彼の世界

 無数の風切り音と悲鳴、あちこちから聞こえる炸裂音。自分を守るようにうずくまる母親の下で、ノアはひたすら恐怖に震えていた。


 かつて世界は、神々が治める二つの国家に分かれていた。二派の神々は互いにいがみ合い、人間も互いを憎み合った。

 世界の中心に一つだけあった神々の故郷を巡って、二つの国は古くから争い合った。


 そしてついに、小さな小競り合いから、人と神を交えた大戦争に発展したのだ。人間は剣と弓で戦い、神々は強大な魔法で争った。次元の違う神々の戦いの余波が地上に届き、人々は短い月日で死に絶えた。神々もまた、死力を尽くして争い、互いを滅ぼした。

 世界を管理していた神が居なくなって、地上は次第に荒廃していった。気温は下がり、他の生物も少しずつその数を減らしていった。


 生き残った人間は、ただ一人だけだった。降り注ぐ石礫の中、身を挺して母親にかばわれた、当時10歳の少年だ。この死にゆく世界を、少年はただ一人で生きていく運命となった。





 朝日で煌めく雪の輝きは、ノアが生活している洞窟の中にまで届いていた。

 寒さに身を震わせつつ体を起こして、ノアは大きく欠伸をする。それから、すぐ脇の壁に刻んだ日付を確認した。


「……そうか。もうこの日が来たんだな」


 立ち上がって体を伸ばす。

 身に着けているのは、薄い上着が一枚だけ。気候が変動して寒さが厳しくなった今の世界に、この服装では心許なかった。


「とは言ってもなぁ。まともな服なんてもうどこにも無いし、一から作れるほど器用でもないし」


 我慢すればいいや、と乱暴に結論付けて、壁に吊るしてあった干し肉をちぎって、口の中に放り込む。

 固くなった干し肉と闘いながら、もう一度壁の暦を見つめた。

 今日は、年に一度の特別な日。

 ノアの、12歳の誕生日だった。


 世界が滅ぶ前、ノアの住んでいた国クロワナ・シオンには、誕生日を祝う祭りがあった。その月には誕生花の飾りを身に着け、当日になると、その花束を置いて親しい者達で祝うのだ。

 今となっては、もう誰も祝ってくれる人が居ない。


 そういうことで誕生花を探しに、ついでに好物のウサギを獲るため、ノアは手製の槍を持って洞窟を出た。

 かつて、この時期に雪は降っていなかった。だから、今誕生花が咲いているかは怪しい。


「最悪、ウサギだけでも捕まえるか」


 そう呟いて、慎重に周囲を見渡しながら足を運ぶ。

 最近は、草食動物もあまり見かけなくなった。草木も少しづつ枯れてきていて、生態系が崩れているのだ。

 このままでは、危ういバランスを保っていた今の生活も、いつ崩れ落ちるか分かったものではない。

 

 そんな暗い未来予測を、ノアは無理矢理思考から追い出す。

 今集中するべきことは、そんなことではないはずだ。


 周囲への意識が疎かになった一瞬、雪の上で白い影が横切ったのを見て、慌ててその後を追った。

 雪を被った枯れ木を曲がると、前方を駆ける一匹の白兎が目に入った。雪道に足を取られながらも、その小さくて可愛い足跡を追跡する。

 しばらくそれが続いても、両者の距離は一向に変わらなかった。

 

 先に息を切らせ始めたのは、ノアの方だった。

 野生動物の体力には敵わず、白兎の姿は次第に小さくなっていった。

 そればかりか、急な風によって雪が舞いあげられ、ノアの目の前を白いカーテンが覆った。

 

「一か八か……!」


 ノアは手に持っていた槍を投げるが、地面に降り積もった雪に突き刺さるだけで、結局徒労に終わった。


「ちくしょー。……やっぱり、そう上手くいくわけないよなぁ」


 地面に倒れこんで、雪雲を仰いだ。

 揺れながらゆっくりと迫る雪花をぼんやり見つめる。

 火照った体には、雪の寒さはちょうどよかった。


 ふと、横の方で小さな気配を感じた。顔を傾けて確認する。

 まだ小さい子鹿が、枯れ木から顔を覗かせてこちらを見ていた。

 鹿も貴重な獲物だ。

 ノアは、鹿が捕らえられる距離まで近付くのを待った。


 しかし、長い時間様子を見ていた子鹿は、どこかへ走り去ってしまった。

 殺気を感じられたのかな、と反省した時、子鹿は一束の草を持ってノアのすぐ横に戻ってきた。

 どうやら地面に倒れているノアを心配しているようで、咥えていた草を彼の口に置いた。


「……僕にくれるのか?」


 子鹿は答えないで、ただじっと見つめるだけだった。

 まるで、食べるまで目を離さない、と言わんばかりだった。


「美味くはないんだけどなぁ、この草」


 そうぼやきつつも、モシャモシャと草を口に詰め込んだ。

 苦い味が広がるが、これでも貴重な食べ物と思えば、のどに通すことができた。

 それを見届けた子鹿は、ノアの頬を優しくなめはじめる。


「……こんなことされたら、食えないよなぁ」


 もはやノアの目は、この子鹿を食材として見ることはできなくなっていた。

 ずっとこうしているのも良い、しかしそういうわけにもいかないから、ノアは思い切って立ち上がった。それに驚いた子鹿は木陰へ駆け戻るが、ノアが追うことはなかった。


「ありがとうな。美味かったよ」


 子鹿にそう声をかけて、雪に刺さっていた槍を引き抜く。

 もう一度辺りを見回したとき、子鹿の姿はどこにもなかった。


「もったいないことしたかな……」


 一つ呟いたが、綺麗に忘れることにして、さっさとその場から離れていった。

 日が高くなったが、尚辺りは寒いままだ。

 早く戻って焚き火で温まろうと考えたその時、遠くに村落の跡地のような所が見えた。

 舞い散る雪でぼやけているその村が、一瞬、ノアには自分の故郷に思えた。


 寒さなど意識から消え去って、足が自然と村へ向かった。

 細かい様子が少しずつ明らかになっていくと、ノアはそれが故郷ではない、別の村であると分かった。

 

「もう2年、いや、まだ2年なのか? 故郷の場所も忘れるなんて、どうかしてるよ」


 そう呟いて、奥底の本心から無意識に目を逸らした。

 ノアは、故郷を忘れようとしていたのだ。

 あの平和で、幸せだった日々を思い出したくなくて、記憶から抹消しようとしていたのだ。


 この2年で、ようやくそれが成功しかけていたのに、誕生日である今日に、村の跡地を見つけたものだから、消えかかっていた過去の輪郭が明らかになり始めていた。

 

 村に入った時、当然ながら故郷とは違う景色で、しかしそれから感じられるものはほとんど変わらない気がした。

 この際だから、何か使えるものがあったら拝借していこうと、ノアは村を探索することにした。

 

 あれから2年ということで、村の形はさほど失われていなかった。

 ただ降り積もった雪だけが、廃墟感を演出していた。

 血生臭い物は、すべてその雪の下に隠されているのだろう。


「さて、何があるか……」


 あるはずもない人目を気にしながら、そこそこ大きい家に入った。

 埃をかぶっていることを除けば、家の中は綺麗な状態を保っていた。

 

 まずは食べ物。それがあれば何も言うことはない。

 というわけで、しばらく家の中を物色していると、近くの棚から腐った匂いが漂ってきた。

 嫌な予感がして、鼻をつまみながら棚を開けると、その中に腐った肉を見つけた。


「まあ、そうなってるよなぁ」


 それを見ると、村に食べ物があるかもしれないという淡い期待は萎れてしまう。


 ノアは諦めて家を出る。

 何気なく、村の中心部の方へ歩いていった。


 景色は違う。

 それでも、忘れ得ぬ故郷の情景が、この村に重ねられた。 


 すぐ脇を、まだ小さかった弟が走り抜けて、それから振り向いた。

 あふれる笑顔で手を振る弟に呼ばれている気がして、ノアは駆け出した。

 足がもつれそうになりながらも、飛び跳ねている弟に追いついてその手を握ろうとしたとき、弟の幻影が霧散して風に流れた。


 同年代の子どもたちが、ノアの周りに集まってきた。

 また消えてほしくなくて、彼らの幻影に触れないように過度な気を配る。

 ノアを連れ出すように、皆が村の外へ走った。


「ま、待って……!」


 ノアは彼らの後を追う。

 雪など積もっていない、春真っ盛りの村の情景が、ノアの走るよりも遥かに早く流れていった。

 

 走って走って、村の境界まで来たとき、突然、その先は自分の行って良い所ではないと予感して、ノアは立ち止った。

 子供達は皆、そのまま村の外、いや、そうではない世界どこかへと消えていった。


 行ってはいけない、けれど置いて行かれたくなくて、ノアはその先にある白い光へと手を伸ばした。

 その時、背後から懐かしい笑い声が聞こえた。

 振り返ると、そこにあったのは一軒の家。

 辺りはすっかり暗くなって、その家だけが異様に輝いて、暗闇の中に唯一浮き上がっていた。


 ノアは扉をわずかに開け、中の様子を覗いた。

 ほんの少しの隙間だったのに、どういうわけか家の中全体を見ることができた。

 その数瞬後、ノアは扉を開け放つなり、中にいた家族の輪に飛び込んだ。


「――父さん、母さん!」


 モッコウバラの束を囲んで、懐かしい両親がそこに座っていた。

 今日はまさしく、自分の誕生日だったということを、ノアは今更ながら思い出した。


『遅かったな、ノア』


『ずっと待っていたのよ』


 優しく微笑む両親は、そう言っている気がした。


「ずっと、ずっと会いたかった! でも、もう会えなくて、それで……」


 ノアは両親に抱き着きたくて、それでも触れたらまた消えてしまうから、中途半端な格好で震えていた。

 この再開を、何度望んだことだろうか。数えきれないほど夢の中に出て、そのたびに消えていった。

 今回も夢ではないかと一瞬考えたが、ウサギを追っていた記憶は本物だったし、冬とは思えないほどの暖かさも確実に感じていた。

 だから、現実に現れたこの奇跡を、決して壊したくなかった。


「ねえ、どうしたら、また一緒にいられるの?」


 ノアは懇願するように、両親にそう尋ねた。

 両親は何も言わず、ただ笑顔を崩さないでいるだけだった。


 ノアは泣きそうになりながら言った。


「一緒にいたいよ。ねえ、僕も一緒にいさせて」


 それでも、両親は答えなかった。

 

 明かりが、風に揺れる蠟燭のように、明滅した。

 それに呼応するように、家や両親の幻影も不安定に揺らめいた。


 今にでも消えてしまいそうで、しかしどうしてよいか分からなくて、ノアは思わず手を伸ばして、両親に触れてしまった。

 その瞬間、すべての幻が消滅した。


 元通りの、雪が降り積もった村の跡地。

 肌を貫く冷気と、灰のように舞う雪。

 さながら、そこは戦火に焼かれた廃墟だった。


 たった一人の世界に、ノアの慟哭が木霊した。

 

「どうして、どうしてこんなことになるんだよ! 僕が何をした、皆が何をしたんだ! どうして僕は、独りなんだ!」


 目の前を、小さな影が走り抜けた。

 ノアは腹いせでその影へ槍を投げた。

 槍が当たった鈍い音と、影の短い悲鳴が聞こえた後、雪には流れ出た血が染み込んだ。


 近くで見ると、それの正体がまだ小さな子鹿であることが分かった。


「もしかして、コイツ……」


 脳裏に、先程の子鹿の姿が蘇った。

 心配そうに見つめるあの視線が、ノアの心を切りつけた。

 

 槍も置き去りにして、ノアはその場から逃げ出した。

 一刻でも早く、あの鹿から離れたかった。

 雪で何度も転びながら、生涯で最も速く走った。


 胸が絞られるように痛く、足が鉛のように動かなくなった頃、気が付けば洞窟へと戻っていた。

 結局、獲物もモッコウバラも手に入れることができず、無駄に走り回っていただけで終わった。

 洞窟の壁に背中を預けて座り込む。

 これ以上は少しも動きたくなかった。

 

 

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⑤ノアの夢 天片 環 @amahiratamaki13

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