◆2-2
高台に聳える城から伸びる、長い階段を降りきったところで、僅かにジェラルドは息を吐く。僅かに軋みをあげた、皹が入っているはずの肋を不快そうな目で睨み、拳を固めるとどん、と叩いた。
豪華な謁見服の下には、未だ包帯がぐるぐると巻かれていた。皹の入った骨が動かないよう、医者に無理を言ってぎっちりと固めて貰ったのだ。
竜に吐き出されて、かなりの高さから地面に落ちた時に負った、打撲と骨折は酷いものだった。かなり粘性の高い、闇竜の血なのか肉なのか解らないものに塗れていたおかげで、死なずに済んだのが逆に腹立たしい。足だけは無事だった為歩くことには出来るものの、並みの人間では一歩踏み出すたびに、激痛が身体を苛むだろう。
それでもジェラルドは、躊躇わずに何度も己の胸を殴りつける。変にずれてしまった骨が、思い通りに動かぬ体が不快だと言いたげに。
奇妙且つ不気味なその様に、城の門を守る兵士達すら、遠巻きに見ている中、ゆっくりと城の外に出て――
「やっぱ痛いんだろ、この馬鹿」
不躾な声をかけられて、知らず俯いていた顔を上げると、目の前に赤髪の女が一人、不機嫌そうな顔で立っていた。見覚えのある給仕女の装束と、勝気そうな緑眼を視界に入れてから、ジェラルドは彼女の名を呼ぶ。
「ポリーか」
「買い物ついでに迎えに来てやったんだから、感謝しろよジェリー」
女にしては随分と荒い口調で、しかも貴族である筈のジェラルドを愛称で呼ぶ召使に、門番をしていた兵士達が顔を青くしている。彼等にも城壁将の苛烈さと容赦の無さは有名なのだ。
しかし彼等の心配を他所に、ジェラルドは軽く瞳を瞬かせ、ばつが悪そうに視線を逸らす。その反応に兵士が驚いているうちに、ポリーと呼ばれた娘はふんと鼻を鳴らした。
「ほら、帰るぞ」
「……荷物を持つ」
「怪我人に荷物持ちさせるほど、馬鹿じゃねぇや」
その言葉通り、野菜の入った頭陀袋を両手で抱え、ジェラルドの歩みに合わせてゆっくりと歩き出すこの娘は、女王陛下の次に彼が逆らえない存在だった。
彼女との出会いは、三年前。ジェラルドが城壁勤めを続け、遂に城壁将の地位を得た時のことだ。
そこで始めてスターリングという家名を女王陛下より賜った彼は、貴族街の外れにある、もう持ち主の家名が取り潰しになり放置されていた、小さな屋敷を捨て値で買い取った。武器の手入れ以外に金をろくに使っていなかったジェラルドにとっては、そんなに高い買い物ではなかったのだ。
しかし小さいと言えど、今まで城の寄宿舎で不便なく暮らしていたジェラルドにとっては、持て余す広さの屋敷だった。曲がりなりにも貴族になったのだから、使用人の一人も雇うのが勤めだろうとも考え、適当に募集の看板を書いて、玄関に立てた。そこで真っ先にやってきたのが、ポリーだったのだ。
彼女も、元第二市民故に家名が無い。親はもう無く、ここに雇われなければ後は娼館に入るしかない、と今よりも暗く鋭い瞳で告げられた。
だからといってこれから雇主になるはずの男に頭を下げず、金と地位を持つ同い年ぐらいの男に対するやっかみを隠そうともしていなかった。今思うと彼女らしいと、ジェラルドは思う。
当時は、ジェラルドにとって彼女は、これから雇う召使以外の何者でもなかった。たった一つの条件さえ呑めば、どうでも良かったのだ。それまで彼の世界は、女王陛下以外には完全に閉ざされていたから。
『ひとつだけ、肝に命じておけ』
『……』
『俺の前で、我等が女王陛下を侮辱する言葉を放つな。反射的に、お前を殺しかねない』
『……はぁっ?』
緑の眼が真ん丸に見開かれて呆然としているのを見ながら、ジェラルドは更に言葉を続けた。
『給金は――そうだな。俺の禄を全て渡す、管理はお前がやれ。必要に応じて自由に使えばいい』
『え……っと』
『何か不満か?』
『……一言言わせろ』
『何だ』
『――ッ馬鹿かてめぇはッ!! もうちったぁ考えろおおお!!』
そして、思い切り罵られた。同年代の娘に怒鳴られた経験は初めてだったので、流石に驚いた。
ポリーの方から金の管理、掃除や給仕の仕方などを片っ端から提示され、ジェラルドは特に不満も無かった為、肯くだけに終始した。こんなに馬鹿なお貴族様は初めて見た、あたしがここに来なかったらお前あっという間に路頭に迷ってるぞ、と散々詰られながら。
それから三年。多分他の貴族屋敷では在り得ないだろう、奇妙な主従関係は続いている。
家への道をゆっくり歩きながら、ジェラルドは半歩先を行くポリーの後頭を見る。
あの時、最初は何故自分が怒鳴られたのか、ジェラルドにはさっぱり解らなかった。
女王陛下に「すくわれて」から十年。周りの人々は、侮蔑か、畏敬の目でしか己を見なかった。相手を見詰めると、皆一様に顔を背けた。己を見て、微笑んで下さるのは女王陛下だけだった。
だから、こんなにも近い場所で、他者と暮らしたこと自体が無かったのだ。竜との戦いで傷を負ったり、それにも関わらずこうして出歩いたりすると、彼女が眼を三角にして怒ることも理解できなかった。
最初は不機嫌になって、次に不思議に思い、一年程前に漸く、ほんの少しだが解った気がした。
「ポリー」
「あ? なんだよ」
だから、不機嫌な顔のまま、不遜な声で振り返る召使に向かって、朴訥な声で言葉を紡ぐ。
「心配をかけたな。済まない」
夜に傷だらけで家に運び込まれるたびに、泣きそうに顔を歪めた後、怒って怒鳴る彼女を何度も見てきたから。
「……っかじゃねぇの!? 解ってんなら自重しろこの唐変木!!」
一瞬眼を瞬かせた後、髪に負けないぐらいの赤みがポリーの頬に散る。また怒られたが、多分これで正解なのだろうと、ジェラルドは何となく思っている。
いつもならば拳で頭を叩かれるところだが、そのまま何もせず、どすどすと不機嫌な足音を立てながら歩いていってしまったから。
彼女が、自分の怪我を「心配」しているのだろうと、ジェラルドは何となく思っている。それは彼にとって、いまいち理解ができないことだったので、いつもこう答える。
「だが、大丈夫だ。別に、痛くない」
そう、素直に告げたのに、彼女はとても不快だという顔で振り向き、ジェラルドを睨みつけ。
「痛くないわけあるか、馬鹿」
ジェラルドにとってはやはり意味の通らない、そんな言い方で怒るのだ。
×××
数刻ほど歩いて、二人は貴族街の外れまで辿り着いた。
城よりも城壁の方が近い屋敷は、二階建てではあるものの、かなり古い代物だった。ぼろぼろになった漆喰の壁には所狭しと蔦が絡まっている。狭い庭にも林檎の木が一本生えているだけで、他の貴族屋敷と比べれば格段に見劣りする。それでも、自然の少ないこの島国にとっては、贅沢な庭だとも言えるが。
玄関の鍵もポリーが管理している。鍵文言付きの金属板を懐から取り出して細い穴に差し込み、扉を開けるとジェラルドの後ろに回り、怪我に触らない程度の強さで彼の肩を押してくる。
「おら、さっさと部屋いけっ」
「解った、押すな」
不機嫌な召使にぐいぐいと押されながら、玄関の狭いホールから階段を昇りきり、それなりに広いが飾り気がまるでない部屋に入る。家具は寝台と文机の他に、箪笥が一棹だけだ。
ジェラルドが女王陛下から賜ったサーベルに恭しく口付け、壁にかけている間に、ポリーは手早くベッドのシーツを伸ばし、主の寝巻を用意する。
そして、謁見用の上着だけ脱いで仕舞ったジェラルドの残りの服を、ポリーが乱暴に脱がす。お互い既に成人の十五歳を超えた男女である筈なのに、各々の顔に羞恥は浮かばない。主は羞恥心というものをいまいち理解しておらず、従者は怪我人相手にそんな機微を出さない。手早く寝巻きを着せたポリーの手が、ぐいと包帯だらけのジェラルドの肩を押し、寝台に座らせた。
「ほら、さっさと入れ」
「今日の巡回は――」
「い、い、か、ら、寝ろ」
いよいよ彼女の堪忍袋の緒が限界に近づいたようで、険の篭り過ぎた目で睨まれる。これ以上逆らったら、怪我人でも容赦なく頭を叩いてくるだろう予想がついたので、渋々とだがジェラルドはベッドに潜った。
自分では意識していなかったが、やはり疲れがあったらしく、柔らかく身体を受け止める寝台が思ったよりも心地良かった。つられるように瞼も落ちていくが、それでも言うべき言葉を告げる。
「今日中に、いつもの服飾店に渡りを付けてくれ……服を仕立て直す」
「ああ。駄目にしちまった外套かい?」
「袖が駄目になった、買い替えるしかない……もっと丈夫な生地が無いか、聞け」
出来れば闇竜の牙にも穴が開かないものが良い、と本気の声音で告げると、ポリーの脱力した「はいはい」という返事が聞こえた。それで充分だったので、最後に「夕飯前には起こせ」と言い、完全に瞼を閉じた。
「ったく……おやすみ」
「ああ……」
呆れたような溜息の後、まるで子供をあやすような挨拶。それと同時に、そろり、と自分の髪が撫でられる気配を感じながら、ジェラルドの意識はゆっくりと溶けていく。
普段の剣幕とは全く違うその声音が心地良く感じ、吐息まじりの返事を返して、そのまま――
髪に触れる感触を、いつか昔、朧に感じたものと重ねながら――
眠りに、落ちた。
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