3.【転】
道を外れ、森の中を走る。
小さな木漏れ日が微かな光となって、森の中を照らしてくれる。
道には生えていない湿った苔で滑りそうになり、何とか体勢を立て直す。
背後には怪物ミノタウロスが雄叫びと共に、接近してきた。
巨大な木の根を飛び越え、木々の間を縫うようにして駆ける。
恐怖からなのか、限界だと思っていた体力が上限を達しても疲れ知らずに走り続けられた。
だが、木々を避けて逃げる俺に対して、背後から迫る怪物は木々を薙ぎ倒して突き進んでくる。
障害物を生かして距離を稼ぐ作戦だったが、失策だった。と、思ってが、薙ぎ倒すという行為には確かな体力を消費するはずだ。と、僅かな希望を抱きながら、なりふり構わず体力が尽きかけるまで駆ける。
実際、一瞬背後を振り向いた時には距離が広がっていたから、案外失策ではなかったのかもしれない。
どれだけ走ったか。
木漏れ日すら届かない、湿気った深いところまで来た。いよいよ苔が足を滑らせてくる回数が増えてき、逃げ続けるのを断念する。
背後からは数十分間は聞きなれた地響き音が、ゆっくりと近づいてくる。
ミノタウロスも、ただのオッサンさん相手にここまで手こずるとは思いもしなかったのか、気のせいか怒りや苛立ちのような感情が見て取れた。
「ははっ、怒っているのか?」
「ブモォオオオオオオオオオオッ!!」
煽りに呼応するように、闘牛は咆哮を木霊させる。
いよいよ接近戦が始まると、俺は握りしめていた鍬を両手で握り前に構えた。
ほんの数秒の間を空けて、戦いが始まる。と言っても、相手は英雄譚にすら登場する巨漢のモンスターで、対して俺は名前だけが英雄なただのおっさんだ。
まとものな勝負になるわけがない。
俺は攻撃を避けることで精一杯だった。
ミノタウロスの大ぶりな横薙ぎ攻撃をしゃがんで回避。続けて振り下ろし攻撃を右に前転して回避する。
何で怪物級のミノタウロスの攻撃を避けれるのか。
恐らく、それは剣聖の爺さんとの修行にある。
修行の中で爺さんと何度か打ち合いをしたのだが、彼の剣速は尋常ならざる速度で、一瞬のうちに打ち身をしていた。
あの時の攻撃に比べれば、ミノタウロスの攻撃は予備動作や斧を振る速度は圧倒的に遅い。
もう何年も前になるが、あの時の修行をつけてもらったことに今は感謝しかない。
ただ只管回避の一手を貫き通す。が、業を煮やしたのか、ミノタウロスの凶暴具合に拍車がかかり始めた。
再び怪物に俺は背を向けて走り出す。
そんな俺の姿を見たからなのか、ミノタウロスの苛立ちによる激昂は加速した。
「ブォブモンォオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
もはや闘牛の突進を繰り出す。
腕で薙ぎ倒していた木々も頭部の角で粉砕されていく音が聞こえる。だが、そんなことにもはや一々ビビっていられない。
下り坂を苔や植物の上を滑り降りる。途中、真横スレスレで石斧が振り下ろされ、一瞬心臓の鼓動が止まった。
だが、下り坂は俺が走るより大きく距離をつけることができた。
滑り終え平地になると視界が広がる。
「これは…………?」
そこはただ一本のみしか樹木が生えていない空間だった。
ちょっとした集落なら作れるんじゃないと思わせるほどの広大な土地を、贅沢に一際巨大な大木が一本聳える。
世界樹を彷彿とさせる、それは他の木々の分の栄養や日光を吸い取っているかのようにすら思わせた。
場違いにも見惚れていた俺を、背後から鳴るメキメキッと木々が薙ぎ倒される音が現実に引き戻す。
ミノタウロスは鬱陶しい木々から解放され、さらにはようやく追い詰めたと言わんばかりに目を血走らせる。理性の崩壊、いや、そもそもこのモンスターに理性があるのかすら怪しいが、それでも狂乱しているのは間違いない。
ミノタウロスは石斧すら捨て、再び闘牛の如く角の矛先を俺に向けて地ならしをすると、猛突進する。
それを確認した俺も再び地面を蹴り飛ばす。
向かうは世界樹。
背中には今にも串刺しにしようとする鋭利な角。
世界樹、俺、ミノタウロスの距離が全てゼロ距離に達した瞬間。
寸前でお決まりの前転横回避をする。
ズゴンッと衝撃音が体を震わせる。
転がった体の受身をとり、ミノタウロスを確認するとヤツの角は大木に深く突き刺さり、身動きが取れなくなっていた。
狙い通り、といえばそうだが、こうも上手くいって思わずガッツポーズを決めてしまう。
ここからは一歩的な暴力だ。
必死に樹木から抜け出そうとするミノタウロスに若干の罪悪感が芽生えるが、今の今までこっちは命を狙われていたいたんだ。恨まれるようなことはしていない。
「オラァアッ!」
側面からでは腕で薙ぎ払われる可能性があるため、背後から鍬で殴りつける。
勢いよく振り下ろされた鍬の金属部分がミノタウロスの肉にめり込む。
「ブ、ブモォオオ!?」
流石のミノタウロスでもこの攻撃は効いているようで、ミノタウロスは低い声を上げ、もがいていた。
この機を逃すわけにはいかないと、ミノタウロス背中を耕す。
四度、五度攻撃を喰らわせたところで、バキッと硬い何かが砕ける音がした。
「んなっ、自分で角を折ったのか!?」
中腰姿で動けなかったミノタウロスがゆっくりと起き上がる。頭部の立派な角は根本からへし折られていた。
俺とミノタウロスはほぼゼロ距離。
さっきまでのお返しとばかりに、スイングされた拳が襲いかかってきた。咄嗟に鍬の柄の部分でガードするも、木々を薙ぎ倒すような腕力を棒切れ如きでは防ぎきれずモロに攻撃を食う。
「アグァッ!」
勢いよく吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられる。
痛いなんてもんじゃない。防いだ右腕に叩きつけられた背中は鈍痛を超えて激痛だ。心ばかし生えている雑草がクッションになってくれるかと思ったが、そう甘くなかった。
人生で一度も経験したことのない痛みに襲われ、一瞬意識が混濁する。
混乱状態から解放されると、すぐに飛び上がった。
「痛ってえッ…………」
と、言いつつも動くしかない。一撃目は何とか凌げたが、二度目はない。
形こそ変わっていないが、右腕の鈍痛の原因は恐らく骨折だろう。背中は打撲で済んでればいいけれど。
とはいえ、この状況ではもう逃げることは難しい。
俺を一方的に嬲り殺す対象から好敵手として認識をしたのか、間合いを図り様子を伺っているように見えた。
だが、俺に勝ち目はほとんど無い。
出来てほんの少し走ることが出来るだけのただの人間、対して背中に傷を負っているものの生命力が尋常じゃ無い化け物。
勝負が拮抗するような状況じゃ無い。
盤上を翻す一手は、もう一度あの樹木に突進させるしかない。
角がない分、効果は見込めないがあんなぶっとい木に頭をぶつければ、多少なりとも意識をくらませて隙が出来るはず。
最早ただの賭けでしかないが、それに賭けるしか他に思い浮かばなかった。
互いの距離の中央を軸に円を描くように歩く、大樹が背後にあるのを確認すると、馬鹿の一つ覚えに踵を返し走った。
ミノタウロスもまた突進の準備を始め、威力を最高潮まで溜めると俺に襲い掛かった。
また世界樹、俺、ミノタウロスの距離が全てゼロ距離に達する瞬間を狙う。
だが、ミノタウロスも馬鹿じゃなかった。俺が狙っていたことを理解し、それに乗った上で獲りに来ていた。
回避をする直前に、ミノタウロスの両腕に掴まれる。
「がはっ! …………」
怪物の握力で胴が締め付けられ、肺の空気が押し出されて呼吸ができなくなる。
まずい、このままでは死ぬ。
焦る気持ちを必死に押さえ込み、打開策を思案する。
当然腕力では到底勝てない。いくら殴っても、ダメージなんてゼロに近いだろう。ならどうする。苦しさのあまり、金属部分がついた鍬は落としてしまったが、折れた柄の方は握っていた。
折れた柄を、ミノタウロスの右の目玉に突き刺す。
「ブルモォォオオ」
悲鳴を上げながらミノタイロスが手を離し、俺は解放される。
顔を抑え悶え苦しむ奴を間近にするけれど、こっちも内臓がどうにかなっていると思うぐらいには動けない。それでも内臓から噴き出た血を吐きながら、俺は足元に落ちているミノタウロスが持っていた石斧を拾い上げた。
クソ重い斧。こんなのを片手で軽々と振り回していたミノタウロスはやはり化け物だ。
ミノタウロスは俺を探すが、もう遅い。
「うぉおおおおおおおおッ‼︎」
視力が奪われた右側に回り込み石斧を振り下ろす。
斧が丸太のような首に突き刺さる。首を刎ねるまでにいかず、より全身全霊の力を込める。
そしてもう一度振り上げ、渾身の一撃。
ミノタウロスは掠れた声で鳴きながら、力なく倒れ絶命した。
「はぁはぁ…………」
斧を放り捨て、その場に仰向けに倒れる。
体力の限界。といより命の限界だった。鼓動は生き急ぐように増し、恐怖からの解放であちこちの痛みが再発する。
くそっ勝てたのにと悔しい思いと、やってやったぞという今までの呪いに一矢報いることができた気持ちが混じっていた。
アラン=ウォレイフで英雄なのは、あんただけじゃない。俺だってミノタウロスを倒した。英雄の壁を越えてやったぞ。と、顔も知らない同名の英雄に自慢する。
意識が朦朧として、視界が霞む。
ああ、死ぬ、のか…………。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます