痛み無き獣、闇竜と誓いを交わし、疼痛を取り戻す

◆6-1

 封折山脈の裾野には樹海が広がり、カラドリウスとナシプにとっては互いの不干渉を貫ける、天然の要害になっている。

 森で糧を得ている村も決して珍しくは無かったが、山越えを目論む旅人はそうそう居ないらしく、登山の仕度を整える為にその村を訪れたジェラルドは、話す相手すべてに止められた。

「止めとけ止めとけ。樹海に慣れた俺達でさえ、山まで入っちゃならねぇ」

 狩人達が口々に言うと、周りの人々も追従した。

「山麓にゃあ今でも、人に仇名す魔獣が出てくる。あんた一人じゃ、無理だよ」

 保存の効く食料を渡しつつも、商人は渋い顔でそう言った。ばらまいた宝石が効果を挙げたのか、山道を歩きやすい靴まで売ってくれたが、言葉では何度も止められた。

 しかし当然、そんな言葉はジェラルドの歩みを止める理由にはなり得ない。ナシプで敵の一味を取り逃がすという失態を犯し、他に明確な手がかりが無い以上、最早カラドリウスへ潜入するしか道が無いと彼は決めた。ナシプから帝国行きの船は幸い運行していたが、エルゼールカ人であるジェラルドが何の咎めも無く乗れる筈もない。陸路しか、方法が無いのだ。

 纏めた荷を背負いなおし、村唯一の酒場を兼ねた商店から出ようとすると、背中に慌てた声がかけられた。

「おいおい、本当に行く気かよ。もう夜になる、森に入るのは危険すぎるぞ」

「そうだ、でかくて黒い翼の化け物に襲われちまう」

 今まさに、扉を潜ろうとしていたジェラルドの足は、それで止まった。ばっと振り返り、それを言った男に飛びつく。

「その翼を持った化け物とは!?」

「え、おお!? 何だよお前」

「答えろ! それは、黒い鱗と瞳を持った大蜥蜴か!?」

 今まで何の反応も返さなかった旅人の掌の返しように、男は戸惑いつつもその問いに答える。

「あ……ああ。夜でも何でかぎらぎら光る、おっかない黒い鱗の化け物だったよ」

「夜になると、山脈を越えてカラドリウスの方に飛んでいくんだ」

「ありゃあきっと、崩壊神様の眷属かなんかだよ」

「大きさは!? 牛ほどか、それとも馬ほどか?」

「そんなちゃちなもんじゃねえよ! どんなに高ぁく飛んでたって、ありゃあ家より大きかったよ」

「そうだそうだ、いっぱい飛竜を引き連れて――」

「世話になった! 礼を言う」

 残り少なくなった宝石を一つ、その男に無理やり握らせ、ジェラルドは駆け出した。後には呆然と残される村人たちのみだ。

 宿代わりに使わせて貰っている厩舎の片隅に戻り、ジェラルドは入念な山越えの準備を始めた。

 登山など、エルゼールカで生まれ育った彼にとって初めての経験だ。話だけなら村人達から色々と仕入れることが出来たが、案内人も居ない素人が越えられる山ではないというのが解っただけだった。

 それでも、彼の歩みを止める理由には成り得なかったが、そこで降って沸いたのが、黒い翼の怪物――恐らく、エルゼールカの空を脅かし続けた闇竜の存在だった。

 忌まわしき闇竜。ジェラルドがその命をかけて、滅ぼさんとする存在。

 しかし同時に――キュクリア・トラペサの所持する飛行船に、この世界で唯一追い縋ることの出来る存在。

 ならば、ジェラルドは腹をくくった。女王陛下を救出する為に、闇竜を利用しようと結論付けた。例え憎き敵でも、己が役に立つのなら――女王陛下の為ならば、己が心の憂さなど瑣末事になる。ジェラルドは本気で、そう思っていた。



 ×××



 エルゼールカから出発して十日目の朝、ジェラルドは山脈の裾野である樹海に分け入った。道案内など無い。一応頼んでみたが、どれだけ報酬を提示してみても、誰もが怯えて拒否をした。解っているのは、明け方に黒い化物が降りていった場所、其処へ向かう大まかな方角だけだ。

 木の根と下草だらけの地面は、慣れぬ彼にとって歩き難いことこの上なく、枝葉の闇からは、不気味な獣の声が昼間も夜も木霊する。それでも、只管に歩いた。

 補給した簡易食と干し肉は、出来る限り食べる量を減らす。水も、一度の量で僅かに唇を湿らせるだけにした。そして、昼夜関係なく、目的地に向けてがむしゃらに歩き続けた。疲労により動けなくなれば、適当な木の上で蹲って僅かに睡眠を取り、目を覚ませばすぐにまた歩き出す。

 あまりにも厳しい行程であったが、ジェラルドは苦に思わなかった。まっすぐ前を見据える瞳には、微塵の揺らぎも、不安も無い。

 もし、道に迷い、生き倒れたら。――そんな事を、彼は考えない。

 もし、異形の獣に襲われ、食い殺されたら。――そんな事を、彼は考えない。

 もし、かの闇竜に邂逅し、今度こそ息の根を止められたら。――そんな事を、彼は考えない。

 やらなければいけない事は、闇竜の力を借りて、カラドリウスの飛行船を追い、女王陛下を取り返す事。その為ならば、彼は迷わない。

 失敗してはいけない、という戒めではない。失敗するはずがない、という傲慢でもない。

 成功をする。彼は、それしか、考えない。

 何故なら、ジェラルド・スターリングという存在が、そういうものであると彼自身が思っているからである。

 ――例えば、鉄を鍛えて作り上げられた剣が、斬る相手の力量を測り、勝つか負けるか考えることなどしないだろう。

 また、「斬りたくない」だの、「斬れないかもしれない」だの、そんな思考をする筈もないだろう。

 それを考えるのは剣を振るう使い手であり、剣はそのような思考をしない。ただ、斬る。使い手の振るうままに。剣とは、そういうものだ。

 だから、彼は自分の嗜好を行動に挟まない。そんなものは、邪魔だからだ。

 だから、彼は失敗を思考しながら動かない。そんなものは、邪魔だからだ。

 だから、彼は。

 自分が人間であると、あまり思っていない。

 彼の行動に、大抵の人間は驚く。慄く。恐れる。嫌がる。そして彼を、「首輪付きの狂犬」「人とは思えぬ」と唾棄しながら吐き捨てる。

 一番近しい場所にいるだろうポリーですら、たまに彼の言動に怯えている。そのことにも、気付いている。

 不快や寂寥はない、と彼は思っている。ただ、自分はそういうものなのだろう、という納得だけをした。

 ジェラルド・スターリングと言う名前を、女王陛下から賜ったあの日から。

 名前だけではない、意志も、地位も、心も、命さえ、全て。彼女が居たから得ることが出来たのだから。

 己の全ては女王陛下の「もの」なのであると、納得してしまったのだ。



 ×××



 ばさばさっ、と羽音が聞こえて、ジェラルドははっと天を仰ぐ。生い茂る木々に邪魔をされてはっきりとは見えなかったが、夕闇の中を飛んでいく、蝙蝠にしては随分と大きな影がひとつ、ふたつ。

「羽蟲かっ」

 その正体が飛竜であると仮定し、飛んできた方向へ向かって歩き続ける。

 やがて――崖の岩肌に、ぽっかりと口を開いた洞窟を見つけた。

 入り口は、大人十人が手を広げて並べるぐらいに幅広い。高さも申し分なく、深さもかなりありそうだ。穴の奥にはまったく光が届かないらしく、明り石を向けても闇が払拭できない。

 ここだ、とジェラルドは感じた。勘といえばそれまでだが、この洞窟の入り口を覗いた時から、闇竜の顎に飛び込んだときと同じ、何ともいえぬ不快感を覚えた。同時に、心臓がどくどくと煩く、高揚ではなく高鳴る。そこに流れている筈の黒い血潮が、嘗ての主へ近づいて沸き立っているのかもしれない。

 ここが目的地に違いないと、油断無くサーベルを抜き、ゆっくりと闇が支配する穴倉に足を踏み入れた。

 かつん、かつん、とブーツの踵が岩肌を叩く。壁に触れ、慎重に奥へ進んでいくと、ついに完全なる暗闇が訪れた、その時。


【……何者か】

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