幸せな嘘つき女神は俺を知らない
@mittunohikari
第1話 誰も知らない
『あなたを想う、私の気持ちは、終ぞ消える事はありません!』
獣も人も、変わらず元々自然の一部であり、自然と共存していた時代が確かにあった。
その土台の上で、人は命を慈しみ、命を乞うた。
出来るなら、もう一度と――。
(起死回生のチャンスか?)
魂の再生を望む。
((――魂は再生を望む。))
人は獣神を見た。
((――獣神は人を見た。))
神は獣の姿に似ていた。
((――獣は神の姿に似ていた。))
強力な神力を駆使する獣神を遠まきに見ていた人々は獣のごとく四つん這いで泣き歌い田を回り、死者の蘇生を願ったりもした。
それを、「遊び」と言った。
遊び、それは歌舞。
歌舞は、神へ捧げ、人も神も一心不乱に遊ぶ。
歌舞は、神も人も獣も虫も全ての霊を振り、交わる。
((人が心の底から遊び戯れたその時、人は全ての神と交われ神の囁きを聞く。))
人も大自然の一部であり、原子が舞い踊る存在。
そんな、存在が遊ばぬままであるのは、大変惜しい事だ。
――俺はそれを、幼い頃から自然と理解はしていた。親父が山伏だったからな。月山とか、恐山とかあの、独特な衣装で登っていたよ。そんな親父に育てられた俺は月山が好き。
とかく、親父は言っていた。
「神と、遊べ。気を散らすな! ふんどしはきつく締め……て、(頂)け! 己の人生の全てはイベントだ! 全力で取り組む他なし!」
大学で、民俗学、自然科学、考古学をちょとかじるまで全く意味が分からなかった。
神に、とは言わずとも自己の生活の中や自然の中で、歌って踊る。
この単純明快な行動こそ、ストレス社会で、上手くストレスを流し、より良き霊振りが出来、病気知らずの健康体でいられるのだ。
(俺は、一人で自然の中で歌ったり踊ったりはしない。)
『ええ――。あたしは若彦の歌や踊りが大好き!』
「……。」
山の神は女だと聞いたことがある。
俺が、山へ行こうとすると、とたん女の声で風が俺に囁く。
(囁くぐらいなら、姿を見せて、俺を喜ばせてみろ!)
実際の所、山の神は女の子ばかりではない。
俺の実感だ。(古事記の神様かと、聞かれるとそうじゃない気がする。)
生物に雌雄がある通り、神にも、実際、この地球の自然の中にも雌雄は存在している。
または、雌雄以外のモノもある。
まあ、俺は生粋の男として産まれたものだから、今の所、女にしか興味は今の所湧かない。
童貞なんて、言わないでくれよ。
仕事と遊びが忙しくて、三次元の女性とお付き合いなんてしていられなかった。
――もうすぐ俺は、箱根山に着く。
大袈裟なほど、大きなカチ、カチっと方向指示機の音が聞こえる。
「途中、仮眠とったけど、相当疲れているな、俺。」
((音は、空気を振動させ……、時に呼び出すの。))
「俺、疲れているな……。」
(音うるせぇし、幻聴が、いつもより激しい。)
そんな時は休むのが一番だが、ブレーキをかけ、路肩に寄せると煙草を吸いたくなったが、ダッシュボードに置き忘れていた。その代わり、置いてあったちょっと大人なエロ小説を着ていた作業着の胸ポケットにしまった。
(たばこは置き忘れたんじゃない。荷物に全部入れて新居に送った。俺は、今日の楽しみに集中する為に右の胸ポケットに選りすぐった小説を入れ、左ポケットには、運命の女に出会った時に、味わった幸せを入れる為に空けておく。)
携帯から、セーフティ・ムーン・ヴァのボーカル長月玄利(ながつきはるとし)の中性的であり、高く低い良い声と和風の調べのミックスに良く合っている。
「玄利の歌は、俺の魂に響くぜ!」
歌を止め、まだ冷たい初夏の明け方前の空気を胸いっぱい吸い込んだ。
『あなたを想う、私の気持ちは、終ぞ消える事はありません!』
頭上、斜め上から女性の高い声で宣言された。
「いや、俺、そんなに女性に思われる心当たり無い!」
(俺へのストーカー的な事を宣言するの、止めてくれませんか?)
虚空に一人叫ぶ、ダサい俺。
(まっ、どうせ、いつもの風の囁きだろうし。気にする事は何もない! 俺はこれから、森に入り思いっきり人生を謳歌するんだ!)
昨日まで俺は東京で環境相、霞が関で残業多めのお役所務めだった。高層ビルの谷間から自然の中への没入は出来ず。
時折、出張で自然に触れ合う仕事の依頼が舞い込むがそれも、稀で。この度、自分から望んで、ついに、今日から前乗りで箱根入りし、これから箱根の地でパークレンジャーとして勤めを果たす。
「俺は、今日から箱根の自然に溶け込んじゃうんだぜ! やったね!」
(俺は、誰に、言っているのやら!)
一人突っ込みは、興奮した俺の秘密の独り言。
(溶け込んじゃえばさ、良いんだ。俺に女なんて必要ない。)
ある種のエクスタシーを感じる。
これが、親父の言う所の……。
「フッギ。」
なのか? 親父は時々不思議な訛りで俺に話しかけて来たから、この親父の言葉は意味不明なのだ。
この言葉は、トランス状態の事を言っていたのか?
まさか、不義密通の方かと、幼い心をかき乱したもんだ。
(俺は、不義密通の世界と正反対の所で生きているんだ。自然が友達なんだ!)
フッギの意味は今でも不明のままだ。
「やってないから、駄目なのだ。若彦。」
(いやいや、オッサン、無垢な息子にそれを勧めちゃ駄目でしょ。つうか、女を抱いたことの一度や二度……幾多の戦いを乗り越えてきた戦士な親父なら、知りうる境地でしょうよ。)
幼いながらも、俺はそう思っていたかな。
お山から信徒を連れて家に戻ってきた親父はいつも、山の匂いと汗が混じった匂いがした。俺は、私服、親父の側で連れられるままお山で遊んでいただけだ。
そもそも、俺は修験道について、通じている訳ではない。
修験道は自然の中で、己が自身で神の御心に触れ感じ悟らねばならないらしい。だから、俺は知らない。
自然は俺の居場所。
それでも、やっぱり、いくら好きだからって「仕事」となったら、とたん、全てがつまらない。
それにだ、向き合うのはコンクリで塗りかためられた「枠内の」「造られた」自然である。
とは言え、休日に自然の中の一部の俺として、蟻の様に紛れ込めるのはとても嬉しい。
魂踊る。
(なんだか良く分からないが、自然が、山が、森が、川が俺を呼んでいる! この興奮感がまた、たまらない! 俺は今行くぞ!)
「箱根山の神様! 俺、今から入山します! 悪さはしないんで、優しく見守っていて下さい!」
背後にそびえる箱根山を仰ぎ見て、パンパンと柏手を打つ。
未知若彦、三十二歳、――男の周囲の空気の素粒子が若彦を中心にざわめき立ち、見えない波紋を描きすっと、箱根の地へ染み込んだ。
普段、若彦は街中に居る時、神と言う存在をあまり気にしない。
(山や海……、人の手が入っているとはいえ自然は勝手が違う。そこには、人間が科学で解明出来た人工的な流れとは全く別の、俺達が感じるにはシュールな現象が確実にある。神の領域に入る前は、日本人の祖先から受け継いできた礼を尽くす精神は忘れてはならない。単純明快な心のお守りだ。これで一応、何も恐れることは無い。)
三十二歳、遊び盛りの男心は心底浮かれ調子だ。
「誰も知らないと、思っているのは俺だけかも知れないが、新たな遊び場所を見つけるのはいつも嬉しいな!」
パークレンジャーとして赴任先が箱根に決まった瞬間、箱根周辺地図で目星をつけ、わざと若彦は誰も見向きもしない場所から、分け入ると心に決めていた。
余っていた有休も使い、視察もかねて、思いっきり箱根を好きになり遊びつくしてやろう。
箱根観光からかけ離れた場所である、獣道すらない箱根の深山の藪の中を、若彦はまだ夜が明けない薄暗い中を、山刀を持ち分け入っていく。薄い霧が肌を潤す。
鼻孔をくすぐる初夏の草木の匂い、葉から落ちる雫の音。鼻先に感じる細やかな生き物のざわめき。
何を取っても、若彦の好奇心をくすぐる。
自然を全身で感じ、触れあいながら、ちょっと大人なエロ小説を読むのが、若彦の最近のお決まりだ。
「どこで、読もうかな。」
切株か、倒木か、岩か。鮮やかな自然が優柔不断にさせる。
暫く歩いていると、沢に出た。
何やら、小さく、小刻みに空気を振動させる気配を感じ、足を止めた。
「早くぅ! お腹空いちゃった。おいちい、ごはん、食べに行こうよぉ。」
「いやいや、なんか大きな動物がすぐ近くにいる。気をつけて!」
ひょこ、ひょこ、小さな苔むした石の陰から、沢の水を被りつつ、黒と茶色の斑色が美しい艶光りした艶やかで小さな頭が二つ出たり入ったりしている。
(ああ、可愛いな! あれは、ハコネサンショウウオのペアかな。)
森の中は白々と明るくなり、霧が晴れてきた。
胸元から、生態調査に使うメモ帳をつい取り出してしまったが、今日はオフだ。思い直し、メモ帳をしまい、座る場所は無いが、ちょっと大人なエロ小説を取り出し読み始めた。
((侍女のメルティは金切り声を上げた。
「許して! 私は貴方をだますつもりは無かったの。」
「いや、騙す、騙さないも。君は僕がこうなる事を知っていて、僕をはめたのだ。君はそれ相応の――僕からお仕置きを受けなければならない。そう……だろう、メルティ。」
男は、胸元に隠し持っていた短剣を取り出しメルティの芽吹いたばかりの花弁に切りつけた。))
目が先の文章を読むのを拒んだ。
「あいたたたっ、なに、なにすんだ、この男。メルティが可愛そうじゃないか? 俺が想像しただけでも痛いわッ。んん……? おい、ちょっと、待てよ……。」
「これって、割礼って言う通過儀礼に似てないか? んでもって、男を騙したからって、けなげな乙女にすることじゃね――だろ? 割礼やるなら、騙される前に、幼くてケガレ無きうちにだな。……だとしても、俺はこんなシチュエーション、求めてねぇ――!」
「それにだ、こんな残忍な事をする男も嫌いだし、やられっぱなしの従順過ぎる女も、どっちも、俺は大っ嫌いだぁああああああ――!」
明け方の小鳥の囁きは、雑音しか発しない若彦の耳に優しく響く。
「だが、しか――し、最近よくある正義ぶっこいて、俺は誰も彼も、民衆皆を助けられる! って言う、ステレオタイプなスーパーヒーロー的小説もありがちで、どうも、俺は楽しめない。だって、全てのモノを助けられるはずが無いじゃないか。全く感情移入出来やしない。」
(まぁ、現実逃避がしたい時はこうやって、自然の野山に隠れて、そう言ったチョット大人なエロ小説に素晴らしく助けられたりもするけれども。)
「で、でだ。俺の頭の中の全くの現実逃避願望を再現出来るとするのならば、蛇の交尾の様に純粋にもつれ合う無垢で己の気持ちにも、俺にも嘘をつかずに、敏感な所が些細な刺激に対しても敏感に感じ合い、自己も俺の幸せをも実直に追い求め続ける、そんな、素直でボインで赤ぶち眼鏡をツツイッと動かして上目遣いするような、大人な女神を俺の目の前に降臨させろ――い!」
「さぁ、やってくれ! 我が偉大なる山の神様よ! 神様よっ……なんてな。」
胸いっぱいに冷たく美味しい空気を吸い込んで、背中を丸め、ゆっくり吐いた。
森中に、若彦の煩悩を乗せた声と波動がこだまする。
若彦は、チョットした大人なエロ小説の表紙を見直した。
(と、まあ、少し読んでみたけれど。アレアレ、この本、こういう趣旨の際どいものだったっけ? 少しも読まずに買った俺も悪いけれど。俺は、どちらかと言うとあっさりしている内容で、可愛げがあるヒロインとの恋愛イチャイチャモノでなければ、抜けない。)
(はぁ――あ、がっかりだったな。この俺の途中まで読んでムラムラし、半立ちした、この、息子。息子のもやもや感超半端ね――つぅの。また、叫ぶかな。この俺のやるせねぇ、この気持ちを!)
とは、思ったが。
これは、仕方ない。
こんな事は、よくある話だ。
己の欲望に添うエロ小説なんて、己が作成するしかない。とも最近思うし。
静かに本を閉じ、メモ帳が入っている胸ポケットに一緒にしまった。もう一つのポケットは、普段から新たに入る「好きなもの」の為に開けておく、若彦は前を向き、再び歩き出す。
若彦の背後の空気が熱く振動した。
『ふん、何よ、若彦ったら! あたしが折角、苦心して若彦の為に(あたしの為に)探し出した一冊なのに。その、エロ小説はこれからどんどんムラムラする、シーンだったのよ……。え、もう読むのを止めちゃうの? あーーあ、あなたがこの小説の様なコイバナが嫌いだって事心底、あたし分かっちゃったんだからねッ、……あたしはさ、この小説に近い愛情を……。』
若彦の茶色い瞳をじっと、見つめる。
『いえ……もう、良いわ。でも、気づいてくれないのなら、怒っちゃうんだからね!』
『それは、玉、君が戦わずして、己の気持ちに向き合わず、「負け」を認めたと言う事ですか?』
木漏れ日の中、青い髪の毛がキラリと光る。
『若彦へのあたしのこの気持ちは、山だって、川だって、時間さえも越える程、誰にも負けないわ。でも、あたしがついた嘘で、若彦が、いいえ、彼が殺されてしまった事実は変えられないのも、……分かっているけど。』
木々のざわめきの中に、女性の声と男性の声が微かにこだまする。姿は見えない。
『なかなかやるじゃないか。若彦よ。ザ、無意識、日の霊ストレート! それでも、めげない乙女、それが……秘められし玉(霊)の君。』
二人目の男性の冷ややかな声が聞こえてきた。
若彦の背後の藪から美しい青年が二人現れた。
一人は腰まである金髪を紅白の和紙で一つに束ね、前髪からちらりと覗く白い角を牛の様に二本生やしている。先程冷ややかな声で話した男性だ。手を叩き、祈りを込め手刀を切り、掌を上空に向けた。ピリピリとした気が芦ノ湖周辺に広がって行く。
その青年とは別のもう一人は、木立の上に先程木陰にいた青い短髪がキラリと光る静かで揺るがぬ表情の青年だ。青髪の青年は蹲踞し、若彦へ両掌を向けた。しっとり冷たい水の波動が芦ノ湖周辺へ広がって行く。
『若彦よ。知らないから、覚えが無いから……と、我らから、目を背けないで。』
『おお、そうだな、雷光。偏見と差別は、恐ろしい力だ。玉……、我らはそれぞれ違う思いを若彦に抱き、若彦に付き従っている。今日こそ、あの、若彦に知らしめん。』
金髪の青年は苦笑いし、顎を掻いた。
若彦は、箱根山中を暫くと元箱根へ向かい、そこからボートで九頭龍神社の湖面に浮かぶ赤鳥居をくぐり抜け、(なんとなく、その必要が無い気がしたので)九頭龍神社を横切り参拝はせず、真直ぐ白龍神社へ向かった。
(どちらかと言えば、お参りするのなら、白龍神社だろうな。)
白い参道、白い鳥居、白い社、賽銭箱の波に三つ鱗紋。龍神が祀られている証。目に飛び込んでくるあらゆるものが、しっくりくる。
(しっとり? しっぽり? ははッ。なんちゃって! 綺麗な女性が居たら湖畔のさざ波の中でしっぽり逝きたいもんだぜ。)
『ええ? 逝きたいの?』
女性のうわずった甘い声が聞こえた気がした。
(逝きたいのイキはそっちの逝きではなくて、ああ、いやいや、風の声に反応してる俺って全くなんなんだ。しかしだな、そんな、甘い声で囁かれたら、それでなくとも敏感になっている俺の息子が暴れ出しちまうぞっ、と。冗談はさておき、賽銭箱の鱗紋は龍……。確か、海人族は胸に鱗があったと聞いたことがある。)
若彦は、仁礼二拍手一礼をし、
「昨日、この箱根の地に赴任してきました、未知若彦です……。この地の自然を護り、地域振興に尽力致します。」
軽く、決意表明を含めたお祈りをすると、白い参道を通り鳥居をくぐり抜け、振り返るとまた一礼し、近くの茂みに入り、持って来た猟師合羽と長靴を着替えた。
初夏の朝焼けの赤紫色を反射して輝く湖面に瞳を輝かせ、誘われるように入水して行く。
微かに水中に感じる小さな生き物たちの躍動を感じ、身を切る冷たい湖水をすくうと、感無量で額の中央、第三の目辺りが痛くなり、集中力が増す。
もっと、もっと、今、この自然の息吹を感じたい。
つい、先へ先へと深みまで歩みが進んでしまう。
長靴の中に水が浸入し、合羽の中にも流入し作業着はべっとりと濡れ身体にへばりつく。
水中の生き物達の微かな躍動と、湖、箱根の大自然の躍動を全身で感じる事が出来る、その喜びに比べれば、全く何も嫌じゃない。
肩まで、湖水に浸った所で左側湖畔から、早朝だと言うのに、九頭龍神社目指し、ボートを漕いでやって来る女子のボートが数隻。
「……ふう。」
一瞬、集中が途切れたがすぐに、全身で箱根の躍動する自然を体感し、感じきる。
『……。』
と、もの言いたげな女性らしき気配が背後でする。
(白龍神社のお参りを終えた観光客の女性かな。こんな、早朝から何をするでもなく、肩まで湖に入っている男なんて不審者の何者でもないか。)
でもいいさ。他人の目を気にしていたら、楽しめないじゃないか。
((あなたを想う、私の気持ちは、終ぞ消える事はありません!))
湖面を渡る風が、背後から若彦の頭にそよぐ。
(うう……。視線が痛いよ。いったい、朝から、なんだって言うんだ。)
じいっと、見つめてくる熱い視線を感じる。
(ああ、だから、もう、分かってるって、俺が変人だなんて事。そんな目で見るのはもう、止めてくれ!)
「ははっ……はぁ――……ふぅ。」
なぜだろう胸騒ぎがして呼吸が乱れる。背後で動きがあった。
((若彦、こちらを見て、あたしはここよ!))
女は、抱えていた大きな男根の石物を傍らにドスンと置くと、男根の石像を使い艶めかしい視線を向けつつ、ポールダンスに似た踊りし、愛おしそうに石仏を抱きしめる。
(いやいやいや、なんだ、この背後のねちっこい気配。振り向いてはいけない気がする。こちらに振り向いて欲しそうな気配はするけどな。)
((もう、気が付いているでしょう。こちらを見て、若彦。これなら……どう? あたしの事、感じるし、見えるでしょう? さあ、こちらを見て!))
女は、男根の石物から少し間隔を取り立つと、不意にそのしなやかな身体から冷気を発した。
対岸に聳え立つ三国山から濃霧が湖面に降り、若彦、真後ろに居た玉姫を飲み込んだ。
(やばっ、なんツ――か。この、ヤバさは……。ん? あれ?)
箱根山を背にしている若彦の右手方面に気が向いた。
「こちら側と言えば、確か、芦ノ湖のキャンプ場があったかな?」
((ああン、若彦ったらもう、どこを見てんのよ、こっち、だって……えっ!))
女はそこで急に若彦に気づいて欲しいという気を送るのを止め、若彦の視線の先を見た。
三国山から濃霧が降りて来る少し前の事だった。
芦ノ湖のキャンプ場のコンサート会場に、シークレットライブ本番の前日に、前乗りでやって来た、セーフティ・ムーン・ヴァのボーカルの長月玄利(ながつきはるとし)が機材の搬入、楽屋のセッティングを終えたステージの最終確認、スピーカーから出る音の確認と照明のチェックを行う為に、玄利はステージ上に一人立つ事になった。
音響さん、スタッフは玄利から少し離れた場所に居たのだが、玄利はマネージャーに目くばせをした。
スタッフ全員に早朝早く集合させ、現場設営させたのも、少し早めの朝食がてらの休憩を取らせたかったからだ。一時だけでも、玄利の崇高な時間を作る為だ。
つかつかと、玄利はステージの真ん中に歩いて行くと、玄利の顔を冷たい一陣の冷たい風が吹いた。
「良い風だ。」
「箱根の山と湖が織りなすこの地の力よ。」
ブンッ。
バシッ。
玄利は持って来た愛用の鈍い輝きを放つ鞭を中央で一度打った。
「本日、この箱根の地で魂振り、振る、魂の祭典を……。」
ブンッ。
バシッ。
「我が玄利の歌を持って行う。」
ブンッ。
バシッ。
「我と共に歌え。」
ブンッ。
バシッ。
「我と共鳴せよ。」
ブンッ。
バシッ。
放射状の四方に一回ずつ鞭を打った。
場の空間と調和し、玄利はライブを行う前に必ず行っていた玄利流のある種、儀式的なものだった。
ゴゴゴゴゴゴゴ……。
「な、なんだ?」
玄利の足元がぐらりと揺れ、芦ノ湖の水が一気に湖中央へ吸い込まれて行く。
芦ノ湖の岸辺で水に浸っていた若彦も強い力の引き潮に身体が持っていかれそうになった。
「な!」
取り巻いていた湖水が一気に無くなり尻もちつくと慌てて、正気に戻り岸に這いあがった若彦だったが、そんな、若彦を今まで背後で陰鬱な舞を踊っていた女が駆け寄り、ひょいと、右脇に抱えた。
「あ、貴女は誰? なっ、僕をどうする気ですか?」
(まるで、ラノベみたいな展開ですな。ちょぴり、楽しいぞ。)
『え、貴女って、あたしの事? 若彦、何わけの分からない事を言っているの、あたしはあなたが産まれるずっと前からあなたの側に仕えているじゃない。お父様も知っていてよ。』
「は? 親父の公認の? 俺に女の子の下僕だって? なんて、良い設定だ! なんて、言うと思ったか! 俺は、嫌なんだ。そう言う腐った精神の婦女子が! そもそも、俺は母さんから生まれた時から、彼女いない歴=年齢なんですけど?」
『この、男根の石像は、愛しい貴方の呪力の象徴……。』
「は? 愛しい貴方? えっと、そんな男何処にいるの? それに、貴女は女性だ。女性が男根とか言っちゃ駄目。」
『えっ。ダメ? 何故です?』
女は、躊躇せず左脇に男根の石像を抱え水面を湖尻方面へ向かい水しぶきを上げ走り飛んだ。
『きぇえぇえぇえ!』
信じられない。目をこすってみたが、お寺の絵でしか見たことが無い、巨大な幻獣、白龍が盛り上がった湖面からその神々しい顔をもたげ姿を現したのだ。
幻獣の白龍であるが、なぜか、その風貌は角ばり見える。どこか不自然である。
女は白龍の斜め背後まで飛び寄ると、近場の岸辺に若彦を投げ落とした。
ゆっくりと男根の石像を若彦の直ぐ側に置き、キャンプ場、玄利が立ち尽くすステージへと向かい蛇行して歩む白龍をキッと見つめ叫んだ。
『貴方は先程、若彦が拝んだ、白龍神社の白和龍王の花鳥風月!』
「俺が拝んだ、白龍神社の何だって? それに、君は何処の誰?」
いきなりの事が立て続くので、頭の回転が遅くなってしまう。
果敢にも、若彦を白和龍王の花鳥風月の頭の上に着地させた。
『なんの、歌を奏上する事も無く、我に搭乗するとは、何事ぞ!』
白和龍王の機嫌などお構いなしに、ニコリと微笑み頭の上の角を若彦に掴ませようとしたが、ブンッと二人は地面に振り落とされてしまった。
立ち向かう、女は想像上の天女だ。その羽衣に似たヒレを腰に巻いたスチュワーデスに似た制服姿に網タイツと言う、なかなか艶めかしいという出で立ち。
(まんま、チープなエロ動画のワンシーンか、ドッキリ撮影とかですかコレ。)
視線を外すと、男性のイチモツの一抱え程もある石像がある。
(あんな、華奢な女性が、この大きな石像と俺を抱えて、水上スキーの滑走具や推進力のボート無しで飛べたのか? 全く信じられないがこれが事実なんだよな。)
『あのモノは、白龍神社の白和龍王を崇める信者の想念の力が具現化した、あたし達、神が花鳥風月と呼ぶモノよ! 花鳥風月は元々過去、神々が自らのトーテムを神力で創造し戦船にしていたモノだけれども。それを信者が視覚に捕らえ崇め奉り、信仰の念力の積み重ねで具現化した戯れ。それを花鳥風月と言っていたのだけど……でも、どうして、信仰が薄らいだ現代の今に、具現化出来たのかしら。』
「ちょっと、待ってくれ! 現代に具現化? 何それ? そんな怪物の元へ行ったら危ないだろう!」
身体の震えを乗り越え、女へ走り寄ると、手首を掴み、こちらへ引き寄せようとしてみた。
『危ないか、危なくないかは話しかけて見れば、解るわよ! それより、何より、若彦、あなたはあたしの名前をどうして、言ってくれないの?』
この華奢な女性は合気道の心得があるのかさっと、掴まれた手首を掴み直し、強引に若彦を引っ張り内陸へ向かう花鳥風月を追い走る。
「そう言われると、その声、時々聞こえる風の声じゃないか! でも、風の声は風の声であって……、君の名前を知っているかと聞かれたら、知らん。もう、どうしてだよ、さっきから非現実的な事が多数、俺の目の前で展開し続けるんだ?」
『若彦ったら、仕方ないわね。昔っから現実を直視するのが苦手なのよね。良く聞いて、一度しか言わないから。あたしは、玉姫! ねぇ、これで分かった? 若彦?』
「分かったって? 君の名前を? ちょっと、危ないって!」
ステージから降りられず、固まったままの玄利の前に白和龍王の花鳥風月がにじり寄り、その目の前に、玉姫が若彦を引っ張りやって来た。
「な、なんなんだよ、もう。俺はこの非現実的な事に対しては一切無関係だからな!」
迷惑そうに、頭を振り、頭から滴る水を払った若彦はこちらを見つめる硬くて熱い視線に気が付き視線を上げると玄利と目が合った。
「えっ。なぜ俺の目の前にセーフティ・ムーン・ヴァのボーカル長月玄利が居ると! 俺、ファンなんです! なんだか超、嬉しいんですけど。」
「もう、若彦ったら! そっちの、男の前に、あたしの名前を呼んでよ!」
「ハイッ、玉姫さん。」
我に返って、口に出して言ってみたら実感を持ち、まるで昔からの彼女の様な気がして、すべからく気恥ずかしくなってしまった。頭を掻き、少し恥ずかしそうに玉姫を上目遣いで見つめた。
「若彦さんと、玉姫さん……?」
玄利は、目の前の白和龍王の花鳥風月と二人を交互に見つめ、安心して良いのか心もとない。
『おお、先程振り払ってやった搭乗者かぇ。』
キャッ、ハハハッ。
白和龍王の花鳥風月は地響きを上げ笑った。
「……搭乗者?」
玉姫の制止を振り払い、若彦は怯むことなく、この女の声で話すメカニックな何かの前へ進み出た。
『そうじゃ、搭乗者よ。我、白和龍王の花鳥風月なり。白龍つきのしをらしきところがそのまま……。』
「うーーん。これは、貴女の歌、貴女は白龍神社の龍神、白和龍王の風雅な遊び……ですか?
俺と、遊びたいの? それとも、神々と交信、交わる方の遊ぶ? 俺で良ければ喜んで。さあ、ケツを出せ!」
『若彦、あんた、何言ってんの、涅槃のモノと褥を共に? それはええ、大人の遊びね!』
「いや、そう言う意味ではなくて。従属させるにはやっぱり、鞭でケツを叩くのが筋ってもんじゃないか?」
玄理は持っていた大事な鞭を見つめた。
「玉姫こそ、なにを言っているんだ。遊びって、言ったら遊びさ。人と神とが交じり合う。それとも、貴女は白龍の姿で可憐だと自画自賛したいの? どっちですか? あとさ、貴女は玉姫が言うように白和龍王そのモノのお姿ではなく、信仰の権現でOK?」
「……? 若彦さん。」
「俺……色んなお化け様が出て来て、この現象に集中出来ない。」
玄利が覗き込むように近寄って来た。
すかさずそれを制止すると、若彦はくるくる回りながら如何にも難しい問いに悩んでいる様に眉をひそめた。
(これは、賭けだ。(なんのだよ! 自分で思っていても意味不明だ)……一世一代の! って、どこかの名探偵みたい。)
『うふふふ、若彦と言ったな、我が搭乗者としては良いやもしれぬ。』
『それは、どうかしら。』
すかさず玉姫が冷ややかに言う。
「玉姫、君は、黙ってて。」
『なによ♡ もう。神転生(意識)する前から、あたしの事を君って言うなんて。強い女のあたしでも、すねちゃう事だってあるんだからね!』
玉姫は、白和龍王の花鳥風月の背後に回り、少し後退すると男根の石像を抱えた。
『そうよな、古き良き時代の搭乗者よ、汝が我に搭乗すれば解ることよな。』
若彦の元へ興味新々に、首を伸ばしてきた。
「うむ。……やっぱり、コレ、古代の戦隊ヒーロー的なやつか? 箱根の歴史調査本(学術書)にこんな事例書いてあった覚えは無いが。つまり超日本的で、ロボットアニメって言ったら龍型のよくある……玉姫が言っていた超古代文明の忘れ形見の戦船と言うモノなのか……。」
「さっきから、何と何を喋っているのですか?」
玄利が背後から駆け寄り、肩を叩いた。
白和龍王の身体から氷の細かい粒が一瞬発し、濃い霧と氷の粒が場に満ちた。
「おい! おい! ちょっとまった! もっと、思考してからでないと……いけない!」
挙動不審者にしか見えないカニ走りする若彦。
「白和龍王、まてって、まって!」
ゴゴゴゴゴ……。
敢えて言葉に出しては言わないが、白和龍王はかなり怒り心頭だ。張り切れそうな視線を玄利に向けにじり寄る。
『玄利とやら、おぬしこそ我と遊ぶ為に我に歌舞を奉じたのであろう、ならば我へ搭乗するが良い。』
「ん? 若彦さん。どうか、しましたか? 花鳥……と言う、なんか、あの巨大な生き物が人語を喋っていたりしませんか?」
「なんで、こんな時まで、玄利さんはボケちゃうのさ、あの声が聞こえているだろう!」
「ん? ぼくが何か不敬を?」
感は良い。だが、玄利は何を言われているのか、状況を把握出来ていないようだ。
『来るのだ、そこの禿ッ山、禿男よ!』
「え、誰が、禿男なんですか?」
花鳥風月には、何が見えているのだろう。
長い黒髪をなびかせ、ロシア人と日本人のハーフの玄利は流し目で白和龍王の花鳥風月を見た。
『キッシャー――――!』
ドドドドドドドドドッ。
一瞬だった。
白和龍王の花鳥風月が玄利を大口開きで、大地諸共飲み込み、地の底へ消えた。
「玄利さん諸共飲み込みよった。さすが、人間の並外れた信仰心の権現だな……すげえよ、あの龍神。」
白和龍王の花鳥風月が玄利を大地諸共飲み込んだせいなのか。巨大な穴が穿たれた。
「大地が……まだ、揺れている。」
『そうねぇ、揺れているわね。』
玉姫はカタバミを摘んで、口に咥えると、ちゅっと吸ってまるで他人事の様に言った。
「いやいや、「そうねぇ。」じゃ、なくて、玄利を俺は、助けなくっちゃ!」
玄利諸共飲み込み消えた花鳥風月の残した巨大な穴に身を乗り出し覗き込んだ。
『はぁ? あたしの名前は憶えてなくて、なんで、あんなどこの覡かも知らない男の名前は覚えていてさ、ファンとか言っちゃって、そんなにお熱なの。』
「どこの覡かだって? なあに、玉姫、玄利さんに嫉妬ですか?」
『ええ、そうよ。何が悪いのよ。ずぅっと、あたしは若彦、君を見て居たのに。こっちは、本気で若彦あなたの事を護って来たの!』
「はぁ――ん、背後霊として? それとも新手のストーカーとして、ですか? ……幽霊と言う奴は、ほんと、直情的だね。でも、幽霊って、過去を繰り返し別次元でリピートしている「奴ら」なんじゃないんですかね?」
『んっ、もう! 乙女を「奴」呼ばわりしないで。君って呼んで♡! それに、あたしは幽霊なんかじゃない。あたしは風光様にリライトされた玉姫、神々にお仕え、奉仕する巫女よ。』
二人から死角の藪の中で、金髪の男が視線を逸らし腕組みをして言葉をひとつ。
『アメノサグメ……、神に仕えし巫女。……探女よ。神威を現せ。』
『風光。簡単に言うな。そうも、簡単にいかないものだ。若彦がああであれば、なおさらに。』
雷光は青い髪にそっと触れた。
ズドドドドド……。
「まだ、揺れてる。相当だな、この地震。」
『ええ、相当でしょうよ。若彦、私達とあなたとあの覡が発した神気が充満しているこの芦ノ湖周辺だったら、強い想念次第で災害でもなんでも起こるわよ。そしていま頃、あの玄利って奴は白和龍王の胃液に溶かされているかも知れないねぇ。食われたわけだし。』
「玉姫さ、どうしてそんなに初対面の俺が玄利さんの名前を知っていたからってそんなにに激おこプンプンに、にゃるんのさ!」
「ぷッ……フン。」
「そろそろ、怒りをおさめられたらどうですよ? ……玄利さんは、ミュージシャンであり、多分、知らない人はこの世にいない有名なユーチューバーさん。だから、俺は知っていたの。って、言うか、玉姫は本当に俺の事をずっ――と護ってくれていたの? それなら、俺の好きなアーティストとかユーチューブチャンネルとか知っていて当然なんじゃ?」
『そ、そんな……、怒ってまくしたてなくても、いいじゃない。あたしにだって、(見たく無いモノ)知らない事のひとつやふたつ……そのくらいは、あるの。それで、シンガーソングライターって? ユーチューバーって? アーティストって? ユーチューブチャンネルってなぁに?』
「お、おまっ。それ、知らない事が有るってレベルじゃない! 知らない事はひとつやふたつ、なんじゃなかったんですか?」
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