第2話 微笑みの貴公子



『緊(きん)即(そく)縛(ばく)! 若彦、あなたの無明を縛してやるわッ!』

玉姫は、何もない空中から、走縄を取り出すと若彦を息つく間もなく菱縄縛りに縛り上げ、玄利が消えた果てない底に細い綱だけで身体を支えると若彦の身体を突き出した。

「ちょっと、玉姫さ、何をするんだ?」

(生まれて初めて、俺、女に縛られたわ。ちょっと、俺、感激……かも。痛み入りますや。)

「いや、いや。そんなんじゃなくて、コレすんごい怖いんですけど? 僕、下手したら死んじゃいますよ。」

『ええ? 怖いですって? 若彦、玄利の方が、今きっと怖い思いをしていると思うわ。』

「いや、そんな、そんな事ないんじゃない? 今は、俺、自分の事しか考えられないのですけれども。」

『ええ? そんなの、嘘、でしょ? うふふ。』

玉姫はキリキリと縄を引き上げ、若彦の耳元で囁いた。

(面白れぇ、このやり取り。俺……の息子が元気になってしまいそうだよ。)

「若彦、あんた、小さい頃から父親に修験の道を教えて貰っていたはずよ。こう言う修業の時はなんつぅ――んだっけ?」

縄に自分の全体重が乗っかり肉が裂けてしまいそうだ。

「はぁ……? 修験道の谷覗きの修業の事を言っているのか?」

(タイプでもないお転婆な玉姫に縛られていて、天へも登る気分とか、俺とした事が不覚。)

『ん? あたしの、問答には「はい」って応じるのでしょう! 「はい」と言わな、続けるわよ!』

「いやいや、俺、この穴を覗いて玄利を助けようと思ったけど、こんな事されたら、余計にこんな穴の中、覗くのなんて御免だ!」

『はぁあ、あんた、さっき白龍神社で何をお願いしてのか、よぉ――く、思い出してごらんなさいよ!』

「は? 白龍神社で何をお願いしたかって? ……ああ、この箱根の地に赴任してきて、パークレンジャーとしてこの地を護って行きたいと思いますって、願をかけたと言うか、決意表明しただけさ。神社って、願をかけると言うよりは、決意表明する礼拝の場だろう?」

『……だからこそ、若彦、玄利の方が、今きっと怖い思いをしていると思う。そんな、玄利を助けるのも、この箱根の地を護る事に繋がるのよ!』

「は? 一人の男を助けるのが箱根の地を護る事に、何が繋がるんだよ!」

『ふん、人も自然の一部だって事、忘れているのね、若彦。あなたが自然をエクスタシーを感じる位好きなのは知っているのよ。自然と織りなす人間の歴史も大好きでしょう?』

今まで、きつく引き寄せられていた縄がパッと手放され、そのまま穴の下へ落とされると思いきや、ぐっと引かれた。縄が肉に否応なく食い込む。

「つぅ……。そうだろうけどさ、玉姫……。もう……俺……。」

『なぁに? なぁんだって?』

(このっ、鬼女めぇ――。らめらめ、だってば。)

グワンと視界が揺れる。暗い底なしの穴が若彦を何か良く分からない重低音で誘う。

「あうッ、もぅ――玉姫。「はい」ご、ごもっともです。」

(もう、ぶっちゃけ、何でもいい、この際、この……痛みや恐怖と引き換えなら、嘘でもなんでもついてやるさ。……ちょっと、だけ。綺麗な玉姫に侵されてる、この充足感はやめられないが……これ以上はしたら俺、死ぬぞ。いいのか、いいのかぁ……よ。)

『そうよね、良かった、若彦。あなたの無明(煩悩)はいつでも、この程度の痛みだけでは満足するはず無いのです。……あたしを、この国を護る為ならば死をも辞さない勢いで……あたし、いつも心の底から敬拝しておりました。』

「なんだよ……その、言い方……、だからお前は、いつから……俺の……うう。」

ズッ、ドドドドドドドッ。

大きな横揺れが大穴の淵に居る二人を襲う。

『うふ、うふっふっふ――、この大地の大揺れは、我が真人の目覚めの予感。きゃはははン。』

ニヤリと微笑む玉姫を尻目に、縛られる若彦の髪は徐々に腰まで伸び、煌めく湖水の色に似た花緑青に変化した。

『此は如何に。(これはまあ、どうしたことか。)しかし、良い髪質でそれでいて長い。わしの神力は満ちているが、その振動に上手く耐えうる依りましよ。依りましの人よ、我が囁きを密かに聞いておくれ。このわしの神力に満ちた花緑青の髪は決して切らないでおくれ。先皇のように、下世話な者の手にかかりとう無いのでな。』

肌色は元の若彦よりも明るく艶のある小麦色へ変化し、腕を曲げれば雄々しい力こぶ。瞳の色は薄青に変化した。

全身が全く別物に変化した若彦は余震に揺られつつ辺りを見渡し、腕の縄は早々に解けてしまったし腰に縛られている緩い縄に唖然とした。

『おはやう。ニギハヤ様。』

恭しく、玉姫は頬を赤らめ言うと、ニギハヤを緩く束縛していた走縄を解し、とき放つ。

『……。そのこわづくる女人は玉姫か。』

『はい、玉姫でございます。』

深いため息をつき、すうっと深呼吸したニギハヤは、不愉快そうに玉姫を見つめた。

「やっと、縄を解いてくれたのか。縄を解かれ、わしの霊も直ぐに若彦になじ……む。……玉姫、玄利を助けるとは、この先、わしらも助かるかな。」

『私達が……、何から助かると言うのです? あたしはこうやって、ニギハヤ様にまた再び逢いまみえる事が出来、とても幸せです。』

見かけは、ニギハヤなのだが、瞳の輝きは若彦の霊そのものに戻った。

『若彦、あなた、少し自分自身が変わったとか、思わない?』

「は? 俺、どこか変わったのか? むむむ……きゃ!」

咄嗟に、股を隠した。

『なにが。きゃ、よう。うふふ、今更ッ。』

高笑いする玉姫。

「どうしてだ。俺、素っ裸じゃないか。」

『スッパでおやりなさいって事で、よくねぇ?』

「忍び(すっぱ)でって、俺は素っ裸じゃねぇの。この格好の何処が忍びじゃい!」

これ以上、玉姫にはついてイケナイと思う。

さらりと風になびかれ、花緑青の髪が視界に入る。

「ナニコレ、俺の髪が青緑色の髪? そしてそして、小麦色でムキムキの身体……。本当にこれが俺なのか?」

(胸筋を左右に動かせるじゃないか! うわ、超絶感動!)

『はい、と……言うかぁ。』

意味深気に視線を泳がせつつ、何処から持って来たのか、紺色の古めかしい衣装を手渡した。

『正確に言えば、今のその姿は、若彦、あなたの過去世の尊き姿……。』

「は? 過去世の尊き姿だって? これが?」

『……尊き姿に、限りなく近くて、限りなく遠い……まだ、未完成なのよ。駄目ね、今は我が真人、ニギハヤ様の……荒魂の封印を解除しようとあたしら動いているはずなのに。全く進まないのよ。どうしてかしら?』

『僕も居ますよ。』

「え? 今、何か、風の声が聞こえた……男の。」

『ああ、雷光よ。あなたの背後にいるわ。雷光は雷の神がひとり。それにしても、なかなか上手くいかない。って、言うかまだまだ、あたし達のプロジェクトは始まったばかりなの。それもこれも、若彦、あなたの思考がまだ上手く、鬼道に乗っていないのがそもそもの原因の様な気がするわ。根の国、いえ、黄泉の国へは……このままでは、行けない。あなたの花鳥風月をいつ呼び出す事が出来るのか。あの忌々しい玄利は簡単に呼び出せたと言うのに。はぁ。現世って全く、ままならないわ。』

「何故、玉姫がため息つくのさ。根の国? 黄泉の国へ玄利は行ったのか? 俺の意識が軌道に乗るって、どう言う事だ。」

『若彦、私のため息? あなたの「は? 」と同じようなものよ。さあ、着替えて、玄利のもとへ参りましょう! まあ、細かい事はそれからでしょうね!』

「参るって? いや、その前に鬼道とかなんとか、しなくて良いの、問題を先延ばしにするのは嫌だよ俺は。本当にこの穴の先へ行けば玄利に逢えるんですかね? 黄泉の世界ってさ、あの世の事じゃね――の、俺が死んでそこへ行って何か利益はありますかね?」

もぞもぞと、何故か着方が解る古めかしい衣装を身に着け、産まれたばかりの赤子の瞳を玉姫に向ける。

(面白れぇから、行ってもいいけどさ。玄利も助けられるし。)

『ええ、もちろん! この穴へ飛び込めば、花鳥風月と黄泉の門渡りの結びもしていない不自然な玄利をこの穴から連れ戻せる事が出来るでしょ! 出でよ、我が花鳥風月、蛇比礼、蜂比礼……。』

玉姫は、背の腰に巻き付けていた二枚のヒレをほどき、宙で左右交互に八回転回した。するとヒレの先は空色の玉になり、玉の先にちょいとヒレの先がふわりと飛び出した。

(まるで、イリュージョンだな。)

若彦は胡坐を掻き玉姫の次の動きを注視している。

「……。」

『……えっ、あれ?』

あれほど、荒れ狂っていた余震がぴたりと止み、重苦しい空気さえ、振動を止めた。

『終わったか?』

ニギハヤは立ち上がった。

『ニギハヤ様。終わったか? とは、如何なることですか?』

『玉姫。そなたは完全に忘れている。若彦に眠る我を起こして、なんとする? ……風光の気配がするな、あれ程あの時代に憎しみ合った敵方の王だと言うに。君はリライトされたモノにココロまで落ちぶれたのか。全くもって、わしは口惜しい。そなたほど、美しく勇猛な武人は他に無い。』

『ニギハヤ様、その、聞き覚えのあるお声で、女人を褒めるにはあるまじきお褒めのお言葉。今もなお、あたしの事を君と。あたしを失うに……口惜しくお思いで居てくれるなどと。あたしはとても幸せ者です。』

つい、熱い涙が頬をつたう。

『玉姫、わしは君については特に。この、未知若彦という者の歴史から少しだけだが学んでいるが、風光に操作されたリライトのそなたが、過去に玉姫であった際に詠んだ花鳥風月の記憶を一方的に残しているとは、流れ来た歴史はあまりにも無慈悲なり。……記憶がある事、さぞかし、生きるに辛かった事だろう。なんと、なんと、惨い仕打ちをする者よ。風雷の王、風光よ、いったい貴様は何を考えているのだ。』

風光が居るであろう、玉姫の背後に向かい叫んだ。だが、応答は無い。

『あたしが知っている風光様のお考えはあたしをリライトし、ニギハヤ様を再びこの世に復活せしめんと手助けしてくれています。』

『わしを復活させる……か。天の流れを汲む風雷の王になんの利益があろう?』

ニギハヤは腕組みをして、視線を玉姫から離した。

『こうやって、風光様にリライトされましたがあたしはあたしです。あの時のあたしと変わりないそうなのです。この事以上、風光様が何をお考えになっているのかは、巫女のあたしでも分かりかねます。』

『ふむ、元々敵王の風光が、わしを復活させると言う事も不可解な事だが。今世において、わしを復活させるなどと言う事も、それは間違いではないのかな? ……わしはいま少しこの者の知りうるこの国の国史を学ぼう。そして、風雷の王風光が何故、わしを呼び起こしたのかを。この表現が正しいのか、難しいが。』

『間違いですって! ニギハヤ様、それは、どう言う事ですか?』

『ふむ。玉姫、理解出来ぬか。』

 ニギハヤは玉姫の目の前で下衣をまさぐり始めた。

『え、なになに、そこから、何を出すのです?』

興味新々に身を乗り出し、物欲しそうな上ずった眼差しを送る玉姫。


『キェ――ッ。』


地の底から、白和龍王の声らしき微かな音が。

『玉よ。』

『はい? ニギハヤ様、あたしは玉姫ですっ、もはや、待ちに待ったこの瞬間! やっとあたしらはそのような関係に、なれますの?』

『いや、そなたの玉ではなくて、これは、十種神宝が一つ。……生玉。わしの男根じゃ。』

『あらま、ご冗談を。それは、若彦の男根ですね?』

『わしの依りましが若彦、わしは若彦に寄り憑きし、ニギハヤだ。生玉は男根かな。』

『あたしが風光様から教わった布瑠の言……で、ニギハヤ様が呼び起こされ、生玉をば、それでは、死返玉も用いれば、ニギハヤ様は完全復活出来ますわ!』

『ああ。玉姫! わしが、今伝えたい、リライトされた君の間違いとは……。』

男根を左手に持ちながら、玉姫が後生大切に持ってきた男根の石像に目くばせした。

背後で、雷光が素早く印を組み呟き、術を発動させ、藪に消えた。

『ギェエエエエエエ!』

黒雲が嵐を呼び、芦ノ湖の湖面がざわめき立った。

ヒュ。

無風の内に、九つの頭を持つ胴体に尾を持つ巨大な……。

『ニギハヤ様、あれは九頭龍王の、花鳥風月!』

『クズ……? うむぅ。まぁ、そのようなのか、玉姫。』

『では、ささっ、ニギハヤ様、あの花鳥風月に搭乗し、大穴の下、根の国、黄泉の国へ白和龍王を追いましょう!』

玉姫はうきうきと、手招きすると、九頭龍王の花鳥風月がゆっくり浮遊してやって来た。

が、ニギハヤは頑なに搭乗しようとしない。

『どうして、搭乗なされないのです?』

『まだ、そなたは気が付かぬか……これも、リライトされた影響なのだろうな。無念。』

ニギハヤは大きく深くため息をついた。

『玉姫、もう一度聞くが、そなたをリライトした風雷の王、風光は、わしをこの、現世に復活させようとしているのだな。』

キリリと鋭いニギハヤの

『ええ、そうですけれど。今、正に、ニギハヤ様はこうやって、復活されたじゃないですか!』

ニギハヤは九頭龍王の花鳥風月に近寄ると、あちらも首を伸ばし鼻先をニギハヤの手に近づけたが、紙一枚でニギハヤに触れず、後退し、そのかわり玉姫を見つめた。

『えっ、どう言うことなの? ……もしや。』

玉姫は口を手で覆った。


 ドカッ、ドドドドドド。


再び、大きな地鳴りと共に激しく左右に揺れる余震が二人を襲う。ニギハヤはひしと、玉姫を胸に抱くと、ニコッと乾いた微笑みを浮かべ、九頭龍王の花鳥風月を見据えた。

『やっと、そなたにも理解してもらえたか。そう、わしはそなたの「嘘」から化生し、若彦に依り憑きし者。あの、くそ……いや、風雷の王、風光の願はまだ叶っておらんと言う事だ。』

『……はい。風光の願はあたしの願と同じだと思ったのに、いえ、少し違うのは承知していましたが。大王ニギハヤ様になびかぬ花鳥風月などを呼び出してしまい申し訳ございません。』

これまでにない程、玉雪は地面に叩きつけられている様に、暗く落ち込んでいる。

『がっはっは! それも一興。玉姫、そなたが「嘘」をつけば、また、再びわしはこの世に降臨出来るというものだ! なんと、あっぱれな。』

『そ、そんな。……あたしが、また「嘘」で貴方を、困らせてしまうなんて! 不覚。』

『……肩を落とすではない。わしは、そうやすやすと、風光の願に従いとうはず無いと思わぬのか? 玉姫よ。』

ニギハヤは玉姫の肩を軽く二回叩いた。

『未知若彦はニギハヤ様の生まれ変わりであると言う事は確実な事実、あたしの問答で……そして、若彦の無明を糧にあの時代を生きたニギハヤ様のお姿にお戻りになると、確信しておりましたのに。ニギハヤ様に戻ればあたしが呼び出す花鳥風月だって、ニギハヤ様との接触を拒むはず、ありませんでしたのに、どうして……。あたしは口惜しいですわ。』

『玉姫、言ったであろう若彦は我が一族では純度が高い男だが依りまし。これが、口惜しいと申すのであれば、目前に迫る危機を乗り越え、「嘘」を「嘘」と、思わず、苦心を厭わず、その良き心を貫き通せ。……それが、今、わしの願いと、言える確かなモノじゃ。』

玉姫の側を二、三歩通り過ぎ、ニギハヤはその場に倒れ込んだ。倒れると髪の毛は元の黒髪に、身体は少しぽっちゃりとした、古めかしい衣装を着た若彦へと変化した。

『そうよ、あたしは、風雷の王、風光様にリライトされた諜報活動を得意とする巫女……、大王ニギハヤ様が年若く、天の若い男と、アメノワカヒコと呼ばれし頃にお傍で仕えていた。巫女の身でありながら「嘘」でワカヒコ様を死に追いやった恥ずべき巫女……。』

『その名は、アメノサグメ……。』

背後に陰。ぴたりと寄り添い、居た風光が背後から玉姫をぎゅっと抱きしめ、忍び言った。

『「嘘」を「嘘」と思わずって? その良き心を貫き通せって……、勿体ないお言葉。ワカヒコ、いいえ、ニギハヤ様ああああああ! あたし、どうしたら……過去の罪を償え、貴方の望む神意を成就させる事が出来ますか? 貴方は若彦に依るだけで良い筈がありませんでしょう?』

『大震災後、世の立て直しが始まる。ニギハヤの完全復活後のこの世で、お前になら、ニギハヤの願を成就させる事が出来るであろう。』

風光は、玉姫の顎に手をあてしっかりと玉姫と視線を合わせた。

玉姫は、風光の手を振切り横たわったままの若彦に抱きついた。玉姫は幾らでも出そうな、しょっぱい涙と鼻水を止める事が出来ない。後から後から嗚咽が腹から登ってきて、止まらない。

『ギュルルル。』

 九頭龍王の花鳥風月が一つの頭を玉姫に突き出して来た。玉姫の悲しみに寄り添い微かに泣く。

『嘘を嘘とも思わずにって、ニギハヤ様はあたしの事許してくれているの? 分からないけれど今、あたしが出来る事をしなくっちゃね!』

『そうだよね! 九頭龍王の花鳥風月よ! あたしにその力を貸して下さる?』

『ギュル!』

二つ目の頭が、伸びて若彦を咥え飲み込んだ。

『えっ、あぁ、若彦を飲み込んじゃった……。九頭龍王の花鳥風月よ、あなたも白和龍王の様に若彦を強制搭乗させちゃうの? まあ。いいわ! そう、こなくっちゃ! それでは、皆で地底の底の根の国、黄泉の国へ参りましょう。』

玉姫は嫌がって口を開けない九頭龍王の花鳥風月の口をこじ開け、滑り込んだ。

静かに、静かに、九頭龍王の花鳥風月は白和龍王の穿った大穴の中へ降りて行く。


同時刻、新潟県南魚沼、高台に八海山尊神社へ至る龍鳴の階(りゅうめいのきざはし)、大石段があるのだが、そのわきを飾る新緑が美しい桜の木に姿を隠す、龍神の花鳥風月が息を潜め、彼女……がやって来るのを今か今かと、チラチラ頭を出し待っていた。

父親が兼業米農家で八海山尊神社の熱心な信徒である、その子、はぁとの戦士いちごちゃんは戦闘フリフリ衣装で只今、今日の参拝を終え、大石段を歩く。

彼女……の本名は(米土光 こめつちひかる)だ。光が大石段に着た瞬間、龍神の花鳥風月は社殿の裏に飛び跳ね隠れた。

今日もそんな変わり映えのしない日常だったのだが、光の頭に突き刺すような刺激があった。直後、脳裏に赤く九つの頭をもたげた、「絵に描いたように美しい龍」の姿と、「芦ノ湖」という言葉が浮かんできた。

(なんですか? この、イメージは……。)

龍神の花鳥風月は何かの匂いを嗅ぐように鼻面を宙に向けた。

この高台の大石段が龍鳴の階と言われるのは、神社に向かって柏手を打つと、眼前の大石段が木霊して、ここかしこと一斉に鳴り響く。この事を地元の人々は、神の喜びの印と誰ともなしに語り継ぎ、いつの間にか「龍鳴」と呼び、親しまれるようになった場所なのだ。

八海山には古くから龍神信仰があり、開祖・奉賢行者が登拝のみぎり神力により荒ぶる龍を封じ込め、激しい雷雨を沈めたと言う言い伝えもあるらしい。

「ちッ、まさか、この大石段でのこの、お伝え(イメージ)――。と言う事は、龍神がらみの案件ね、コレ。」

はぁとの戦士いちごちゃんのラブリーいちごミルクアロー(弓矢)の弦をびぃんと弾いた。

静寂だった森の中に、弦の音が木霊する。

(私は山神様の守護が強いから、普段は全く聞こえない。神霊の声を聞く、耳をすますのなら……召霊する。この弓矢の音を使う。だが、今日は使用する前にどうして、聞こえたのかしら?)

((光……。))

脳内で、慣れ親しんだ優しい男性の声が牽制する。

「奉賢様……あっ、イケナイ。ラブラブ♡ 戦闘モードチェンジ! 私はいちごの世界のお姫様! はぁとの戦士、いちごちゃん! 龍神様、今日も頑張ってきまぁ――す!」

『リュ。リュ、リュ。』

苔むした木々の間にとても可愛らしい龍鳴が? 響く。社殿の陰に潜む龍神、花鳥風月がいちごちゃんの背中へ語りかけたのだ。

『ハハハ♡ いちごちゃん、今日も可愛いね。お仕事終わったら、僕の元へ戻ってくるんだよ!』

龍神の花鳥風月は微笑みを浮かべ、その場に胡坐を掻き座り、八海山から吹き降ろされた風を背中のヒレに感じた。ピリピリとする風で、花鳥風月は首をさも嫌そうに振ると、鼻先を南に向け立ち上がったが、また、座りなおした。

(何か、動き止まった気がする。龍神様かしら?)

光は社殿の方向へ振り向きお辞儀した。

この後、光は新潟姫と言う名のいちごを㏚すべく地方へ向かう予定だ。

戦闘衣装はふわっふわのゴスロリ、フリルのいちごドレス。

いちごちゃんはキュートな赤が印象的な先が丸いハイヒールで大石段を駆け降りた。神社の出口に、黒塗りバンが光を待っていた。

車に乗り込むと、運転手兼、マネージャーの矢切が不機嫌そうに後部座席に今座ったばかりの光にぼやいた。

「今日の現場、長野へはギリギリ行けるかもしれませんが、明日の東京へはちょっと。」

「ちょっとって、えぇ? なに? 先方のドタキャン? え、なに、どうしたの、八切?」

「落ち着いて下さい。どうしたも、何も、いちごちゃん、また、ニュース見ていませんね?コレ、見て下さいよ。こんなんじゃ、俺の自慢の四駆でも行けやしないでしょう。」

八切はスマホの画面を突き出して来た。

『明朝に起きた大震災により、被災現場周辺県境は下り車線三時間の渋滞となっており……。』

「あ、ここ! 私、見たことあるわ。」

「ああ、ここですか? ここは、箱根の芦ノ湖ですよ。あの徐福の不死の山、富士山の近くのね。富士が不死の聖地ならば、その足元には根の国、龍宮城の入口があるはずです……ブツブツ。」

まだ何か呟いている八切。

「八切、竜宮城とか、なんとかは解らないけれど、あのイメージは、やはり何かある。八切、今日と明日の仕事はキャンセルして、私達は箱根へ……いえ、やっぱり、コレも何かのご縁でしょう! 今日の現場だった長野へ行きましょう! 行けば何かきっと分かるわよ。」

「いちごちゃんそれは本当ですね!」

「もっち、もちーの、もちもちいちご大福小裂! さっき、大石段の所で天啓を受けた。芦ノ湖に深紅の九つの頭を持つ龍神を見た。」

「はい、それでは、何かあってからでは困りますので、私、今一度、自宅へ帰り、身支度を整えここに愛車で参りますので、いちごちゃんも一度ご自宅へ戻られ、身支度を整えて来てください。」

「あーーさんは、私のマネージャーでしょ、私を家まで送るべし。」

「あっはははははっ。そうですね、つい。副業のマネージャー業忘れていました。……というか、いちごちゃんのご自宅はここから、徒歩五分くらいですよね? 自分で歩いて行って下さい。」

「いや、私ははあとの戦士いちごちゃん。ヒールでがに股走りは許されません。」

「面倒ですが、了解です。」

矢切と光は鋭く暖かい視線を合わせ、両者言葉なく神社を後にし、車を注意深く走らせた。

  

  白和龍王の花鳥風月が穿った穴は大きく深い、九頭龍王の花鳥風月も巨大だが、まるで風に翻弄される牡丹雪のよう、ふわりふわりと深淵へ向かっているようだ。

九頭龍王の花鳥風月の内部は広く紅いステンドグラス、光輝く搭乗空間となっていた。

前面には巨大なパネルがあり、穴の外、箱根芦ノ湖の景色がリアルタイムで映し出されている。大地は大きな皺が寄り、隆起し、桟橋はズタズタに破壊された。

 若彦はまだ気を失っていたので、いや、意識はハッキリしており、玉姫の優しさに委ねていた。玉姫は若彦を傍らに寝かせるとヒレをかけた。

『あの、地震が、ニギハヤ様を復活させる為にあたしが無理やり展開した呪術で起きた事……山地の所々を破壊し、こんな悲惨な事態を招いてしまった。あたしがやった事。風光、雷光、本当にこれで良かったの……かな。』

ある意味、玉姫がいや、風光と雷光と玉姫で練り上げたニギハヤ復活の儀式の前夜祭なるものなのだった。

『自分で起こしてしまった以上、気を緩む事は出来ない。何も言えない。涙すらも出してはいけない。』

泣きたい自分に言い聞かせる。

(あたしのせいで、ニギハヤ様を殺してしまった。せめて、神転生者となり再び現世に現れた若彦を完全なニギハヤ様へとお戻しして、これから行く黄泉の国へ送り届けなければ。……現世の多少の犠牲は仕方のない事……。)

『また、自分のココロに嘘ついたな。玉姫。そなたにとってお涙ぽろぽろは、過去世でも一生来なかっただろう? それに、今からもだ。だので、泣く事くらい、我慢せず泣け。』

ポンポンと、玉姫の肩を二回叩き、コックピットに深く座るニギハヤ。

『ニギハヤ様!』

『もう、泣くのも、勿体ない程、頼りがいがある男がすぐ隣に舞い戻って来たのだからな。そうだろう? 玉姫。』

『ああっ、きゃぁ! ニギハヤ様、また、壮絶な痛みを! いやっ、ごめんなさい!』

『うるさいぞ、少しは静かにしないか。まずは、わしの隣のコックピットに座るのだ。話はそれからだ。』

おろおろニギハヤの前や後を走り回る玉姫をそっと抱き寄せ、頭を撫で、無理やり、隣のコックピットに座らせた。

『この……クズ……龍王の花鳥風月のスペックは?』

ニギハヤは機器に触れず、玉姫に問うた。

『この九頭龍王の花鳥風月のスペックは……。』

『玉姫。』

じどっとする視線と今までに聞いたことのない低い威嚇する声色でニギハヤは振り向きもせず呟いた。

『はい?』

『玉姫、そなたから見てわしは、子々孫々卑下されるような、存在か?』

『ええっ! あたしは過去も今も、国津神の大王ニギハヤ様をそのような目で見る事も、思う事も、ましてや、子々孫々までも卑下するなどと、そのような事は決してございません!』

『ああ、どこまでもリライトされし、従属的な巫女に成り果ててしまった、玉姫よ。……やはり、リライトされただけはある。なんと惨い、この卑しめを。……やりおる風雷の王、風光よ。』

はっとして、玉姫は背後を見たが、風光の気配はしない。

(あの二人は、ここへは来ないのかしら?)

『ニギハヤ様。あたしは、リライトですが貴方の巫女の玉姫で間違いございません。この魂、何度生まれ変わっても貴方様の下でお仕え致します。』

『……、玉姫、先にも話したが、今のわしはリライトのそなたよりも不完全な存在。この花鳥風月もだ。まるで、泥船と言っても良いだろう。自動制御する為に少し確認したが、わしの不完全さもさることながら手動でも……落ちる所に落ち着くだろう。』

ニギハヤは玉姫を横目でチラリと見ると、キーボードから手を離した。

『玉姫、やはり、わしはまだ気乗りせん。このまま、この花鳥風月は黄泉の奈落に落ちる。次に逢う時も、そなたがわしを見つけてくれ。さぁ、目を閉じるのだ。』

『はい……。次も必ず。』

玉姫は硬く目を閉じた。肌で感じた。この花鳥風月は急降下、速度が上がり、仕舞に花鳥風月の機体が粉々に砕けキラキラと輝き、穴の底から吹き上がってくる風に、地上へ舞い上げられ消えてしまう。

 

  まだ背丈の低い若草が生い茂る荒野に春の訪れを告げる梅の花咲く樹木が所々に植わっていた。

「春は、女人が最も天女になる時期よ。」

法師は、手折る事無く、手を伸ばし初々しい白い小花を指先で愛で、そりゃ、帰ろうかと踵を返した。

彼を法師は気が付かぬはずのないのだが、梅の木の根元に色白で背が高く美しい黒髪の一見女人に見える人が倒れているのに気が付き駆け寄り、餅肌の頬を撫でるように叩いた。

「おい、起きなさい。」

「……う、うぅ。」

頭を強く打ちつけたようで、頭がガンガン痛み、身体の節々も細かな擦り傷があった。

法師に抱き起され、眩暈もし、焦点が合わない目を必死に合わせ、ふらりと立ち上がった。

「あの、助けて頂き、ありがとうございます。」

「ん? 何を言っているのか、分からないが、気が付いて、良かった。」

法師は微笑むと、そのまま雲林院へ戻りかけ、足を止めた。

 助けた人が、こちらをじっと見つめている気配に気が付いたのだ。

「どうかなさいましたかな。……おや、その恰好。この都でも見た事がございませんね。とても艶やかな漆黒。この手触りは革だと思うのですが、全く持って宮中でも見たことが無い代物ですぞ。」

法師はまじまじと感心し見つめ、ズボンに触れてきた。

「あはは、お坊さん、何故、僕のズボンをそんなにまじまじと見つめていらっしゃるのですか?」

「おお、上衣も素晴らしい! これは、なんと言う柄、模様だろう。だが、本当に珍しい逸品だ。」

白いTシャツに上着のジャケットにまで手を伸ばされ、べたべた触れられる。触れられながら、辺りを見てみると、どうやら懐かしい田舎の春の匂いがする。鶯の声がそこはかとなく聞こえてくる。

「僕は貴方の言葉が分かりません。」

玄利は、さも困ったかのように肩をすぼめた。

「おや、これは失礼。わしは雲林院の法師。あなたは?」

法師は、片袖をまくりまずは自分を指さし、「素性」と名乗った。

「素性?」

「ほう、そうじゃ、そうじゃ。」

今度は、こちらを指さした。

「長月玄利。」

「ながつき……はるとし。こりゃ、なんと、わしの俗名であった下の名も玄利じゃった。」

下の名が同じと言うだけで、人は急に親近感が湧くと言うモノらしい。あれよ、あれよ、という間に玄利は雲林院へ手を引かれ連れていかれてしまった。

(苔の匂い。ご老人の臭いや、太陽に焼けた身体の艶やかさ。この寺、なんだか、手作り感半端ないな。)

雲林院の門をくぐり、境内に入るうちにどんどん頭が冴えて来た。

(僕は、タイムスリップしてしまったみたいだ。)

法師にお堂へ通され、ゴザの上に座った玄利は野趣あふれる庭、美しく整えられた池を見つめた。

全身総毛立ち、ぶるっと震えた。

「寒い。」

まだ、梅の花咲く初春なのだ。

厚く白い霧が急にむわっと庭全体にたちこめた。梅の樹も霞む。

朝陽が霧に差し込み、白い虹が円形に掛かった。

「いや、あれは、虹なんかじゃない!」

つい、大声を上げ立ち上がってしまった。

白い虹から、玉姫がしきりに叫んでいた白和龍王の花鳥風月が長い二本の髭がぴくぴくと激しく動く鎌首をもたげ、姿を現したのだ。

丁度、白湯を持ちやって来た法師も、ぎょっとしてそれを見、白湯を持つ手に力が入った。

「此は、如何に! わしは座禅もせずに悟りの境地に至るか?」

玄利はまたもや、恐ろしく、全身に電撃が走り、細かい傷も痛み後ずさりしかけたが、右手に持っていた愛用の鞭を握りしめ、息を殺しゆったりと鼻先を近づける白和龍王の花鳥風月に小走りに近寄り、玄利も、つま先立ちをし、ぐぐぐっと顔を近づけ、その艶やかなガラスの鱗に覆われた唇にそっと、左手で触れようとしたが、避けられた。

その二人の姿はまるで、

「長月、あなたは歌を詠みますかな?」

「……?」

また、法師が何か話しかけたのが分かり玄利は法師の方へ振り向きかけた。

「このクソが、我が前後より解き放たれ霧散するのだ!」

法師は煩悩を打ち払う白い獣毛で作られた払子を大きく打ち払い、現代日本語で叫んだ!

驚いたのは、玄利。

「……。」

白和龍王の花鳥風月は大きく口を開くと大きく頷くように口を閉め、しゅんと霧と共に消

「ついにこの日が来た。」

法師は、消えた花鳥風月と風に吹かれた黒髪を掻き上げ頭を振る、一見、女人の様に麗しい玄利を見つめ、

「三界の狂人は狂せる事を知らず、四生の亡者は盲なる事を識らず、生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。」

と、呟いた。

「ああ、それは、空海の「秘蔵空論」と言う詩の一節ですね。人間は何度生死を繰り返しても、また同じ人間としてこの世に生を受け、死んでゆく。しかし、なぜ生きるのか、死ぬのかが分からない。輪廻の流れをいつまでも繰り返す凡夫の姿を、空海自身も自分の中に見出そうとしたと言う。」

法師は頷いた。

(話が通じているのだろうか?)

「……ああ、空海が活躍した時代と言えば……平安時代以降……もしかすると、この時代は平安時代なのですか。」

「平安……平安の京の事か? ここ、雲林院からは少し離れておるが。」

「ああ、やはりそうですか。ですが、法師、貴方が持つその「払子」は、確か鎌倉時代にいえ、まだこの日本に、この平安京に舶来していないはずですが。」

「払子? ああ、ははは……これは……玄利、感慨深いものよ。わしの払子は煩悩を払う……わしは先ほどの「カラ」を一撃で払ってやったぞ! もう、痒みに悶え眠れぬ夜を過ごさずに済みそうさ。」

続きざまに、

「制約を持って、制約を制す。からだの語源は身体が「カラ」だからじゃ、身体はただの霊(モノ)の器じゃ……霊が出てしまえば「空」なのじゃよ。そして、最後に、からだも空へ昇天し、降る。荒れ野の花鳥風月は神転生者の器であり、信仰の具現化した物である以上、その信仰の記憶をたどり時を駆ける事が出来るのじゃ。」

払子をブンブンと、振るい止め祈る。

「カラ? ああ、そう言えば僕が中学生の頃、ノートに書いた翼の生えた一つ目の蛇。そのキャラクターを僕は空(カラ)と名前を付け、空想に浸っていた。」

法師は眼を丸め、ふっと、息を吐き手招きした。

玄利の背後に金色の翼を持つ一つ目の蛇が微笑んだ気がした。

(一つ目の蛇。製鐵に関するモノ。姿に惑わされぬものか。きっと、尊い存在であろう。)

  法師は玄利を連れ、本堂へ戻ると、再びゴザに座らせ、自らも正面に座った。

「今から、わしが玄利、汝に語る事は幾年も門外不出の秘め事として秘しておいた事じゃ。」

そっと、白湯を玄利の目の前へ置いた。

(やっぱり僕にはこのお坊さんが何を言っているのか分からない。)

「その様子、わしの話す言葉が分からぬのであろう。わしも、夢か現か……あの出来事が無ければ、少しも貴方の事を、言葉を理解する事は出来なかったでしょう。」

「……神仏のお告げと言うのはふとした瞬間に降る。玄利、貴方はそのお告げ通り、今まさに、我が所に現れた。」

  

――長い話になるが、もう幾年も前の長月、とても綺麗な栗名月じゃった。月を楽しむついでに殿上人を本堂に招待し月夜の歌会を催し、皆それぞれ、「思うところの」力作を詠み、上手い栗に舌鼓を打っていた。

 だが、わし一人だけなかなか良い歌を詠み上げる事が出来なかったのじゃ。

何故かと言うと、皆は庭の池の上空に輝く月を眺めたが、わしだけ、暗い本堂の奥に引っ込み、夢か現か、不思議な恰好の美麗な青年を眺め、話をしておったからじゃ。

その青年は名を「長月玄利」と名乗った。

 いや、青年と話したのでは無く、何故かそう言われているとわしには解った。

「今度来る時は、……と、伝えて下さい。」

と、わしに言伝を頼むと同時に、このわしが持っている払子の作り方を教えてくれた。

あの青年……玄利の話す事、

「払子は煩悩を払う仏具なのです。しかし、払子が日本に舶来するのはずっと後世、貴方自身はこの世に居ない。だからこそ、僕が先達って雲林院へ訪れたと言う証拠になります。次に僕に会うまでに「払子」を造って下さい。それから、お願いがあります。素性法師殿、ゆめゆめ「払子」は誰の目にも止まらぬよう、秘密裏に床下へ忍ばせ、置いて下さい。そして、その時が来たら払子を使い、僕を……彼を、導いて欲しい。」

と、わしに願いおった。

 わしは払子と言う仏具に煩悩をかき消す、呪力があるのか、試してみたと思い引き受けた。   

皆が寝静まった後、貴方を想い夜なべして作ったもんじゃ。

 何年経っても、貴方はわしの前に現れん。

歌会の度、美しい娘の姿を見ると、貴方の姿が重なり、身悶えしつつ歌を詠んだものよ。

「今こむと いいしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな」

「百人一首の……、確か現代語訳では、今すぐに参りますと貴方が言ったばかりに、九月の長夜をひたすら眠らずに待っているうちに、夜明けに出る有明の月が出てしまいました。……ああ、貴方はその歌を詠んだ、三十六歌仙のひとり、素性法師なのですね。」

「……長月玄利よ、今こそ、我が待ちわびし有明の月は近いですぞ……。努々、空の時を逃さぬように。」

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