◆8-3

 刃がぶつかり合う音が搔き消される程に、爆発の轟音が響く。どうやら闇竜が暴れまわっているようで、船の中の温度も上がってきた。ジュラーヴリの事が心配になるけれど、クレーエも此処から動けない。

「退けッ!!」

「っくう……!

 一瞬でも気を抜けば、凄まじい勢いのサーベルが首を凪ごうとしてくる。両手の刃で牽制してあの銃の引き金は引かせないよう立ちまわっているが、決定打が与えられない。悔しさを噛みしめて、それでもクレーエはこの場から引かない。この男の目的が、かの智慧女神である限り。

 ……どこにでもある話だ。皇国は豊かな国ではあるけれど、その恩恵を受けられない者は沢山いる。クレーエも嘗てはそういう者のひとりだった。

 娼婦の母親が何度目かに連れてきた男に、ベッドの中に引きずり込まれそうになって、隠し持っていたナイフでそいつを刺して家から逃げた。

 悪いことをすれば、神様に罰せられる。数日に一回、割とマシな食事が配られるのと共に行われる、神殿の神官による説教で聞いた。多分自分も罰せられるのだと思った。だから、神殿には行かず、どこへとも知らずに逃げた。

 皇国の冬は雪が良く降り、裸足がかじかんでその内歩けなくなった。艦褸を纏って蹲って、このまま死ぬのだ、と当然のように思った時、大きな男に抱き上げられた。

『っ、やだ』

 その男は雪より白い立派な法衣を着ていて、神官なのだとすぐに分かった。きっと自分を罰しにきたのだと思ったから、逃げようと暴れたけれど、腕は太くて力も強くて、逃げられなかった。

 ぎゅっと目を瞑って裁きを待つクレーエに、その男は低い声で朴訥に語った。

『……足の指が凍傷で壊死しかけている。このままでは歩けなくなるぞ』

 そして男は大きな掌で、クレーエの裸足をゆっくり撫ぜ、奇跡の聖句を告げた。

『智慧女神ラヴィラよ、罪なく傷つきし子にせめてもの慈悲を』

 こんな短い聖句だけで、大きな掌から光が零れ、クレーエの足は感覚を取り戻した。とんでもなく位階の高い神官なのだと解り、そんな男が何故、返り血を浴びた自分を「罪がない」と称したのか解らず、固まったままの体を男は抱き上げたまま、運んでくれた。

 キュクリア・トラペサというものがどういうものか、その時点では全く知らなかった。連れて来られた場所で、ジュラーヴリと名乗ったその男が、「戦神様の神従として素質がある」と言ってくれなければ、そのまま殺されていただろうとも後から気づいた。実際、舌と喉と引き換えに得られた膂力は便利で、神様の存在を信じても良いと思ったし、もう否は無いけれど。

『神従へと至れば、お前が飢えや渇きや理不尽に害されることは無い』

 そう淡々と語る男の会話は相変わらず解り辛くて、首を傾げてしまった。その時には、クレーエが望むのはただひとつだったから。

『あたしがそうすれば、ラーヴは嬉しい?』

 そう聞けば、男は眉間に皺を寄せて僅かに唸り、悩み、考えて、ようやっと小さく頷いてくれた。それだけで充分だ。生まれてこの方、この組織でしか生きて来られなかった男の望みを、叶えてあげたかったのだ。

 この感情が恋なのか執着なのかは自分でも解らないけど、恋の方が良いと思う。だってその方が、きっとジュラーヴリが少しでも楽しいだろうから。

 だから、だから。

「嫌だけど、凄く嫌だけど! 智慧女神様のこと、ラーヴがずっと欲しがってたから。だからあんたを殺す!!」

 必死の訴えに、闇竜の鱗を得た男は動揺の欠片も見せず、堂々と宣言した。

「なれば貴様も、我らが女王陛下を専横する罪、その命で贖えッ!!」

「煩い! それは今じゃないッ!!」

 自分は罪人だ、それは解っている、いつか必ず戦神様の戦場で命を落とすだろう。だから少しでも、少しでも長く生きて、ジュラーヴリの願いを叶えたい。それしかないし、それだけで良かった。その思いの強さだけなら、目の前にいる男と変わらないかもしれないけれど――あまりにも純粋なる祈りを、類稀なる意思の声が跳ね飛ばした。

「――否。今だッ!!」

 一瞬。サーベルの切っ先が見切れぬ程の速さで振られ、片腕が手甲ごと切り飛ばされた。あ、と思う間もなく、そのまま届いた刃が体を撫で、血が飛沫く。

「っ、ああああ……!!」

 痛みよりも先に悔しさが沸き、もう片腕の武器を振るうよりも先。横を通る行きがけの駄賃で、片腿も思い切り切り裂かれた。がくんと足が崩れ、立っていられなくなる。

 そのまま後ろも振り向かず、駆け出そうとする背中に必死に手を伸ばし――

「だめ……、ッ!?」

「――クレーエ!!」

 いつになく強い声で、愛しい男から名を呼ばれると同時、体を抱えあげられて、驚いて全部痛みが無くなった。突然増えた敵に気づいたジェラルドが、振り向いて武器を構え直す。しかしクレーエは、それどころではない。もう戦えなくなった体を、いつも通りジュラーヴリが抱き上げてくれたから。

「ラー、ヴ? どう、して」

「……智慧女神スヴィナ様は、争いを厭うて、私を此処に飛ばして下さった」

 静かな声で、ジュラーヴリはジェラルドを真っすぐに見つめ、告げた。

「ジェラルド・スターリング卿、このまま操舵室へ行くが良い。ペルランと智慧女神様――否、エルゼールカ女王陛下がお待ちだ」

「……伝言、感謝する」

 はっきりと告げられたその言葉に、ジェラルドの鬼気がほんの僅か落ち着く。サーベルの血を払い、疲れも見せずに駆け出すその背を見送って――クレーエの耳に小さく祝詞が響く。

「智慧女神スヴィナ様、これが最後の祈りとなりましょう。この娘に、最後の慈悲を」

 大きな掌から放たれる光が、傷を癒していく。丁寧に、切り飛ばされた腕までそっと抱え直して、付け直された。切られて間もないし、上手くいけば接合できるかもしれない。その軌跡を茫然と見ながら、クレーエは何も言えない。そんな彼女に、ジュラーヴリはいつも通りの声で告げる。

「行くぞ、クレーエ」

「なん、なんで? だって、覚悟してたのに。ディアランさまを奉じれば、いつか必ず、死ぬのに」

 キュクリア・トラペサに入った時真っ先に告げられた。戦神の神従となった者に課せられる誓約。戦に打ち勝つ力を得られるが、いつか必ず戦の中で命を落とすと。

「そ、それなら、ラーヴの大事なもの、守って死のうって、思ったのに」

「喋るな。まだ傷は癒えていない」

 無表情なまま、淡々と言うジュラーヴリは、それでもクレーエの細い体を抱きしめて離そうとしない。やがて傷口が癒着したことを確かめてから、まるで脆い硝子細工を運ぶかのように、丁寧に抱き上げて歩き出した。

「どこ、いくの」

「飛行船はもう落ちる。脱出するぞ」

「これから、どうするの?」

 権能が残っていれば、大陸まで飛ぶことは出来るだろうが、残ろうが逃げようが、どちらにしろ未来など無い。皇国は今や他国から睨まれる世界の敵となったキュクリア・トラペサを許さず、徹底的に排除にかかるに違いない。そんなこと、智慧女神の神官に解らないわけがないのに。

 必死に訴えるようにしがみつくクレーエを宥めるように、ジュラーヴリは額を擦り合わせて、静かに告げた。

「お前の傍に、いる」

 ひゅ、と小さく息を飲み、固まったクレーエの兎のように赤い瞳から、大粒の涙が零れた。

「……ラーヴ。ラーヴ、好き、大好き……」

 我慢できずに、ぎゅうと抱き着いた娘の体を支えたまま、ジュラーヴリは外へ向かって飛び出した。最早何一つ迷いを見せることなく。

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