憤怒の闇竜、欺くは、神に御霊を捧げた奴隷
◆3ー1
真っ暗な闇の中に、彼はひとりで浮かんでいる。
否、空に浮かんでいるのか、水に溶けているのか。それすらも、彼には解らない。
ただ、自分という存在が酷く曖昧で、大きく広がって揺蕩っているような、はっきりとしない感覚。
彼はしかし、恐怖を感じてはおらず、寧ろ心地良かった。自分はそういう存在だ、という理解と納得と、安堵があった。
相変わらず、世界は闇のままだけれど、その身はとても温かい。
何故なら自分の腹の中に、愛しい妻がいるからだ。
うつろいながら形を変えて、闇に惑うものたちを照らして慰める、心優しき妻が。
幾度、時が巡ろうと。神が去り、竜が眠り、魔が地へ封じられ、人が栄えようと。
永久に寄り添うことを誓った、美しき女神の光を抱き、彼はまた意識を攪拌させて微睡む。
――どれだけ、時が経ったのか。
酷い空虚を感じて、彼は目を覚ます。
その原因にはすぐに気付いた。
妻が居ない。どこにも、この身の内のどこにも、彼女が居ない!
いつの間に? 誰が? どうやって?
優しい妻が、何も言わず彼の傍から去ることなど有り得ない。ならば、考えうることはただ一つ。
――地べたを這いずる蟲共が。不相応にも、妻を掠め取ったのだ。
神の奴隷に過ぎぬ地蟲共が、愚かにも天に手を伸ばし、輝きを略取した。
許さぬ。例えこの身が、心が、魂が摩耗してゆこうと、決して許さぬ。
全ての地蟲を喰い殺し、この身が腐毒に侵されようとも、我が妻は取り返す。
返せ。返せ。返せ。返せ返せ返せ返せ返せ――!!
「ッ!!」
そこで彼は――ジェラルドは、寝台から起き上がった。一拍遅れて、どっと汗が噴き出る。
「……夢、か」
微睡むままに見ていた夢は、瞼を開けた瞬間に霧散してしまった。己で何か叫んだような、誰かの叫びを聞いたような気もするが、はっきりと思い出せない。
しかし、夢の中で味わった衝撃と恐怖は、べっとりと心に絡みついたままだった。額の汗を乱暴に手で拭い、不快さから溜息を吐く。
実は、このような夢を見るのは、初めてではなかった。詳しい内容はやはり忘れてしまうのだが、闇竜の襲撃にあって以来、頻繁にこの嫌な泥夢がジェラルドの眠りを妨げている。
誰のものとも知れぬ声が、只管に奪われた愛しい相手を呼ぶ。心を苛むのは度重なる哀切と憤怒、怨嗟、何よりも渇望。
それは、重苦しいことこの上ないが、ジェラルドにとって非常に共感できる代物でもあった。
自身も、女王を何者かに奪われたら、例え何を殺してでも、取り返しにいくだろう。そして、何があろうともそれを果たすだろう。
「……否。俺はそこまで、無様な真似はしない」
そこまで考えて、ジェラルドは夢の中の、自分だった何者かを否定する。妻を奪われぬ為に、何故護らなかったのか、と詰る。それほどまでに大切ならば、傍から離れなければ良い。命が尽きるまで、傍にいて守れば良いのだ。
女王に対する決意を新たにして、寝台から起き上がった時に、どんどんと無遠慮なノックの音がした。
『ジェリー、起きてる?』
「ああ」
いつも通りの使用人の声に返事を返すと、ドアの向こう側から快活な言葉が続く。
『お医者が来てるよ。飯食う前に診てもらいな』
「解った」
短く返事をすると、ポリーに付き添われ、怪我をするたびに世話になっている医者が現れた。
禿頭の医者は、何度も夜に叩き起こされているにも関わらず、不機嫌な顔を見せず丁寧に診察をしてくれた。
「相変わらず、回復の早い方ですなぁ。無理をしなければ、もうお勤めに戻れるでしょう」
「すいません、もう二十日ぐらい前からお勤め行ってますこいつ」
「なんと!」
半眼になって告げ口をするポリーと、事実に驚く医者を尻目に、ジェラルドは服を直しながら夢の事を考えていた。
内容もさることながら、ほぼ毎日のように同じような夢を見るというのは、病の類では無いかと思ったのだ。
「……聞きたいことがある」
「ええ、はい。なんでしょうか」
向き直った医者に、ジェラルドは問う。
「毎日同じ内容の夢を見る、という病は存在するのか?」
「それは……貴方が今、そのようになられていると?」
「ああ」
ポリーは初めて聞かされた事実にえっ、と驚き、医者は難しい顔で考え込む。やがて、あくまで私見ではありますが、と前置きをしてから語った。
「その夢に吉兆が出ているのならばともかく、凶兆と取られるならば……病ではなく、何某かの呪いの類ではないでしょうか。大陸に住まう竜の魔女達は、己の血を憎い相手に振り掛けて呪いをかけるとも言われています。闇竜の血が、貴方の体に入り込んでしまったのではないかと、私も危惧しておりましたので」
そう言われて、ジェラルドの眉間にぎゅっと皺が寄る。確かに、怪我をした身で闇竜の舌を刺した時、吹き出た黒い血のようなものを思い切り被った。これが傷を負わせられた闇竜の意趣返しだとすれば、なんとも腹の立つことだ。
「治す方法は無いのか。血を全て流し出し、新しく入れ直せば良いか」
想像しただけで血の気を引かせてしまうジェラルドの言い様に、ポリーの顔が青くなる。流石の医者も僅かに青褪めつつ、とんでもない、と首を横に振った。
「血を全て流す前に、貴方が死んでしまいます。代わりの血なども、とても用意できますまい。呪いならば、それを祓うのは、やはり八柱神教の神官の力が必要になるでしょう」
申し訳なさげに頭を下げる医者に、不機嫌な顔のままジェラルドは問う。
「この国に、呪いを解ける程の神官が居るとでも?」
「いえ……ですが、本日この国に、カラドリウス皇国からの国司様がいらっしゃっているでしょう? あの国は、民が皆敬虔な八柱神教の信者なのだそうです。神官の方々も沢山いらっしゃっているようですから、何か良い話が聞けるやもしれません」
お心に止めおかれれば、と医者は言葉を結び、帰っていった。
改めて出かけるために、着替えるジェラルドを手伝いながら、ポリーが暢気な声で言う。
「良かったじゃん、今日飛行船見に行くついでに診てもらおうぜ」
「彼等は女王陛下の客人だ。俺の体調に関わる瑣末事等に、関わらせるわけにはいかん」
「こういう時に自分の身分使わなくてどうすんだよ。向こうだって、こっちに良い顔しておきたいんだろ?」
「ならば尚更、いらぬ恩をかけさせてこちらが不利になる状況は避ける」
真面目な顔で渋るジェラルドに頬を膨らませながら、呪いって大ごとだろうよ、とポリーがぶつぶつ呟く。医者用の椅子を片付けるところで、あ、そうだと思いついたように声をあげた。
「ならさ、魔操師に見てもらえばいいんじゃね? 妙ちきりんな力を使うって点なら、そんなに変わんないだろ」
恐らく神官と魔操師に対し非常に失礼な事を言いつつ、ポリーの顔は明るい。
この世を創り出した八柱の神に祈りを捧げ、奇跡を起こす神官。怪我や病を治す力を多く有しており、また人々に世界の成り立ちを説き、神が創り上げた
対して、今存在する世界を己の力で読み解き、新たな文字を書き込むことによって、世界を己の望むままに変化させるのが魔操師だ。世界の全てが文字で構成されているのだと嘯く彼らは、いずれ神の理すら書き換えようと傲慢にも言い放ち、その在り方を神官に徹底的に非難された。
結果、世界全体では圧倒的に魔操師の方が忌避される存在だが、エルゼールカの民にとっては女王陛下に従う彼らは、世界を豊かに、便利にする為の頼りになる学者達だ。ポリーもそう思っているからこそ、無邪気に提案したのだろうが。
「魔操師は、好かん」
「……なんで?」
本当に珍しく、女王陛下の関わらない部分で好悪の感情を出したジェラルドに、ポリーは驚いたようだった。緑の瞳をぱちくりとさせて、首を傾げて問うてくる。
ジェラルドも、眉間に皺を寄せている。先刻の言葉を、考えるよりも先に、反射的に言ってしまっていたからだ。思考する前に、無理だ、と思った。それは何故か。
「……」
自然と、意識が沈む。普段全く感知しない、心の一番深い沼に沈んでいたものが、ぼこぼこと泡を吹いて浮き上がってくる。
ぼんやりと、思い出す。顔もはっきり覚えていない、親である筈の人間が、幾許かの銅貨と引換に彼を譲り渡した相手は。
その顔に、酷く不格好な、魔操師の証である眼鏡をかけていて――
そこで思考を止めた。明け方の悪夢と一緒に今の記憶も振り捨てようと、緩く首を振ってからぽつりと呟く。
「……ポリー。腹が減った」
「あ? ……しょーがねぇなぁ。ちょっと待ってろ、鍋あっためるから」
唐突な話題の打ち切りだったが、ポリーは一瞬驚いただけで、悪態を吐きつつもほっと息を吐いていた。何か良からぬことを思い出そうとして、それを拒否したジェラルドにも気付いたのかもしれない。
お互い、生い立ちに関しては色々と脛に傷持つ身だ、無理に穿り返すことも無いと思ったのだろう。それよりも、仕事にかまけるとすぐに寝食を忘れるジェラルドが空腹を訴えたことが、彼女にとっては嬉しかったのかもしれない。
ポリーが何も言わず部屋を足早に出て行ったのを見送り、ジェラルドは自分でも気付かないうちに安堵の息を吐いていた。
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