◆2-3

 すー、と細い寝息が聞こえてきたことを確認して、ポリーはふう、と溜息を吐き、金糸の頭を撫でていた手をそっと下ろした。

 自分の主が馬鹿なことは三年前からよく知っているのだが、未だ毎日のように呆れさせてくれるものだと思う。

 昨日のように、大怪我を追ってジェラルドが帰ってくるのは、決して珍しくない。否、これよりも酷い怪我で、家に運び込まれてきた事も一度や二度ではない。その度に夜の街中を駆けて、平民街の医者を呼びに行くのはポリーの仕事だった。貴族街の医者にもジェラルドを白眼視している者が居るので、そちらに行く方が確実なのだ。

「もうちょっと懲りろ、この馬鹿」

 青灰色の瞳を閉じると、思ったよりも幼くなる主の寝顔を見ながら、ぽつりとポリーは呟く。言葉は悪態だったが、声音に滲んでいたのは不安と心配だった。

 年の頃は殆ど変わらない筈のこの主を、彼女はどこか自分の弟のように見てしまう。勿論、この上なく手のかかる、という枕詞つきで。

 雇われる時の第一声から、こいつはどこかおかしい、と躊躇い無く納得してからも、振り回されてばかりだ。あの時もし他に働き口があったら絶対に蹴っていた、としみじみ思う。悲しいかな、この国で場末の娼館で下働きをやっていた娘の行く末など、そのまま水揚げされるか、男に囲われるぐらいかしか残っていない。

 だから、半ば貴族に身売りするつもりでこの屋敷の門を叩いたのが、こんな結果になるとはとても予想できなかった。それでも、己は幸運なのだと、ポリーは良く解っている。

 豊かな富と高い文明を有し、大陸の貧しい国からは一種の理想郷のように思われているこのエルゼールカにも、いくらでも闇は存在する。奴隷身分同然だった第二市民は廃止されたものの、「元」で有る限りその影は未だについて回っている。廃止されてから十年も経っておらず、影を完全に消し去る事など出来ていない。我らが女王陛下も、女性に対する職業斡旋所なども建ててはいるが、まだまだ元第二市民までは届かないのだ。

 毎日洗濯をした綿の服を着て、献立を考える余裕があるほど食材を得ることが出来、柔らかい寝台で夜は眠れることが、どんなに幸運なことであるか、彼女は良く知っている。

 だから、どんなに主が扱いにくくても、今のこの立ち位置を手放す気は無い。実際、他の貴族の家などに行ったら、性格と口の悪さからあっという間に放逐されるだろう。

 それに。

「あたしがいないと駄目だもんな、こいつ」

 呆れたように嘯くが、声は随分と柔らかい。相手に聞かれていないからこそ、出せる声だった。

 今朝方、漸く医者の治療が終った時に目を覚ましたジェラルドは、がばりと寝台から身を起こした。その拍子にごきりと骨がずれた音を聞き、不思議そうな顔をしながら。

 慌てて止めようとする彼女と医者に、『骨がずれる、もっときつく包帯を巻け!』と怒り出したのだ。呆れて言葉も出ないうちに、普通なら痛みで歩けない筈の怪我を負った彼は、城へ向かう身支度を始めてしまったのだ。

 後は怒鳴ろうが叫ぼうが、『女王陛下に謁見を請う』の一点張り。散々詰っても彼は止まらず、折れざるを得なかった。

 そのくせ、帰ってきたらこうやって、疲れ果てたように眠ってしまう事も、いつものことだ。

 見た目はいつも通りだったからと放って置けば、部屋の隅でばったり倒れて意識を失っていたことすらある。深い傷を碌な治療もせずに放置して、血を流しすぎて死に掛けたのだ。

 当然、ポリーは怒った。もっと自分の体を大切にしろと責めた。死なれたら寝覚めが悪すぎる、こんな金払いの良い職場珍しいんだ、と色々理由をつけながらではあったけれど。

 散々怒鳴って少し落ち着くと、ベッドに無理やり寝かせた主は、本当に不思議そうな顔をして、こうのたまった。

『……何故、俺の怪我をお前が気にする? 別に痛くない』

 本気で、意味が解らない、という顔をしていた彼に、何と言って怒鳴ったか――ポリーはもう、覚えていない。ただもう只管に、腹が立ったとしか。もしかしたら一発や二発、殴ったかもしれない。

 それ以降、彼女はジェラルドの体を、彼以上に気をつけて面倒を見ることに決めた。自分が目を離せば、またいつかどこかで、倒れて動けなくなってしまうのではないかと気が気でなかった。そう思うぐらいには――この扱いにくい主の事を、いつの間にか気に入っていたから。

 ポリーのそんな言動を受け、最初は不機嫌そうに、あるいは不思議そうにしていたジェラルドは、つい一年程前に「お前はもしかして、俺を心配しているのか」と真っ直ぐに聞いてきた。図星を指されたのは恥ずかしいことこの上なかったが、それ以上に、自分の意思が通じたことが嬉しかった。

 それから、ジェラルドはポリーの采配には余程のことが無い限り抵抗しなくなった。それでも今朝のように、理由に女王陛下が据えられたらその限りではないが。

 ポリーとて、女王陛下のことは尊敬しているし、崇めてもいる。しかしそれはあくまで、雲の上の人間という意味でだ。出自の神秘性も相俟って、彼女にとっては御伽噺のようにすら聞こえる。だから、どうしてここまで、ジェラルドが滅私奉公出来るのか、その理由が解らない。解っているのは、自分の主が己を省みない馬鹿だということだけだ。

「手間かけさせんなよ、この女王様馬鹿」

 こん、と小さく金色の頭を小突くと、一瞬寝息が止まり、すぐに安らかに呼吸をし出す。一度寝たらある程度まで絶対に起きない主の寝つきのよさはよく知っているので、ポリーは苦笑してそっと足を忍ばせ、部屋から出る。

 彼が起きる前に、手早く夕飯の準備を終えなければいけなかったからだ。



 ×××



 日が僅かに傾き、他の家よりは早めの夕飯時刻になると、ジェラルドは自力で目を覚ました。起こせ、と一応ポリーに言った時でも、彼が彼女の目覚ましに頼ることになった日は殆ど無い。

 ポリーの作ることが出来る食事のレパートリーは少なく、コンソメスープとホワイトシチューとブラウンシチューが毎食、鍋が空になるまで順番に出てくる。普通の人間ならば飽きて不満を訴えるだろうが、この3年間ジェラルドからの異議申し立ては一度も無い。それに甘えて、ポリーも自分のレパートリーを増やすつもりは無いようだ。

 パンとシチュー、二枚の皿だけを並べる配膳が終ると、ジェラルドはそのまま遠慮なく食事を開始した。八柱神教の敬虔な信者ならば、食事の前に神への祈りを捧げるのだが、彼は信仰を持たない。というより、女王陛下以外に頭を垂れる発想が無い。

 紙びら一枚の新聞を片手で持ち、もう片手でシチューを掬って口に入れている行儀の悪い子供のような様は、職場でも城でも畏れられ、敬遠されている人となりの片鱗は見えない。新聞に没頭して気付いていないのか、たまにかちっ、とスプーンを齧る音がする。

 貴族らしからぬ食事の仕方だが、これでも城に呼ばれての会食等では完璧なテーブルマナーを見せることが出来る。単に女王の前で行わない限り無駄だと感じているから、しないだけだ。

「あー、腹減ったぁ」

 そんな主を横目で見ながら、厨房から持って来た自分の食事を盆から降ろし、ポリーもテーブルにつく。主人と使用人が同じテーブルで、同時に食事を取ることなど貴族の家では有り得ない。しかしわざわざ食事の種類や時間を変えるなどという面倒臭いことを、この主従はどちらもするつもりはない。

 暫く食器がぶつかる音だけが響く食卓が過ぎ、シチューの最後の一掬いを口に入れたところで、ジェラルドは新聞を読み終えた。最近この国で開発された活版印刷は、まだ本を作るまでいかないものの、このような情報配布に使用されていた。

「……結局、討ち漏らしたか」

「んあ?」

 不満気に呟く主の声に、ポリーが顔を上げる。ぱさりとテーブルの上に投げられた紙の一面には、昨日の竜の襲撃とそれを撃退した城壁将の記事が飾っていた。ポリーには少々難しい単語もあったようだが、眉間に皺を寄せつつ読み進めている。

「いや、いつもの飛竜じゃなく、闇竜、だっけ、すげぇでっかい奴だったんだろ? 光も効かなかった、って書いてあるし」

「言い訳にもならん。女王陛下の国を徒に脅かした罰、必ずあの蜥蜴に俺が叩きこんでやる」

 人一人軽く飲み込む大顎を持った竜に対して、本気の声音でジェラルドは言う。

新聞に書かれていた、城壁将が竜の口に飛び込んだ行為。それは暴挙でも英断でも偶然でも無く、ただ竜を殺す為だけにやったのだ、という思いを込めて。

 そして、ジェラルドは歯噛みし、その間から怨嗟を漏らす。

「……否、あの時舌では無く喉を突けば、致命傷とまで言わずとも一矢は報いられた筈……飲み込まれるのを一瞬恐れてしまった俺の咎か」

「あー止めろー聞くだけで痛い。あと飯中!」

 ポリーが両手で耳を塞ぎ、わざとらしくあーあーと声を上げた。食事時に聞きたい話では無かっただろう事は理解したので、ジェラルドも素直に口を閉じる。苛烈な性格には違いないが、女王陛下が絡まない限り、彼は己の意見を翻す事を躊躇わない。

「ああ、済まない」

「ったく」

 こんな食卓が、この家ではいつもの風景だった。主従よりも、兄妹か姉弟のような、気安いふざけ合いが起こる会話。宮殿の貴族達や、部下の兵士が見たら驚きのあまり開いた口が塞がらなくなるかもしれない。ジェラルドがここまで他者に柔らかく接する姿など、他では見られないだろう。

「服飾屋には連絡取ったよ。今度の休みにこっち来るってさ」

「解った」

「あと、鳥追の巡り最初の休み、あたし留守にして良い?」

「? 何かあるのか?」

 二人とも皿についたシチューの残りをパンでこそぎ取って食べながら、報告に続いてポリーが提案する。不思議そうに青灰色の目を瞬かせたジェラルドに、ほら、と従者の指が紙を指す。

「これにも載ってただろ、カラドリウス皇国の飛行船が来るって」

「……ああ、この国司か」

 新聞を改めて見て、漸く下方にある小さな記事に気付き、納得した声を上げた。

エルゼールカから遠く離れた大陸、その大部分を有する巨大な国、カラドリウス神聖皇国。神官による神権政治が未だ行われているかの国では、鉄器の生産が進んでおらず、現在多量の鉄鋼を欲しているらしい。その貿易ルートを確保するために、莫大な鉄鉱脈を地下に持つエルゼールカへ、かの国の外交官ペルラン・グリーズが訪れる、と書かれていた。日付は今日から丁度三十日後。無理をせず、きちんと治療を受ければ、ジェラルドの傷も完治している頃だ。

「すげぇよな、空飛ぶ船なんて。ちょっと見物行ってくる。お前も行くか?」

「ふん」

 最後のパンひと欠けを口に放り込み、ジェラルドは考え込む。

 飛行船。カラドリウス皇国が開発した、神の齎す奇跡によって空を飛ぶ船。沢山の人や物も積み込め、空を自在に駆けることが出来るという。現在世界に一隻しか存在しないそれは、皇国の権威と神の奇跡を全世界に知らしめる象徴となっていた。最果ての小国と言われるエルゼールカにまで、その名前が届くほどには。

「確かに、どのようなものか見極める必要性は有りそうだ。皇国が手放すとは思えんが、いずれ女王陛下に献上しよう」

「ぶん取る気満々だこいつ! まー、決まりだな」

 遠慮なく物騒なことを言い募る主に呆れつつも、ポリーは笑って言葉を締めた。こんな事が無ければ休日も一日中、部屋に篭って難しい本を読むことしかしないジェラルドの事を、彼女なりに心配しているのだろう。その辺りの心の機微は細かすぎて、残念ながらジェラルドには伝わらなかったが。

「ほら、皿洗うから寄越せ」

「ああ」

「それとお前は今日は早く寝ろ。明日またお医者が来てくれっから」

「眠くない」

「寝台入って目だけでも閉じてろ!」

 ジェラルドとしては、もう充分休んだし、城壁へ夜哨に立ちたいのだが、残念ながら今日は許されないだろう。この分では、彼がちゃんと眠りに就くまで、ポリーに玄関を見張られるかもしれない。

 不満げに唇を引き結んだものの、ジェラルドはそれ以上反論せず、勝利の笑みを浮べる従者に重ねた皿を引き渡した。

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