を彩る要素に過ぎない。

組んでいた足を組み替えようとした時、テーブルの向こうの扉から控えめなノックの音が聞こえる。


「……今度は何だ?これ以上、俺から搾り取れるモノなんて無ぇだろ」


扉の向こうへ呼びかける。すると、聞こえてきたのは高圧的な刑事の声でも、冷淡な検事の声でもない。微かに震えてはいるが、澄んだ風のような真っ直ぐな声だ。


「し、失礼します」


軽く頭を下げながら入ってきたのは、人の良さそうな青年だった。真新しいスーツの襟には天秤のバッジが煌めいている。遠く高い空のような瞳で男を見つめる。


新島瑞樹にいじまみずきさん……ですね。オレ……じゃなかった、私は」

「『オレ』で別にいいよ、それがアンタの素なんだろ?」

「う、でも……」

「一人称なんてどうでもいい。それで弁護士様がこんなクソ野郎にどんなご用件で?」


青年はもう一つのパイプ椅子に腰掛けながら、恥ずかしそうに咳払いをした。そして、名刺を差し出しながら軽く頭を下げる。


「申し遅れました。弁護士の水鏡真治みかがみしんじです。ええと、ここに来たのはその……」

「あー大体の予想はついてる。きっとあいつらが寄越したんだろ。貸しを作らせるなんて……゛ああーめんどくさい」


瑞樹みずきはぽい、と名刺を投げ捨てる。真治しんじはショックを隠せないまま、気まずそうに眉を下げた。


「ま、まあ、そんなとこかなぁ……はは」


不機嫌そうに椅子を揺らすと瑞樹みずきは大きく息を吐いた。アメジストのような紫紺色の瞳は蛍光灯にたかる小さな羽虫に向けられている。


「大体のことはケーサツの方から聞いてんだろ。俺が語ることはもう」

「まだあります」

「…………と、いうと?」


瑞樹みずきは椅子を揺らすのを止めて、紫紺色の瞳で目の前の弁護士を睨みつけた。


もみじちゃんのことは?」


蛍光灯が一瞬の間を切り取るように点滅する。無機質なコンクリートの壁は、より一層空気を冷やしていく。時計の秒針が一回転ほどしたところで、耐えきれなくなった彼が、頬杖をつきながらわざとらしいため息を吐く。


「……………はぁ。それも聞いてんだろ。俺は誘拐犯、あの餓鬼は被害者。それ以上でもそれ以下でもねぇ」

「でも、彼女はあなたに感謝していた」

「ストックホルム症候群って、知ってるか?」

「いや、違う」

「違わねぇな」

「絶対に違う」


自らを嘲笑うように否定する『悪党瑞樹』へ、身を乗り出して『善人真治』はさらに否定する。


「彼女は……椛ちゃんは、ずっと辛くて苦しい思いをしていた。そこから救い出したのは、紛れもないあなたでしょう」

「…………本気で言ってんのか?」


 引き気味に彼が吐き捨てると、真治しんじははっと我に帰って椅子に座り直す。


「彼女がまだ幼いからと言って、その証言を無下にすることなんてできません!何よりも、検察側の主張より彼女の聞かせてくれた思い出ものがたりの方が信じられます」

「へぇ、それで?」


ニヤリと嗤いその先を促そうと瑞樹みずきは青空の瞳を見つめ返す。真治しんじは薄汚れたテーブルの下できつく拳を握った。


「だから」

「だから?」

「語ってくれませんか?本当のことを……たとえそれが嘘であってもいい。あなたの目で見た、彼女のことを」

「嘘かもしれないけど?」

「嘘でも構わない。あなたの本音真実が聞けるのなら」


きょとんとした顔で彼は頬杖を解いた。そして腹を抱えて笑い出す。


「っはははははは!俺の『本音真実』ときた!しかも本気で言ってやがる!」


弁護士真治はそんな『犯罪者瑞樹』の姿にも動じず、じっと彼を見つめていた。握った拳に滲む汗に知らないふりをして。ひとしきり笑った後、彼はにやりと口の端を吊り上げる。


「いいぜ上等だ。俺の本音真実が見抜けるものなら、見抜いてみろよ」


テーブルの上で手を組むと、長いまつ毛を伏せて小さく息を吸い、ゆっくりと口を開いた。まるで、舞台に立つ役者がはじまりの台詞を口にするように。


「では、始めようか。飴玉はないが話をするとしよう。これは、とてもとてもつまらない、一人の男の記憶モノガタリだ」

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