第1話 天使と出会い、悪魔と別れた。

 春が来た。高校生になった。


 新しい校舎こうしゃ、新しい制服せいふく、新しい私。


 私は、生まれ変わる。心の整理せいりがまだできていなけれど、きっと、きっと私は生まれ変われる。


 ……入学前まではそう思っていた。だけど私は、教室に入った途端とたん愕然がくぜんとした。


 うでにはつばさ下半身かはんしんは鳥のあし金色きんいろ短髪たんぱつ美麗びれいな女生徒がいたのだ。


 見覚みおぼえがある、どころの話じゃない。私にいや記憶きおくえつけてきた、その筆頭ひっとう


 もちろんその人は、アラナ・チャーショさんだ。椅子いすに身をあずけたアラナさんは、こちらに気付いた瞬間しゅんかん、目を大きく見開みひらいておどろいた。が、すぐに、獲物えもの捕捉ほそくした野生動物やせいどうぶつのように、こちらをするどにらみつけて、にやりと口角こうかくを上げた。


 全身の力が抜けた私は、教室のとびらにもたれかかった。


 いまだかつて、これほどの絶望感ぜつぼうかんあじわったことがない。そう思った。


「かわい子ちゃん。そんなとこで何してんのー?」


「え……?」


 声がした廊下ろうかの方を見ると、そこには、真っ白な長髪ちょうはつを二つにたばねた女の子が立っていた。彼女の耳をよく見るととがった形状けいじょうをしているのがわかる。エルフぞくだ。


 私は、胸を打たれた感覚かんかくおちいった。


 彼女の美しさは、たとえるなら天使てんし絶世ぜっせい美女びじょではなく、天使。


 ……天使だとすると、美しいという表現自体ひょうげんじたい適当てきとうではないかもしれない。どちらかというと、可愛いという言い表し方がピッタリだ。


「何さ、人の顔見るなりボケーっとしちゃって。……ん? もしかして……」


 彼女は、何かに気が付いたのか、口もとをさっと手でぬぐって、おそるおそるその手に目線を落とした。


「……はーっ! よかったー! セーフ! やけに見つめてくるから、ご飯粒はんつぶが口についてるのかと思ったよー! だましたなー、このこのっ!」


 そう言って、彼女はひじを私の脇腹わきばらに当ててきた。


 く、くすぐったい……。


 私は、快活かいかつすぎる彼女を直視ちょくしすることができず、「ご、ごめんね」と言い残して、この場からはなれようとした。……が。


 ガシッ!


 ガッチリと、それはもうガッチリと、手首てくびをホールドされてしまった。


「待たれいっ!」


「えぇ……?」


「名を何ともうすっ!」


「名……? ……ああ、名前。えっと、マナ。マナ・リリックです……」


 ひかえめをきわめた自己紹介じこしょうかいにも、彼女はオーバーリアクションでかえしてきた。


「ひえー! マナちゃん? こんなに可愛くて、そんなに可愛い名前なの?! はあ……天は二物にぶつあたえちゃったかー。あたしとは大違おおちがいだね! あー、あたしも神さまに優遇ゆうぐうされたいなー」


「あははは……」


 社交辞令しゃこうじれいバレバレのかわいた笑い声を出した私は、今度こそと思い、再び自席じせきへと歩き出そうとする……だがしかし。


「ちょ、待って待って!」


「はあ……」


「マナちゃんは、勉強とかスポーツも万能ばんのうなのかな?」


「……どちらも万能と呼べるほどひいでてませんが」


「むー。なーんかかくしてそうだけれど、のうあるたかつめを隠すっぽいけれど、ま、いいや。ちなみにちなみに、あたしはスポーツ万能タイプっ! 中学時代は、陸上りくじょうで男子と良い勝負してたし、その他のスポーツもそつなくこなしちゃうんだー! ……そう、あたしは天才なのよ!」


 万能とか、天才とか、よく自分で言えるなあ……。


 私だって勉強は得意とくいな方だという自負じふはある。でも、そんなこと、誰にも言えない。


 目立っちゃダメ。アラナさんがいるかぎり、目立っちゃダメなの。


 勇気を振りしぼって、私は彼女の顔を直視ちょくしした。最初さいしょ

視線をひかかれたのは、ぱっちりとした目だった。まつ毛が長くて、ひとみの色は思わず吸い込まれそうになるようなエメラルドグリーン。鼻筋はなすじもすっと通っていて、口もとも小柄こがらで可愛らしい。やっぱり彼女は天使だ。


「私と友達になってください」


 不意ふいに飛び出した言葉だった。一瞬いっしゅん、誰が言ったのかわからなかった。


 だけど、目を見開いた彼女を見て、私が言ったのだとすぐに理解した。


「ご、ご、ご、ご、ごめんなさいっ! 私なんかが急にそんな高望たかのぞみを……」


「いや、えっと……」


「……じゃあ、私はこれで!」


「ちょっと待ってよ!」


 私は、彼女の制止せいしを振り切って、廊下ろうかへと飛び出した。チャイムが鳴るまで席には着けなかった。




 ホームルームに入っても、うわの空だった。ぼーっと、ただただぼーっと、ベランダ側の窓から望める青い空と白い雲をながめていた。


 あーあ。こんなにも空は青いのに、こんなにも雲は白いのに、こんなにも世界は安穏あんのんとしているのに。一体、私は何をしているんだろう。


「次は……アラナ・チャーショさん、自己紹介を」


 クラスの担任の野太のぶとい声で、私はわれに返った。ああ、いまは自己紹介の時間だったかな……。私も自己紹介させられ……はっ! アラナさんの番?!


 教室の中心で、アラナさんが「はい」と言って立ち上がる。座席すらも真ん中。きっと、アラナさんはクラスの中心人物ちゅうしんじんぶつになる宿命しゅくめいなんだ……。


「アラナ・チャーショ。私のことで取り立てて話すことはないわね。だけど、紹介したい人はいるから」


 話しながら、突然、私の方を向くアラナさん。そのまま、私をびしっと指差した。


「彼女は、マナ・リリックさん。可愛いでしょう? ね、可愛いのよ、彼女は。……性格の良い私から一つ、クラスの男子に忠告ちゅうこくしておいてあげる。彼女は男に興味がない変わった子なのよ。だから、あの見てくれに騙されて告白しても無駄ってこと」


 呆気あっけにとられるクラスメイトたち。それは、本来、注意すべき立場のクラス担任も同じだった。


 私は、うつむくしかなかった。うなずくことはないけれど、俯くしかなかった。


 これから三年間、下しか見れないことが確定かくていした。


 また始まっちゃうんだ。あの日々が。


 静まり返る教室。誰が静寂せいじゃくやぶるのか、一同はそう思っていた。そのときだった。


 廊下側の後ろの席から、ばんっと机を叩く音がした。黙り込んでいた者たちが一斉いっせいに振り返った先には、かの天使が、ついさっき話をした彼女が、この空間でただ一人立ち上がっていた。


 彼女は、激昂げきこうしていた。表情を見ればすぐにわかった。


「黙って聞いてたら。あたしの友達を随分ずいぶんおとしめるようなことを言ってくれたね!」


 気の強いアラナさんは、天使さんをにらみつけ、ひる素振そぶりを見せることなく言い返した。


「貶めるだなんてとんでもない。私、優しいから。私は忠告してあげただけよ。私、優しいから。言葉の意味をき違えて、そのことを自覚じかくしないままに、あろうことかこの私を非難ひなんするとか……実に馬鹿馬鹿しい。あんたが言ったこと、そっくりそのまま返してあげたいわね」


「へえ? 言ってくれるね。じゃあ、あたしだって言わせてもらう! あなたの言っていることが真実か否かはわきに置いておくとして、かくいうあたしも女の子がすきなの! 女の子がだーいすきっ! あたしは、女の子が女の子のことを好きというのが、変わっているだなんて思わないし、そのことを特定の個人を揶揄やゆするための材料として使っているあなたは間違ってると思う!」


 文字通り火花ひばなったのかと錯覚さっかくするくらい、二人の口論こうろん激化げきかしていった。


「わかった。わかったわ。このさいだからはっきり言ってあげる。あんたたち、変よ! 何度だって言う、変! 女が女を好きになるなんておかしい!」


「おかしいって、あなたがそう思うだけじゃん!」


「私じゃなくて、他の人もそう思ってる! 少なくとも中学のときはそうだった!」


「それはあなたの周りにイエスマンしかいなかったからでしょ! 自分が嫌われたくないから、本心をいつわって、にせ指導者しどうしゃまつりあげる人たちしかしなかったんじゃないの!」


妄想もうそうよ! そんなものあんたの妄想よ! ……それにっ! 私が言っていることは、歴史れきし証明しょうめいしている! むすばれてきたのは男と女、結ばれるべきは男と女! そういう風にしてきたから、いまのあんたたちが存在そんざいするのよ!」


 止まらない。止まらない。言いあらそいが止まらない。


 私は、何もできなかった。彼女は、天使の彼女は、私のためにたたかってくれているのに。私は、立ち上がることができなかった。


 援護えんごもなく、かといって批判ひはんもなく。完全に二人の世界だった。私は、口喧嘩くちげんかならアラナさんに勝てる生徒はいないと思っていた。天使さんは自分というものしっかり持っている。だからこそ、あのアラナさんにも引けを取っていなかった。


「古いっ! 考え方が実に古いっ! まさに前時代的ぜんじだいてき思考しこうっ! 昔がああだったから、いまもそうでないといけないなんて、くさった価値観かちかんだねっ! 時代が変われば常識じょうしきも変わる。そりゃある程度ていどのモラルは変わっちゃダメだけれど、それでも色んなことは変化していく。昔じゃ考えられなかった思考も、昔じゃけむたがられていた思想も、時代とともに変わっていく。それは百合ゆりも同じっ!」


「くっ……」


 引けを取らないどころか、あのアラナさんが圧倒あっとうされている……。こんなこと、いまだかつてあっただろうか。……ううん、なかった。だって私も初めて見たから、アラナさんの苦虫にがむしつぶしたような表情を。


 誰がどう見ても劣勢れっせいに立たされたアラナさんだったが、最後の最後まできばいた。


「どんな言葉を並べようと……あんたは間違ってる! みんなもそう思うわよね?」


 同調どうちょうを求めるもむなしく静まり返る教室。


 ここでようやく、先生が「アラナ・チャーショ、ちょっと来い」と言って、先生とアラナさんは廊下へと消えていった。


 張り詰めた空気から解放され、教室は天使さんをたたえる声であふれかえっていた。


 天使さんは「あはは」と照れるばかりで、大袈裟おおげさよろこんだり、い上がったりはしなかった。


 ホームルームが潰れた空間は、もはや無法地帯だった。クラスメイトが思い思いの時間を過ごし、なかには私に話しかけてくる子もいた。


 こんなこと中学ではなかった。だけど私も、高揚こうようはしていなかった。きっと天使さんは私と同じ気持ちだったのかもしれない。


 アラナさんが連行れんこうされてからしばらくして、担任の先生が帰ってきたけれど、彼女は一緒じゃなかった。


「彼女は退学たいがくすることになった」


 先生の言葉に、私は全身をかみなりに打たれたような感覚になった。


 歓喜かんきくクラスのみんな。彼女がいないということは、新しい生活を送れるチャンスが到来とうらいしたことを意味していた。それでもなお、私の胸には複雑ふくざつな思いが渦巻うずまいていた。

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