閑話:神従達の祈り
巨大な飛行船は、海原を飛んでいた。本来ならば神官達が神に祈りを捧げ、浮力と推力を生み出さねば飛べぬこの船は、エルゼールカより逃亡してから数日、止まることなく空を飛び続けていた。皇国すらも彼らの行方を追うことは出来ない。修練を積んだ神官が、神の翼の如く浮遊の奇跡を振るうことは出来ても、祈りが途切れれば地に落ちる。休みなく飛び続けることなど出来ない筈なのだ。
しかし祖国を裏切る形になってしまった筈の乗組員達は、何の混乱も無く、粛々と皆、船内の持ち場に付き、交代制で祈りを捧げていた。この裏切り――と言うよりも、エルゼールカ女王の略取は、彼等の悲願であり、途方も無い長い時間をかけて計画されていたことだったからだ。すなわち、今回の国司として選抜された者達は皆、キュクリア・トラペサに様々な手を使って牛耳られていたのである。皇国としては何としても隠さねばならぬ汚点だった。
カラドリウス神聖皇国が建国されて四千年、神々の力を得た依り代と呼ばれる神官達が、国を支配し続けている。しかし時を経ていく中、神の力は少しずつ人から奪われていった。神の奇跡を奉じることは、その体を神に捧げるに同じ。強き奇跡を得る為に、代償に失うものが増えていき、神官達は零落せざるを得なかった。神に祈りを捧げても、奇跡を求めてはならぬと臣民を戒め、新しい国の形を作ろうとした。
それに異を唱えたのが、キュクリア・トラペサである。自分達の命も魂も、神に捧げ神をこの世界に呼び戻すのを本懐とする者達。世を乱す教えは許されぬと神殿から断じられ放逐されても、彼らの顔は一様に晴れやかだった。何故なら既に彼らは、二柱の神をその手に収めているのだから。
油断なく甲板を見張っていた神官達が、空を飛んでくる白い服の女性に気付き、出迎えの為に整列する。その前に優雅に着地したのは、笑顔を絶やさぬイエイン・ランだった。傷は既に癒したらしく、服も着替えたのだろう、乱れは見えない。先刻、ジェラルドの前で見せた狂乱は、全く晒していなかったが、顔には明確な不満がありありと浮かんでいた。
「イエイン様、お帰りなさいませ! ご首尾は――」
「良いように見えて?」
「は、申し訳ありません!」
「ペルランに報告します。入れて下さいな」
「ははっ!」
慌てて道を開ける神官達の間をあくまで優雅に歩き、彼女は船の内部に降りる。中は下手な屋敷よりもずっと広く、砲手部屋や操舵室、食堂の他殆どの部屋は個室を兼ねた祈祷室だ。そして船の中心部には、乗組員が全員集まっても余裕がある、八柱神の祭壇が据えられている神殿がある。その部屋に向かう廊下をイエインが歩いていると、入り口の扉に寄りかかっていた白い影が僅かに顔を上げた。
「……あ、おかえり」
一目見るだけで不機嫌だ、と言いたげな顔と、ふてくされた声でそう言ったのは、嘗てジェラルド達がエルゼールカで出会った白い髪の女――クレーエだった。イエインも一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに優雅な笑顔で返す。
「まあ、お出迎えありがとうございます、クレーエ」
「別に迎えにきたわけじゃないし。一人で戻って来たってことは、失敗したんでしょ」
は、と心底馬鹿にしたような笑い声を吐き、胡乱な瞳と虚ろな瞳がぶつかる。そのやりとりだけで、この二人の相性が悪いのは容易に知れた。廊下に詰めている他の神官達も、顔を見合わせつつ、どうしようかと距離を取っている。彼女達のこういう諍いは、珍しいものではない。
「あんなえらそーに、『竜に囚われた哀れなあの方を救わねば!』とか言ってたくせに。イカれたアンタの言葉なんて、説法にもなんないんじゃない?」
「……相変わらず、失礼な方ですね。ご自分の機嫌で人に当たらないで下さいまし。ジュラーヴリが智慧女神様にお仕えすることに、嫉妬するなんてみっともない。わたくし達、神従が成すべきことを御理解いただけていないのでしょうか?」
「っ、うっさいババア! ばーか!」
図星を指されたのか、クレーエの顔がかっと紅潮する。言葉では勝てないらしく、子供っぽい捨て台詞を吐いた後、酷く寂しそうな目で一度だけ、部屋の扉を見返り――走って行ってしまった。クレーエ付きの神官達が、慌ててその後を追っていく。イエインは眉間を押さえ、呆れたように溜息を吐いた。
「全く、もう。ジュラーヴリは奇特な方ですね、あんな女性が傍に侍る事をお許しになっているのですから……」
「何か揉め事か?」
低く鋭く、まるで心に真っ直ぐ突き立ってくるような第三者の声が響き、イエインの背筋が伸びる。他に残っていた神官達も、慌てて最敬礼を取った。
「これは、ペルラン。申し訳ありません、またクレーエの癇癪ですわ」
「またか……あれにも困ったものだ。我等の崇高な理念を理解していると言い難い」
後ろを振り向き、深々と礼をしたイエインの前に立っているのは、ひと際豪奢な神官衣を着て、首に灰色の布を垂らしている男だった。それは、嘗てカラドリウスに務めており、今や其処からもエルゼールカからも追われる身である、ペルラン・グリーズ。
その姿形は、見る限り普通と言ってよい程特徴が無い。何か強い迫力や、筋骨があるわけでもない。それなのにその声は、まるで逆らうものを許さないと言うような鋭さが篭っており、何も知らぬものでも頭を垂れかねない威力がある。
「我等キュクリア・トラペサは、神にお仕えする神従として、この見捨てられた大地に再び神々をお迎えしなければならん。我等一同が詰まらぬ諍いをしていては、とても望めん」
「仰る通りにございます。わたくしはリチア様の神従として、必ずやかの闇竜を滅ぼしてご覧にいれますわ。残念ながら、ジェラルド・スターリングの引き入れには失敗してしまいましたが……」
「そうか。あれほどの男なら、智慧女神様に祝福を賜れば、かなり力の高い神従となれそうだが」
「確かに意志の強さだけは間違いありませんが、その心は既に闇竜に囚われております。スヴィナ様御自らにお言葉を賜らなければ、翻ることなど無いでしょう」
綺麗に塗られた爪をゆっくりと撫でながら、イエインは苛立ちを隠して告げた。笑顔一つ見せずにペルランも頷く。
「成程」
「それに、もしスヴィナ様の神従になるとしたら、ジュラーヴリの地位を脅かし、ますますクレーエの機嫌を損ねることになりかねませんわよ?」
「ふむ……」
一理ある、と思ったのか、顎に手をかけて黙考するペルランに深々と礼をして、イエインは踵を返す。ただでさえ今日は任務に失敗した上、相性の悪い女と無駄にやり合ってしまった。更に叱責まで受けて、嫌な気分になりたくなかったのだ。幸い咎められることなく、彼女は先刻クレーエが陣取っていた扉の中に入ることが出来た。
普段は祭壇のみがある殺風景な神殿は、豪奢な絨毯の上にクッションが沢山引かれ、ゆったりと寛げるようになっていた。低いテーブルの上には菓子や果物、花が並び、美しく飾られていた。
しかし、その壁面は板張りではなく、まるで蜘蛛の巣のように幾重にも編み上げられた魔銀の鎖で覆われていた。部屋を飾ると言うよりも、部屋の中のものを決して外へと逃がさないような、狂気すら感じる装いだった。
部屋に居るのは男が一人、女が二人。
男は、全く持ってこのきらびやかな部屋に場違いである、武骨な鎧を着けた褐色肌の男。――クレーエからはラーヴと呼ばれていた、その本名はジュラーヴリ・チョールヌィ。嘗てはカラドリウスの貴族であり、代々キュクリア・トラペサとして敬虔なる祈りを捧げる一族の跡取りだった。
その傍に座っている女は、金髪を綺麗に纏め、顔半分をヴェールで覆った、エルゼールカ女王にして、智慧女神スヴィナ。一際豪奢な絨毯の上に座っている彼女は、拘束されている様子は無く、当然だが寧ろこの上なく丁重に扱われている。
そして、二人から少し離れた椅子の上に蹲るように座っているのは、美しい銀糸の髪を背から床に流し、俯いたまま、ほとほとと涙を流し続ける娘。見た目はスヴィナよりも僅かに年上に見えるが、その様はまるで親とはぐれて泣く幼子のようだった。
「まあ、リチア様! またお嘆きになっておられたのですね! 申し訳ありません、わたくしが離れたばかりに!」
イエインはさっと顔を青くして、銀髪の少女に駆け寄る。恭しく手を差し伸べ、涙をそっと拭ってやる様は、見ようによっては微笑ましい母娘か姉妹と映るかもしれないが、どこか異様だった。
リチア――即ち、銀月女神の名を持つ娘は、己の敬虔なる神従である筈のイエインの手に、一瞬怯えるように身を竦ませた。そして助けを求めるように、窓の無い部屋の壁や天井を見回し、その向こうにあるであろう空を見詰めている。
「ご安心なされませ、リチア様。わたくし達が居る限り、もう二度とあの悍ましい竜など近づけさせませんわ」
その行動こそを怯えと取ったイエインが、本気の声音で慰めの言葉を吐く。彼女にとって、この麗しき女神は守護すべき絶対の対象であり、それを奪おうと襲いかかるものは紛れもない敵である。――女神がどう思っているかなど、考えることも無く。
「……」
それを見詰める王女の、ヴェールに隠された口からは、何も聞こえない。彼女は何も話すことなく、何も求めず、ただ超然と其処に座っているだけだ。その隣に座り、臣下の礼を取っている男は、その様をどう思ったのか、目を伏せて淡々とした重い声で呟いた。
「……スヴィナ様。お心を煩わせ、申し訳ない」
相変わらず抑揚の無い声音だったが、僅かに込められた謝意に気付いたのか、女王はそっと首を横に振る。が、それ以上の言葉は紡がない。ジュラーヴリも承知の上なで、何も言わない。ただ、まるで置物のように彼女の傍に控えているだけだ。
彼等――キュクリア・トラペサにとっての念願の一つ。それは約千年、エルゼールカに不当な地位を持って縛り付けられた、神の一柱を助け出すこと。チョールヌィ家がずっと願い続けていた本懐を、この度漸く遂げることが出来た。此処に集う神官達は誰もが喜んでいた――それによりエルゼールカが混乱の坩堝に落ちることも、彼等は当然理解しているが、意に介さない。全ての神が地上に戻り、その力を見せれば、彼等もスヴィナ神に頭を垂れ、信仰するであろうと本気で思っているからだ。
キュクリア・トラペサの思惑を、当然ではあるがエルゼールカ女王――智慧女神スヴィナも、理解している。
彼女は智慧の女神である。生まれながらにこの世を象る文字を全て読む瞳を、始原神に権能として与えられた彼女は、それ故に己の言葉が発展と滅びを齎す事にすらも気付いてしまい、自らの言葉を封じたと言われている。その伝説に従うように、彼女は言葉を話さない。
彼女は知ってしまっている。自分を略取した者達が、何を求めているのかを。
それを止めることは、自分では出来ないということを。
即ち――神が、どうしようもなく、無力だということを。
ほんの僅か、顰められたスヴィナの眉根に気付いたらしいジュラーヴリが、不意に立ち上がる。未だリチアを抱き締めんばかりの勢いで迫りその髪を撫ぜているイエインに近づき、やはり朴訥に言葉を紡ぐ。
「……イエイン。城壁将ジェラルド・スターリングに対する首尾は」
その声に、ぴくり、とスヴィナの指先が僅かに動いた。
イエインは至福の時を邪魔されたと不快そうに大男を見上げるが、根は真面目な彼女らしく不機嫌そうなままで答える。
「かの闇竜に心奪われた、愚者です。あのような身の程知らずに、貴方の地位を侵すことは出来ませんわ、ご安心なさいませ」
「――そうか」
慰めと励ましのつもりなのだろう彼女の言葉に、ジュラーヴリはやはり何の抑揚もない声で短く答えた。そのまま踵を返し、スヴィナの傍まで来ると、静かに膝を折って頭を垂れる。
「申し訳ありません、智慧女神スヴィナ様。かの城壁将がいずれ此処へ現れた時、私は彼と矛を交えねばなりません。――貴方は一国の主では無い。この世界の理の一柱なのです」
「……」
男の言葉は、今までとは段違いの明確な謝意が溢れていた。心の底から彼女を崇めているからこその詫びと諌めに、スヴィナは――ほんの僅か、肯くだけで答える。解っている、と言いたげに。
そして、ヴェールの下からほんの僅か聞こえるほどの小さな声で、己の敬虔な信徒へ向かって告げた。
「クレーエ・ヴァイスの所へ、行ってあげて下さい。……きっと、寂しがっているでしょう」
「……勿体無きお言葉、有難く頂戴致します」
信奉する神からの命令では無い「願い」に、ジュラーヴリは僅かに瞠目し、それからすぐに感謝の意を込めて深々と礼をする。
そのまま立ち上がり、足早に部屋を出て行く男の背を柔らかい視線で見送り。
視線を動かし、子守唄を紡ぐイエインと、その膝に寝かされながら身を縮こまらせている月の女神を、悲しそうに見詰め。
そして、銀糸の鎖で封じられた天を仰ぎ、呟いた言葉は。
「ジェラルド、どうか――」
そこから先は誰に届く事もなく、微かに空気を震わせるだけで、世界に溶けた。
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