◆6-2

「!」

 不意に低い音が、びりりと壁面を震わせる。同時に、ぐるぐるという獣のような呻き声。

 そこでジェラルドも、漸く気付いた。

 洞窟自体は、そんなに深いものではなかったのだ。

 ただ、洞窟の半分を埋める闇の塊が、僅かに蠢き、ねらりと鱗の光沢を返し、その中に、黒い光としか形容できない目玉が見えた。

 まるでこの空間全てを埋めているかのような闇の殆どが、角と牙を持つ巨大な生物であることに、漸く気付いた。

 一つ唾を飲み込み、ジェラルドは胸を張って前に進む。虚勢であれど、竜に下げる頭など持ってはいない。寧ろ激昂して切りつけることを堪えなければならない方が大変だ。

「問う! 貴様は、闇竜ラトゥに相違無いか!」

【……人か。失せい、我が眠りを妨げるな】

 ジェラルドの誰何を、忌々しげに響く声が一蹴する。その声は尊大この上なく、人など塵芥としか思えないと言いたげだった。ジェラルドは眉間に皺を寄せたまま、サーベルを真っ直ぐに闇へと向ける。

「我が名はジェラルド・スターリング! エルゼールカ女王陛下の忠臣也! 貴様の舌に傷を負わせたこの刃、忘れたとは言わせんぞ!」

 わん、と声が響き、静まる。ずるり、と何かを引き摺る音がして、闇の中にひとつ、黒の光が瞬く。

【……ほう】

 光の隣りに、もうひとつの輝き。並んだ光が、じわりと闇の中から冠翼の、顎の、体の輪郭を浮かび上がらせる。それはまるで、洞窟の中に溜まった闇が、集まり形となっていくかのようだった。

【噛み砕き損ねたあの地蟲か。地べたに潰れたと思うたが】

 くぐもっていた声がはっきりと聞こえ、その姿が明り石によってついに照らし出された。

 飛竜が十匹合わさったよりも巨大な体は、黒く輝く鱗に包まれている。牙を備えた大顎は、開けばジェラルドを一飲み出来る程に大きい。鋭い爪が生えた四足と、身体を覆う更に巨大な翼。丸太の如く太い尾が、ばしんとひとつ地面を叩いた。

 ぐうっと喉奥に沸き起こる嫌悪感を堪え、ジェラルドは巨体を睨み上げる。怯えでは無く、武者震いを起こす腕を堪え、サーベルを鞘に戻す。一瞬、闇の中に光る、黒色の瞳が瞬いた。

【如何した。地蟲が身の程知らずにも、意趣返しに来たかと思うたが】

「機会があれば、いつであろうと。だが今は、そんな無為を過ごす気は無い。俺の目的は、貴様を殺すことではない」

【はっ】

 ぐぱり、と大顎が開き、乱杭歯と黒い舌が見えた。そこから聞こえてきた老獪な声は、紛れもなく嘲笑。

【殺す。殺すと言うか。人が、神の奴隷に過ぎぬ地蟲が、竜を殺すと?】

「女王陛下のお望みとあらば」

 何の気負いもなく、ジェラルドが返した次の瞬間。

【図に乗るな愚物!】

 何の前触れもなく、体をしたたかに打たれ、岩壁に叩きつけられた。

「っぐ!」

 その衝撃に、流石のジェラルドも顔を顰める。ずるり、と壁に沿って膝を折りながら、自分を打ったものが竜の尾であることに漸く気付く。一抱え以上の太さをもったそれは、遠慮なくジェラルドの体を打ち据えた。狭い場所ゆえ手加減して振るったのだろう、もし本気で打たれていたら骨が折れていたかもしれない。

【そも、地蟲と言葉を交わす価値など無いわ。頭から噛み砕かれたくなければ早々に立ち去れい!】

 悪罵を叩きつけてくる声には、この上ない苛立ちが籠っている。この竜が人と会話を交わすだけでも、本来ならば有り得ぬことであるのだろう。それでも――ジェラルドにも、引く気は無い。

「……黙れ。盲目の蜥蜴が」

 右手で岩壁を掴み、体を持ち上げる。人にしては丈夫な体を持っていると気付いたのか、あるいは只の嘲笑か、黒い玉が僅かに眇められた。その光を真っ直ぐに見つめ返し、ジェラルドはなおも言い募る。

「貴様の力を借りねばならぬなど、全くもって業腹だが。我等が女王陛下を救出するためには、貴様の翼が要るのだ」

 痺れたままの左腕をだらりと下げたまま、ジェラルドは告げる。己の意志を貫くために。

「力を貸せ、闇竜ラトゥ。見返りが欲しければ、くれてやる」

【は――。これほどまでに、人とは愚かか】

 ずるり、と体を引き摺り、竜の大顎が開かれる。己の体を一飲み出来る大きさの口が近づいてきても、ジェラルドは後に下がらない。

【食い殺されたいと望むのであろ? このまま首を差し出すが良い】

 鋭く尖った牙が、今にも旋毛に刺さりそうなほど近付いても、ジェラルドの瞳は真っ直ぐに前だけを見つめていた。

「これは取引だ。貴様にも、益は有る」

 竜は無言のまま、ぐいと牙を下ろしてくる。鋭い牙が脳天に刺さりそうになろうとも、青灰色の瞳を真っ直ぐに竜の喉奥に向けたまま。

「銀月女神リチアは、貴様の妻なのだろう?」

 一瞬の沈黙の後。

 ばくん! と顎が落ちた。――ジェラルドの、目と鼻の先で。

 黒瞳が、初めて真っ直ぐジェラルドに向いた。そこに僅かに揺らめいているのは、どこか郷愁の輝きに見えた。

【――何故その名を知っている。神の恵みすら忘れた地蟲であろうに】

 今までと違い、険が僅かに抜けた竜の声音に、ジェラルドは自分の予想が当っていたことにまずは息を吐いた。

 竜の黒血を浴びてから、何度と無く見てきた夢と、竜の襲撃時に聞こえた声。そして、イエインに心を謀られそうになった時、心の奥底から響いた叫び。あれは全て、腹立たしくも、目の前のこの闇竜の声だったのだ、と。

「我等が女王陛下を、僭越にも略取したキュクリア・トラペサ。その一員が、銀月女神リチアを天より取り戻したと自ら語っていた。――お前の求める妻と、俺がお帰りを願う方は、同じ狼藉者に略取され、恐らく今同じ場所にあられる」

 相手の問いには答えずに、事実だけを告げる。巨大な闇を真っすぐに見上げ、朗々とした声で宣言する。

「我等の利害は一致した! 力を貸せ、闇竜! 全てを果たせばこの命、如何様にもくれてやる!」

 闇の洞穴に、声が響き、沈黙。黒の瞳と、青灰色の瞳が、火花を散らさんばかりに睨みあう。

【く】

 やがて、僅かな音が、竜の鼻から漏れた。それはぐるぐると喉を震わせ、やがて大音量となって牙の間から飛び出す、哄笑に変わる。

【く、くくく、くはははははははっ!! ここまでの愚物を拝んだは初めてかもしれぬな! 繰言空言を紡ぎ続けなければ、生きてもいられぬのが人だと思うてきたが! 良いだろう、興が乗った。話を聞いてやらぬでもない! くははははははは!!】

 笑い声をジェラルドは不快そうに聞き流し、それが収まるのを待って改めて口を開く。

「我らが女王陛下をお迎えにあがり、エルゼールカにお帰り頂く。あの飛行船に対抗するには、空の戦力が不可欠だ。俺が知る限り、今この世界にあるのは――貴様しかいない」

【成程、成程。確かにあの膨れた鳥には、儂も用がある】

「なれば、力を貸せ」

【がなるな、地蟲。貴様如きには勿体無いが、ひとつ約定を結んでやろう】

 ざしり、と爪の生えた前足が一歩前に出る。再び、竜の鼻面に身を曝すことになっても、ジェラルドは動かない。そして乱杭歯の並んだ口が開き、提案が成された。

【地蟲よ、その血肉をひと欠け、儂に寄越せ。この身と人の血肉が混じれば、我が肉体は固体化する。金陽の輝きなど、恐るるに足りぬ】

「固体化?」

【この身は闇。光無き場所に凝り固まり、安寧を齎すもの。故に忌まわしきアユルスに追いやられるしか無い身を、肉と化するのだ】

「つまり――俺の肉を食えば、貴様は昼日中でも飛びまわれるということか?」

 どのような原理になっているのかは解らずとも、それが齎す益をきちんとジェラルドも理解する。金陽の下ではろくに動けぬ竜が、自由を手にすることが出来るということだ。

【如何にも。我等は、人とは違い約条は必ずや守る。金輪際、あの島は襲わぬと付け加えてやっても良い】

「……貴様の望むものが、エルゼールカに無いと解ったからか」

 ジェラルドの声に僅かに嘲笑が混じり、ふん、と竜が鼻を鳴らす。

【小細工を弄す人には業腹ものだ。だが、此度こそは逃さぬ。――この身に癒えぬ傷を刻むことが出来るものは、我が妻を於いて他に無いのだ!】

 今まで、嘲笑と悪罵しか篭っていなかった竜の声に、別の感情が混ざった。それは歓喜であり、また慟哭でもあった。

 そしてジェラルドも気付いた。黒竜の身体には、まるで焼いた剣で斬り付けられたような、痛々しい傷口がそこかしこに刻まれている。ただ金陽の光に焼かれたのなら、このような傷にはなるまい。まるで、質量のある光条に貫かれたかのような。

「飛行船の術式砲か」

 心当たりを口に出すと、ぐるる、とまた竜は喉を鳴らした。それが笑いなのか怒りなのか、音だけでは判別出来ない。

【あの鳥の腹に我が妻、リチアが居る! 地蟲の分際で神に手を伸ばし、あまつさえ力を奪い去った愚物共め! 我が妻を我が手に取り戻せるのならば、薄汚い肉の衣も纏ってやろうではないか!】

 竜にとっても、この取引は非常に不本意ではあるのだろう。地蟲と嘲るものと同じ肉体にならなければ、目的を果たせぬ事すら出来ない己に苛立っているのだろう。竜に対する敵愾心は相変わらず在るが――ジェラルドは、その考えに頷ける部分があり、黙ってしまった。

 彼も、同じなのだ。どのような無様を晒して、仇敵の力を借りてでも、取り戻したいものがある。

 闇竜が昼間でも飛び回れるようになれば、エルゼールカは再び危機に曝されるかもしれない。ジェラルドとて口約束がそうそう守られるものではないことを良く知っている。

 それでも。黒い血の混じった心臓が、促すようにひとつ鳴る。

 ――ジェラルド自身が、この竜の言葉を信じてみよう、と思った。それが、共感であったことに、まだ気づくことは出来なかったけれど。

 ひとつ息を吐き、己の左腕を伸ばす。僅かに開いた、竜の顎の中に。

「どれほど、食らう」

【くっく。そうさな、その腕一本、貰おうか】

「構わん。さっさとやれ」

【その心意気や良し。褒美に、儂の腕をくれてやろう】

 声が途切れた瞬間、開いたままだった顎が、がぐんと落ちる。

 ずぶり、と牙が突き立つ音。ぐじり、と肉がえぐられる音。ばきり、と骨が折れる音。

 それを聞いても、ジェラルドは眉ひとつ動かさなかった。

 痛みなど感じない。身体に食いつかれる不快感が、僅かにあるだけだ。

 ――己の腕が完全に食い千切られた、その様を見る瞬間までは。

 ぎりぎり、ぶちん。僅かな音を立てて、顎が肩口ごと腕をもぎ取る。左半身が不意に軽くなり、ふらりとよろめき――完全に無くなった、己の腕を見て。

「……ぁ」

 僅かな、戸惑いを含んだ呼気が、ジェラルドの口から洩れる。今の今まで、動揺一つ見せなかったのに、今青灰色の瞳に浮かんでいるのは――紛れも無い、恐怖。


 大丈夫。大丈夫だ。腕を失っても痛くない。

 そもそも、「痛い」とは何だった? 自分は知らない。だから平気だ。

 ああ、でも――腕が元通り治ったら、また痛くなる!!


「っ、ぅあああああああああああああああッ!!!」

 魂が砕けるほどの絶叫をし。

 ジェラルドはそのまま、意識を手放した。



 ×××



 ぐちぐちと、非常に不快な柔らかいものを咀嚼し、喉奥に捻じ込む。実に不愉快だと込めて、闇竜ラトゥは息を吐いた。

 竜とは、正確に言えば、生物ではない。火、水、土、風、樹、光、闇。原初の七つに代表される、自然そのものだ。

 その身は凝固と希薄化によって操るものである。必要な時に己が意思で紡ぎあげ、疲弊すれば世界へと溶かす。

 故に、人の血肉というのは竜にとって毒物でもある。これを身に蓄え続ければ、その身は竜では無くなってしまう。眷属である飛竜達ならばともかく、原初の七竜――世界を作り上げた始原神が作り出した者達が、そのようなことを望むわけもない。そも、ものを食らうという行為自体、竜は行わないのだ。

 だから、ジェラルドの腕も、竜にとっては溝泥の塊を無理やり飲み込んだようにしか感じない。その不快さも、耐えた。

 ずっと探し求め続けた妻を、間一髪のところで逃してしまった。無理やり金陽の光の下に浸した身は限界で、それでも後を追ったが、今度は他ならぬ妻の光――船から撃ち出された銀月女神の力をもろに食らい、その身を散らさざるを得なかった。自分にとって一番相性の良い、闇が蟠るこの土地で再起を測り、只管削られた身を癒しながらも、眷属を放って空飛ぶ膨れた鳥を探し続けていた時――身の程知らずが、やってきたのだ。

 金髪の人間、ジェラルドは完全に気を失い、闇竜の前に倒れ伏している。それを惰弱と侮るは簡単だったが、竜の目には今までとは違う僅かな興味が沸いていた。

 何故なら、彼が気を失ったのは、腕を食いちぎられた際の痛みによってでは無いと理解しているからだ。

 この男は、腕に牙を突き立てられ、肩ごと食いちぎられるその瞬間まで、僅かな呻きすらあげようとしなかった。どれだけ覚悟を決めていても、魂消るような痛みだろう。それなのに、何も反応しなかった。

 にも関わらず、彼の視線が既に無くなった腕に動いた瞬間、恐怖の絶叫を張り上げたのだ。

【なんとも、不愉快にして愉快なものが現れたものだ。崩壊神よ、貴様が気に入っておった、人の価値とはこういうものか?】

 ぐる、と喉を鳴らして嘯いた後、闇竜は無造作に、倒れた男の襟首を歯へ引っ掛ける。そのまま、ずるずると引き摺り洞窟の外へ出ると、まるで闇夜を更に濃くするかのように、ばさりと翼を大きく広げた。

 竜の鼻先にぶら下げられたまま、ジェラルドも空へと舞い上がる。未だに意識は戻らない。

 未だ血の止まらない肩口に――まるでとぐろを巻くように、ぬるぬると闇が凝り固まっていくのにも、気付かないまま。

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