そして彼らは、

◆9-1

「はっ、は、はっ――!!」

 ジェラルドは揺れる廊下を駆け抜ける。真っ直ぐに、操舵室へ向けて。先刻告げてきたジュラーヴリの言葉が嘘であるか等、検証は行わない。それよりも時間が惜しい。激しく船体が揺れ、右手を壁に突いて堪えた。

 ほんの一瞬、闇竜の炎で焼き切れてしまった、白布を巻いていた手を見るが、それだけだ。後は顧みない。再び駆け出し、正面に見えた操舵室の扉へ思い切り蹴りを入れると、其処に、やっと漸く、待ちわびた姿が見えた。

「――女王陛下ッ!!!」

 叫ぶと同時、彼女の手を恭しく取っている、忘れもしない狼藉者ペルラン・グリーズに誰何一つなくサーベルで切りかかる。これ以上女王陛下と同じ場所で息を吸うことすら許せない。

「スヴィナ様、如何にか貴女様だけでも神々の祭壇へ――」

「その手を退けろ、不埒者がァアアアッ!!」

「――『跪け!!』」

「ぐっ、か······!」

 しかしペルランから発せられた言葉に、両膝ががくんと軋んで傾ぐ。足を止められてしまったのは酷く悔しいが、それでも膝を床に付けることだけは堪えきると、ペルランの顔が驚愕に彩られる。

「己の意志だけで、タムリィ様の権能をここまで弾くか。不敬ではあるが、その忠誠を信仰へと昇華させれば、良き神従になれたであろうに」

 前に出ようとすると、またがくん、と膝が傾ぐ。心底腹が立って、己の太腿を左手の黒爪で抉った。肝心な時に動かない足なぞ必要ない。代わりに、黒爪からとろりと削げ落ちた闇が、足に絡みついて傷を覆い、動けるようになる。その姿を見て、不愉快そうにペルランは告げた。

「だが、闇竜ラトゥの血肉を得た貴様は最早、世界の理を乱す者だ!」

 白い肩布を翻し、女王陛下の前に立ったペルランは朗々と祝詞を捧げる。嘗て神々が罪ありし邪神達を封じ込める為に告げた、始原神に捧げる裁定を。

「秩序神タムリィ様、この者に裁きを! 彼奴の罪は三つ! 一つは、智慧女神スヴィナ様を零落させた不敬なる国の民であること! 一つは、敬虔なる神々に祈る無辜の民を血も涙もなく殺したこと! 一つは、闇竜と交わり、この世界の理を壊したこと! いずれも許しがたく、始原神イヴヌス様より裁定を下されたい!!」

 その声に応えるかのように、彼の頭上に光輪が閃いた。くるくると回る光臨に棘が生え、それが鋭く輝く光の剣に変わる。ひやりとした光を放つ巨大な剣を見て、女王の瞳が僅かに揺れた。それをジェラルドが憂うよりも先、ペルランが指差した先へ剣は真っ直ぐに飛んだ。

「く――」

 即座に叩き落とそうと、重い体を堪えて振ったジェラルドのサーベルを、光の剣は生き物のように掻い潜った。そしてまるで、黒い竜の腕を切り飛ばすように、正確に左肩の継ぎ目に突き刺さる。同時に、左腕を食い破るかのように、無数の光の刃が黒鱗を破って飛び出してきた。

「ぎ、ッぐァ……!!!!」

 全身に痛みが走り、悲鳴が上がるのが悔しくて唇を噛む。震える足をどうにか前に動かそうとするが、それよりも先にペルランの強い言葉が届く。

「『地べたに這いずれ!!』」

「かっ、ぐ……ぁ!!」

 今までで一番強い圧力に、体を持ち上げることが出来ず、両手両膝を床に付けてしまった。あと数歩で、女王陛下へたどり着けるというのに!

「女王、陛下……! 暫し、お待ちを、必ずや、お助けします……!」

「……、」

 絞りだすように告げるジェラルドの声に、ほんの僅か、智慧女神スヴィナの紫瞳が揺れたが、それを遮るようにペルランが立ち、朗々と告げた。

「それこそが傲慢だと何故気づかぬ。この方が望むは神の力を取り戻し、世界の理を律すること。我らはそれをお助けしているだけだ。盲目の信仰がどれだけ無様か、その身に刻むが良い!!」

 憤懣やる方ないと言いたげにペルランは嘆き、改めて智慧女神に手を差し伸べる。

「智慧女神スヴィナ様、我らに慈悲を。我等はただ、この世界を八柱神の手に再び戻したいだけなのです。人は神の奴隷にすぎぬと仰るのならば、どうか永遠に我等を育み、お導き下さい」

「……」

 女王は、智慧女神は、ほんの僅か、ヴェールの隙間から覗く目を炒め、必死に起き上がろうとするジェラルドの方を見た。その瞳は静かで、それでもその中に揺れる悲しみを、ジェラルドは確かに見た。

「――我らが女王陛下」

 ぐっと体に力を籠め、ジェラルドはぐぐ、と片膝を、どうにか立てて跪いた。ペルランの言葉に従ったのではなく、己の意志で女王に傅く為に。

「此処まで馳せ参じたは、全て女王陛下のお望みを叶えるが為にございます。もしも、貴女様が、この不届き者達と共に進み、神と成られることを望むのならば、私はそれに従いましょう」

 言い切った言葉に、ぴくりと、垂らされたままの女王の手が僅かに震えた。

「ですが、もしも貴女様がほんの僅かでも、女王陛下であられることを望んでくださるのなら。どうぞお命じ下さい、すべての狼藉者を退けよと。私は女王陛下の剣となって、そのすべてを叶えましょう」

 嘘も阿りもない、ジェラルドの宣言に、女王の爪先がほんの少しだけ、彼に向けて踏み出そうとしたが、それを遮るようにペルランは首を振る。

「さぁ、智慧女神スヴィナ様、どうかお戻りください。神の時代を取り戻すために」

 その声に、女王は、智慧女神は、紫色の瞳をそっと伏せる。そして、ヴェールの下で、小さく小さく、言葉を発した。ジェラルドではなく、ペルランの方に向けて。

「……人にとっては長い時の中で、貴方のように思う方は沢山いらっしゃいました。神が人を支配する世界に戻すべきだと。いつか必ずそれが訪れると、知っている筈なのに」

「然り、然り。人の生は短いのです。だからこそ、いつかではなく今、神の権勢を取り返す為に、皆命を懸けてきました」

 初めて、ペルランの声に熱が籠った。キュクリア・トラペサが興って以来、彼の父も祖父もその前も、ずっと紡がれていた望みが、漸く神の一柱に届いたのだという喜びが、彼の魂を震わせているのだろう。

 その切実を確りと受け止め、智慧女神は敬虔なる神徒に語り掛けた。

「今までの私ならば、それも良しと、思ったかもしれません。私達はこの世界の理、そこから外れることは叶わない。ですが、ええ、ですが――」

「『なれば、智慧女神スヴィナ様! 己が理に従ってお答えを!』」

 ペルランが発した権能による宣誓に、彼女は息を飲み。吐息で僅かにヴェールを震わせ、そっと目を伏せ――開いた。静かな紫色の瞳は、全てを睥睨し、何か一つを見つめることはない、静かな瞳だった。

「――私は、始原神イヴヌスの裁定に基づき、理を果たしましょう。いつも通りに、いつもと変わらず」

「おお――何と慈悲深く有難き事……!」

 感涙せんばかりにその場に跪き頭を下げるペルランと、固まったまま目を逸らさないジェラルドの前で、静かに言葉は続いた。

「……私は智慧女神スヴィナ、四地の神が滅び、八柱の神々が眠りについても、未練がましくこの地にしがみ付き続けた、最後の一柱。神々の円卓へ詣でる、それが私に許された唯一の理でしょう」

「ええ、その通りです! これが世界の理として、正しき姿なのです!」

 頬を上気させて満足げにペルランが頷き、彼女の手を引こうとした瞬間。その腕に、サーベルが振り下ろされた。

「っ、『避けろ』!」

 反射的にペルランが権能を発揮し、己の存在を数歩離れた場所へ移動させた。勢いで床を削り取ったサーベルを構え直し、ジェラルドは己の背に女王を庇い、怒りに震えていた。

「貴様。……四肢を切り飛ばし、腸を潰される覚悟は出来たな? 我等が女王陛下を辱めた罪、許しがたい」

 数多の権能をぶつけられた筈の体はぎしぎしと軋みを上げているのに、ジェラルドは其処に立っている。青灰色の瞳を真っすぐにペルランに向けて。僅かに臆した自分から目を逸らし、あくまで冷静に神の信徒は告げた。

「何を言う、これが正しき姿だと告げられた筈だ。神は神、竜は竜、魔は魔、人は人。決して交じり合わず、変わることはない。人の国の上に立つ神など、それこそが誤りなのだ!」

「その口を、閉じろ、愚物」

 ジェラルドは声を荒げない。怒りが通り越し過ぎて、声もうまく発せられないのかもしれない。黒い左手がぶるぶると震え、弾の込められた短筒を抜き放った。

「――『動くな!』」

 ペルランの声に僅かに震えるが、その動きは僅かに鈍くなっただけで止まらない。闇竜の鱗が食い込んだ腕は、ずっと痛みを訴えている。けれど、それが却って良かった。そのおかげで腕の感覚を思い出せる。成程、確かにこれは必要かもしれない。もはや恐怖も齎さない。――この男だけは絶対に許さない!!

「我等が女王陛下の忠臣として進言する! 女王陛下は誰にも傅かぬ、エルゼールカの頂点! 始原神ごときに従う言葉など、このお方の口から一度も聞いた試しはない!」

「それが誤りだと言うのだ! 智慧女神様は始原神様に作られたこの世の理――」

「口を閉じろと言ったッ! 妄言はもう要らん。我らが女王陛下が、私が馳せ参じた時に、何一つ言葉をかけて下さらないなど有り得ない」

 きっぱりと言い切ると、後ろから小さく息を飲む音が聞こえた。それだけで充分だった。

「女王陛下のお望みを、お心を、勝手に己の欲で満たそうとした罪、万死に値する。もはや声を聴くのも汚らわしい、このまま全て焼き尽くされて死ね……!!」

 絞り出すように叫んで、ジェラルドは銃を構えた。その腕は巨大な竜の顎と化し、ぎちぎりと牙の並んだ口を開き――巨大な黒い火球を、ペルランに向けて吐き出した!

「『竜の焔は神を傷つけぬ!!』」

 ペルランの権能は確かに発せられ、向かってきたひたりと炎を防いだ。熱さは酷いが、彼が耐え切れぬほどではない。悔しげに歯を噛みつつ、再び秩序神に祈りを捧げようとしたその時。

【――驕ったな、地蟲】

 ジェラルドの左腕が、言葉を発した。顎を動かさず、魂を震わせる音で。

【神は神、人は人。自ら神と名乗った愚物、秩序神の奴隷を名乗るのも烏滸がましい。燃えて、尽きろ】

 その言葉に、ペルランが己の過ちに気づき瞳を揺らした瞬間。応えるかのように、壁に阻まれた黒炎が更に激しく燃え上がり、男の体を包み込んだ。

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