◆5-3

 神殿の中は、非常に広かった。祭礼の為に使うのか、聖堂は円状で、一番奥にある祭壇以外には目立った家具も置いていない。丸い天井には窓、というには穴と言った方がよい刳り抜きが八つ円を書いて並んでいる。雨が降りこむのではないかと思ったが、神殿内は綺麗に床を磨かれており、拭き晒された感は無かった。

 イエインが何某かの人払いを行ったのか、神殿の中に人の気配は無い。それはジェラルドにとっても好都合だった。

 扉が閉まった瞬間、力の入らぬ指を無理やり握り締め、サーベルを一薙ぎする。精一杯狙いをつけたつもりだったが、隣に立っていた筈のイエインは、まるで霧に映された像のように揺らぎ、充分な間合いをとって再び現れた。

「まぁ、野蛮ですこと」

「……貴様に問うことはひとつ。女王陛下を何処に連れ去った! 答えないならばその命、贖いに差し出せ!」

 サーベルを構え直して気炎を吐くジェラルドの言葉に、イエインは僅かに感心したような、或いは呆れたような息を吐いた。

「……本当に、お強い方。誇って頂いて構いませんわ。わたくしは今、貴方に夢幻の奇跡を祈りました。並の人間ならば、永遠にわたくしの姿を捉えられないほどの代物を」

 そう言って、彼女は緩やかに微笑んでみせる。しかしその顔は、どこか不快感を催させる歪さが滲み出ていた。

「それなのに貴方は、わたくしをたったの一時、見失っただけ。銀月女神リチア様の、一番傍に居るこのわたくしの奇跡が効かないなんて」

 どうやらジェラルドの精神力の強さが、イエインの誇りをいたく傷つけたようだった。唇は笑みを象っているのに、歯は悔しげに噛みあわされ軋んでいる。どこか狂気を感じさせるその様に、ジェラルドは油断なく間合いを計る。

「貴方にも一度説いて差し上げましたでしょう? 天空にずっと輝き続けてきた銀月がその姿を消したこと。それは我々――キュクリア・トラペサが、銀月女神リチア様を地上へ再びお呼びしたからです」

「戯言を……」

 世迷言としか思えぬ相手の言葉に、ジェラルドはいよいよ斬りかかろうと腰を落す。その姿を不満げに見遣りながらも、イエインの虚ろな瞳にはどろりとした熱が篭った。

「忌まわしき闇竜に囚われていたリチア様をお助けしたわたくしに、お優しいリチア様は祝福を下さったのです。心の痛みを癒し、また他者の心を救うこの力を!」

 イエインが祈りを捧げるように両手の指を絡め、藍色の瞳をすうと眇めた瞬間。ぐにゃりとジェラルドの視界が歪み、堪らず踏鞴を踏んだ。同時に心臓の裏を、ぞわぞわと蟲が這いずっていくような、何ともいえぬ不快感を味わう。

「貴、様っ、何をした……!」

「銀月女神リチア様の奇跡は、傷ついた心を慰撫し洗う、優しき慈悲の輝き。嗚呼――貴方も、辛い傷をそのお心に負っているのですね。大丈夫ですよ、わたくし達と共に来れば、きっとその傷も癒されるでしょう」

 まるで周りの空気が水飴のようにぐにゃぐにゃと、質量を持って自分を押し潰そうとするかのようだ。遠くに聞こえていたイエインの声が不意に近くなったと思った瞬間、頬に白い手袋の手が当てられていた。

「さぁ。思い出して――全て私が、包んであげますわ」

 ねっとりとした熱の篭る、藍色の瞳洞。それに飲み込まれた瞬間、周りが一気に暗闇に落ち、彼女の声が再び遠くなる。

 両腕が、両足が、動かない。まるで何かに拘束されているかのよう。

 否――拘束されている。特注の革紐だ。逃げられないと、何度も言われた。

 誰に? あの男に。魔操師だ。逆光で煌く眼鏡。名前など知らない。

 何度抵抗しても動けず、繋がれて、そのまま。

「っうあ、ぐ、ああああああ!!」

 激痛。思い出した。これは、痛みだ。

 がりがりと皮膚を引き裂かれ、ぐちぐちと肉を打ち潰され、ぼきぼきと骨を砕かれた。その度に、体中に走る、魂が潰れるような何かの衝撃。体も心も魂も、削り取られて消えていくような。

「嫌だ、っが、いた、あああ、痛い! 痛い! 痛い、いやだああああッ」

 身も世も無く、ジェラルドは叫ぶ。否――彼はもう、ジェラルドではない。そんな名前などない、まだ彼が何者でも無かったときの、ことだ。

 痛くて、痛くて、痛くて、叫んで――いつか、痛くなくなった。

 その時にはもう、腕も足も、無くなっていたから。

 それなのに、また――新しい腕と足がやってきて――

「いやだ、っぐ、あ、もういや、だ」

『大丈夫ですよ。わたくしが包んであげますから。安心なさって下さい――』

 優しく響く声。そうだ、こんなものはただの悪夢だ。昔の事だ。大丈夫だ、あのひとがきてくれれば、すくって貰える。

『ええ、わたくしが助けて差し上げます。どうか、心を楽に――』

 優しい、優しい、その声に、すがり付こうとしたその時――


【――返せ!】 


『えっ!?』

 優しい声が、驚愕に揺れる。その原因は、己の内から響く、別の声。


【――貴様か! 返せ! 返せ! 我が妻の輝きを!!】


『なんてこと――退きなさい! 邪魔をしないで!』


【――貴様如きに、我が妻の輝きを扱えるものか! 返せ!】


 ああそうだ――その通り。

 この声が、この女が、あのひとの――女王陛下の代わりなど、出来る筈も無い。


【――身の程知らずの、地蟲がァッ!!】

「この……身の程知らずがあああっ!!」


 己が内の声と、同時に叫んだ瞬間。

 彼は、ジェラルドに立ち戻った。全身を支配していた、痛みが消えた。同時に、感覚の無くなっていた腕が、自由に動かせる。

 故に、何の躊躇いも無く、目の前の敵に向かって、サーベルを薙いだ。

「きゃああああ!!?」

 悲鳴と、僅かに硬い感触。銀糸で彩られた白い法衣は、思ったよりも強固な守りを持っているようだ。それでも布をざっくりと切り裂き、僅かではあるが、相手の肌に届いた。

「なんてこと――なんてこと! 貴方は既に、闇竜に誑かされていたのですね!?」

 胸元を切り裂かれ、数滴飛び散った血には気を払わず、ただ己の奇跡が通じなかったことに対して、イエインは錯乱しているようだった。目の前の現実を信じたくないと言いたげに、頭を抱えて首を左右に振っている。だがジェラルドも、例え一時でもこのような女に惑わされた事実が許せるわけがない。

「我等が女王陛下の姿と言葉を、偽ったが重罪ッ――許しがたし! その首、斬り落とされるを贖罪と思え――ッ!!」

 情報を聞くことは頭から吹き飛び、武器を大上段に構えると、そのままイエインに肉薄する。

「! 失敬――!!」

 切っ先が届く一瞬前、我に返ったイエインが、何事かを素早く紡ぐ。瞬間、彼女の体はまるで鳥のように浮かび、神殿の天窓まで飛び上がった。

「……ペルランの見立ても、当てにならないものですね。貴方は危険すぎます。もうお会いすることは無いでしょう。貴方の内に、その闇竜が巣食っている限り!」

「逃げるな! 降りて来い!!」

「悔い改めるのならば、智慧女神スヴィナ様に祈りを捧げなさい。貴方の祈りが真摯であるのなら、かのお方に届くでしょう――」

 それを最後に、彼女の体は天窓から外に消えていく。首を巡らすが、屋根に上れそうな階段や梯子は無い。しん、と聖堂の中は静まり返り、ジェラルド以外の気配はもう無くなった。

「……一度ならず二度までも、逃したかァッ!」

 憤りを堪えることが出来ず、抜き身のままのサーベルをがつん! と思い切り床に突き立てた。わん、と響く彼の声に、答えるものは何も無い。無論、神の声など、聞こえる筈もなかった。

 ぐらりと体が揺れて、神殿の壁に背をつき、乱暴に腰を下ろす。今更ながら、眩暈が酷い。恐らく、イエインの使った奇跡により、意識を掻き回されたことの弊害だろう。吐気を堪え、先刻の事を思い出す――迂闊に過去まで思い出すと動けなくなるので、その後のことを。

「――……あの声、は」

 そう、誘惑する女の声を断ち切った、低く重い声。怒りだけが篭ったその声が、混濁する意識の中からジェラルドを掬い上げた。夢の中で聞いたものと、同じ声。

「闇竜、なのか?」

 推測を呟いてから、あまりの不快さに眉を顰めた。女王陛下に徒名す仇敵のせいで助けられたなど、とても認めたくない。

 それでも――アグリウスの言葉を思い出し、ジェラルドは不承不承ながら立ち上がる。歩みを止める理由などない。まずは出来る限り、封折山脈に近づかねばならないようだ。

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