◆8-2

 飛行船の中央に位置する、神台と呼ばれる儀式の間にジュラーヴリが駆け込んだ瞬間、凄まじい音が響いた。皹が入った鎖の壁の隙間から、黒い炎が生き物のように滑り込み、中にいる者たちに襲い掛かってくる。

「――スヴィナ様!!」

 咄嗟に守るべき神の前に立ち、広がる黒炎から守ろうとする。しかしそれよりも先に、まるで月のように丸い膜が、自分と女神の周りを覆っていた。

「ああ、リチア様、守って下さったのですね! 感激ですわ、なんてお優しいのでしょう……!」

 先にこの部屋にいたらしい、すっかり目の焦点をずらしたイエインが、銀色の女神の小さな体を抱きしめて必死に訴える。そのまま己の権能を発し、この場から逃げるつもりだろう。それを止めにジュラーヴリは来たのだが――イエインの体は僅かに揺らぎもしなかった。

「ど、どうして? リチア様、何故ですか、何故わたくしの権能が――」

 イエインは己の魂の半分を敬愛する銀月女神に捧げ、凄まじい権能を賜った。空を舞うことは勿論、移ろう月の如く自在に存在位階を変えることが出来る。しかしそれは当然、神の権能である筈のものなので、加護を失えば当然、使えなくなる。ジュラーヴリの目には、その理由がずっと見えていた。恐らく、己が祈りを捧げる女神にも。

「――失礼!!」

 壁に刻まれた隙間がぎしぎしと軋み、黒い爪と炎が鎖を砕かんと幾度も振るわれる。最早この部屋に張られた結界も持つまい。鋭く一声かけて、不敬と知りつつも智慧女神の玉体を抱き上げ、部屋を飛び出す。直前にイエインがまた何か叫んで女神を抱き寄せようとするのと、その中で酷く小さく、しかし確実に全ての者の耳に届く声を聴きながら。

「……ラトゥ?」



 ×××



 今まで一言も話さなかった銀髪の少女が、部屋に残って燻る黒い炎を見てぽつりと漏らす。イエインは必死に詫びるように何度も訴える。

「ああ、お見苦しいところをお見せしました。こんな悍ましくも貴女様を縛るもの――」

「ラトゥ」

 黒い炎に乞うように手を伸ばし、銀色の瞳をわずかに眇め。まるで、愛しい相手に口づけるように、炎の欠片をそっと掌に乗せて唇を寄せた。

「きてくれたの? ラトゥ」

 ほろほろと、大粒の涙を流しながら囁いている筈の小さな声が、ばりばりと結界を引っ掻き、壊していく音に紛れることなく響く。それと同時に、部屋の中に胴間声が響いた。

【——!!! リチア、おお、リチア!! いるのだな、此処にいるのだな!! 数万数億夜の中、我が腹に宿りし美しき我が妻よ! 漸く、聞こえた、間違いなく!!】

「やめなさい!!」

 イエインが絶叫する。よろめくように駆けだそうとする銀月女神を抱きしめて、縋りつくように。

「悍ましい闇竜、貴様がリチア様を奪い天へ囚え続けた罪はもはや明白! わたくしが居る限り、もはやそのような狼藉は――」

「ラトゥ!!」

 イエインの声を切り裂くように叫ぶと同時、銀色の少女はその身をすうと消した。正に昼間の銀月の如く、いつの間にか、あっさりと。驚き戸惑うイエインの目の前にで数多の鎖が千切れ飛び、飛行船の壁に大穴が開く。其処に押し込まれるように、黒い鱗に包まれた巨大な頭がぬうと現れ――その鼻面に、少女のような女神が現れ、しっかりと抱きついた。本当に嬉しそうに、泣きながら。

「ラトゥ、ラトゥ。来てくれたのね。ずっと、探させてしまっていたのね。ごめんなさい」

 硬い鱗に柔い頬を摺り寄せ、白く小さな手指で何度も鼻先を撫で、皮膜が滑る瞼に口づけを落とす。その姿と切なさと愛しさが籠る声だけで、彼女が自分の闇竜良人を愛していることが容易に知れた。

【おお、おお、我が愛しき妻よ! 案ずるな、泣くでない、お前の悲しみを我が闇が全て掬い取る!】

 闇竜も、ジェラルドに対しての言葉とは比べ物にならないほど、優しく、相手の悲しみを慰撫するかのように語り掛け、黒い舌を伸ばして妻の体を抱き寄せ、器用に涙を拭う。それを嬉しそうに受け止めながら、銀月女神は尚も語った。

「とても悲しい祈りだったから、どうしても我慢が出来なかったの。なんとか助けてあげたかったの。でもそれで、地上に閉じ込められるなんて、思わなくて」

 鋭い歯の間から這い出る黒い舌を手に取って頬を摺り寄せ、舌先に口づけを落とす少女の姿に、イエインが悲鳴を上げた。

「あああ、何故!? 何故です!!? そのような忌まわしき、悍ましき化け物に、何故貴女様は!!」

 心底悲し気な悲鳴に、銀月女神が振り返る。快哉を叫ぼうとしたイエインは、しかしその顔が酷く、申し訳なさそうにしていることに、漸く気づいた。今まで自分が見た彼女の顔は、いつもそうであったことも。そこでやっとイエインの存在に気づいたらしいラトゥが、ふんと鼻を鳴らして声を低くする。

【我が妻をそれ以上見るな。地蟲の分際で、その目玉を抉り捨ててやろうか】

 ぎり、と歯を噛みしめる良人の鱗を宥めるように撫でていたリチアだったが、金陽が輝く中で鱗を焦がさない姿の、違和感に気づいてまた泣きそうに顔を歪めた。

「ラトゥ……、もしかして、モノを食べてしまったの? わたしのせい? わたしが、離れてしまったから。兄さんの光に負けないために、あなたの誇り高き魂を、地面に縫い付けてしまったの?」

 自分のせいで良人がその身を零落させたと気づいた銀月女神が、またほろほろと涙を零す。ごめんなさい、と何度も謝って大きな夫の鼻先や瞼に口づけを落とす妻を、細心の注意を払って巨大な爪がゆっくりと包み込む。

【否、否、否だ、リチア。闇は常にお前と共にある、恐れるな。この仮初の肉の体が腐り落ちようとも、朽ちて果てようとも、我はお前のものだとも、いつも通りに、いつもと変わらず】

「でも、でも、ああ、ごめんなさい……」

 大粒の涙を零して縋りつく妻の体を包み込む為、闇竜は容赦なくその巨体を飛行船の中にねじ込もうとしてくる。その光景に耐え切れず、イエインは叫んだ。

「いや――いや、です、リチア様! 私を捨てないで……!」

 獣の如き竜に、愛しき女神が愛を囁く姿など、見たくはなかったから。


 

 ×××



 ――イエインの出身は皇国より遠く離れた別大陸の国で、そこでは神よりも竜が信仰されていた。その国は皇国よりも男尊女卑が激しく、幼い頃から優秀であるが故に、男であればと親に嘆かれ、結婚相手を勝手に決められ、家から出ることすら禁じられた。己の不幸を嘆き、反骨心を育てたイエインは、国を支配する竜信仰にも当然反発した。

 そして彼女は母国に見切りをつけ海を渡り、信仰するに相応しい女神の教えを得た。竜が神の伴侶になるなど、紛い物の教えでしかない。神は絶対にして貴い、何物にも犯されぬ絶対の理なのだから。そう記されたキュクリア・トラペサの経典を読み、イエインはずっと求めていた真実が此処に存在したのだと涙を流して喜んだ。だからこそ、純然たる祈りを捧げ続け、銀月女神を取り戻した。

 その筈、だったのに。

「どうして!? 何故、何故、そのような悍ましいものに、縋りつかねばならないのです!? お願いします、見捨てないで、わたくしを置いていかないでくださいませ……!!」

 涙を流して倒れ込み、必死に訴えるけれど。銀色の女神は、悲しそうにふるふると、イエインに向かって首を振った。

「わたしは、だれも、見捨てない。すべてのいのちを空から見守り続ける、それがわたしの、理だから」

 その瞳は酷く静かで、憂いはもう見えない。それはきっと恐らく、愛する夫に再会できたから――理解できず、イエインは黒髪を掻き毟って絶叫した。

「嘘よ!! 嫌よ!! お願い、お願いリチア様、わたくしと共に――」

【無様也。我が妻の慈悲だけでは満足できなんだ哀れな地蟲。これが貴様の終焉だ】

 銀月の光を、現実と真実から目を逸らす為のヴェールにしか使わなかった女に、心底不快げな闇竜は、声と共に、黒い炎をごう、と吐いた。

 あっという間にその炎は彼女を包み――骨すら残らず尽きていくその姿にリチアはもう一度涙を流すが、決してラトゥから離れることはなかった。

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