貰う

「感情、いりませんか?」

最近よく見るようになった広告だ。内容もシンプルなもので、マッチ売りの少女を題材にしたような赤い頭巾をかぶった女の子が、マッチ箱のような小さく四角い、淡い光を放つものをこちら側に差し出している。しかし場所によってその光は別の色をしている。ウェブ広告では赤色、電車の中釣り広告では灰色、テレビCMでは黄色、週刊誌の広告欄では暗い緑色と、様々なカラーバリエーションがある。

不思議なことに、これらの広告は全く話題になっていなかった。ここまで個性的であるのならSNSや匿名掲示板で話題になってもいいはずなのに、誰もそれに反応しない。それどころかそういった所への書き込みそのものが日に日に少なくなっており、全く新しい投稿が見当たらないのを見てひどくぞっとした思いがこみ上げてくることも最近では日常の一つだった。

そんな日々に違和感を抱きつつ過ごしていたある日の帰り道のことだった。誰もいない夜中の住宅街で、公園を横切ったその時、誰かに声をかけられた。

「貴方、まだそんな顔をしてるの?」

思わず声のした方を向くと、そこには広告でよく見る赤い頭巾をかぶった女の子が立っていた。

「……君、なんでこんな時間に外を出歩いているんだい?危ないから早くおうちに帰りなさい。」

そう声をかけた途端、彼女の眼付きが変わった。まるで新しいおもちゃを見つけた子供のような目でこちらを見てくるのがひどく不気味に感じた。

「やっぱり、貴方は特別な人なのね。」

「どういうことだい?僕は疲れているんだ、あんまりからかわないでくれよ。」

「その感情の豊かさが特別なの。だるいとか疲れているとか、そういう感情は私が片っ端から貰っているもの。」

どういうことだろうか、と考えてはっとする。最近、周りにいる人間は皆感情が希薄になっていた。変な広告にも反応せず、SNSなどでの交流をも放棄し、黙々と日々を過ごすエコノミック・アニマルそのものとなった人間と付き合うことが私の疲労の原因であった。

「それは本当なのか?」

「ええ、本当よ。ほら、ここに皆の感情があるもの。」

そう言って女の子が取り出したのはこれまた広告でよく見るマッチ箱のようなものだった。しかし広告と一つだけ違うのが、その箱の光り方だった。まるで虹が太陽を飲み込んだかのようにきらきらと七色の光を発している。それはまるで超巨大都市メガロポリスのような美しさを湛えていて、その光が目に入った途端に感動の涙が一粒、頬を流れ落ちた。

「こんなに……こんなに美しいものを、なんで皆は君にあげてしまったんだ?」

僕の質問に彼女は笑って答える。

「貴方もあの広告を見たんでしょう?なら分かるはずよ、皆あの広告を見たときに「いらない」って心の中で答えたの。だから貰ったのよ。」

皆の「いらない」はそういう意味ではないことは僕にもすぐ理解できた。人間は自分の感情だけで心がいっぱいになっていて、他の人から感情を貰う余裕なんかないから「いらない」と思ったのだろう。しかし女の子はそれを悪徳なセールスマンのように曲解し、皆から感情を集めその懐にある箱に押し込んでしまったのだ。

「納得できなさそうな顔だけれど……これが私のやり方なの。ほら、あらゆる色、あらゆる感情が渦巻いていて、とっても綺麗でしょう?」

彼女が掲げた箱は一秒ごとにより輝きを増して、まさしく太陽のように輝いている。しかしその光はどんどん溢れてくる感動の涙の中を乱反射し、数秒後には虹色が箱から来たのか涙のプリズムから来たのかも判別できないほどになっていた。

「貴方のその「感動」、とっても美しい……その感情がこの箱に加わったら、世界で誰一人として手にしたことのない感情の塊が、美しい世界が私のものになる……」

女の子はふわふわとした口調でそう言うと僕に質問をしてきた。

「感情、いりませんか?」

「いる。」

「え?」

彼女は呆気に取られていたが、僕の意思が変わることはなかった。あの美しい感情の箱は、実物を見る前から既に僕の心をがっしりと掴んでいた。あの広告は図らずも本来の広告としての役割を果たしていたのだ。

「だ、ダメ!この感情は私の……」

「君が「いりませんか?」と質問したんだから、そんな事を言わずに渡してくれ。」

「ダメって言ったらダメなの!……きゃあっ!?」

そう叫んだ女の子の手から箱が飛び出し、私の手に収まった。彼女が質問への答えを曲解して皆から感情を奪ったように、彼女の質問を曲解してこの感情を僕のものにすることに成功したのだ。僕は嬉しさのあまり、女の子が何かを言う前にその箱をポケットに入れると感情に身を任せて家へと走った。公園の出口で彼女が何かを叫ぶ声を聞いた気がするが、気のせいだろう。


その箱は一ヶ月ほどの間僕の部屋にあったが、ふと感情のない世界が寂しくなって中を覗こうと箱をスライドした瞬間に箱から光が溢れて以降はなんでもないただの紙箱になってしまったので捨てた。

その光が溢れたと同時に世界は再び感情で満たされた。皆はその一ヶ月の事を覚えていないようだったが、ともかくこれで世界は再び元通りになった。残念ながら僕を除いての話だが。

実を言えばあの箱を開けてから僕は感動するという事が一切なくなった。あれほど強烈な感情を直で目にすれば当然の帰結なのだろう。本物の、文字通りむき出しの感情という光、そして感動のない人生のつまらなさを知ってしまった僕が以前の生活に戻れることはない。

正直な所、僕は今あの箱を捨ててしまったことを後悔している。もし何かの拍子にあの箱を再び手に入れたとしたら、僕はあの女の子と同じことをするだろう。もしかしたら彼女も同じ理由でそういう行動に出たのかもしれないが。

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