◆7-2

 ばらばらに砕けた夢を見た気がした。

 自分の体が、ばらばらに砕けてしまったせいか。

 体が動かない。両手両足の感覚が無い。それは彼にとって非常に恐ろしく――咄嗟に、瞼を開けた。

 辺りは薄暗いが、僅かな木漏れ日が見える。自分の下にはありったけの枝葉が転がっており、自分が空から落ちたことは夢ではないと知れた。

 そこで当然、疑問が沸く。あの時の自分は、完全に頭に血が昇って我を忘れていた。死ぬ気は無かったが、不届き者の手を借りて生きることも真っ平御免だった。

 あれだけの高さから、真っ直ぐ落ちたのだから――死んでもおかしくない、筈なのに。

 呆然と、自分が落ちてきた辺りだろう、枝葉に空いた穴を見上げるジェラルドの目の前に、ぬうと鱗に包まれた鼻先が現れた。

「ッ!!?」

【――しぶといとは思っていたが、ここまでとはな。やれ、我が身の幸を嘆こうか、不運を嗤おうか】

「貴様……ッ」

 咄嗟にその鼻面を殴りつけようとしたが、流石に腕は動かない。随分と、体全体が重いのだ。

【動けまい。今、ぬしの体は我の闇を持って再生している。只の人なら、とうの昔に事切れておるわ】

「……」

【我が鱗を一片、更にくれてやったのだ。そのおかげで一命を取り留めたのだから、感謝のひとつも捧げればどうだ? 考え無しの地蟲が】

「黙れ。不届き者の羽蟲こそ、俺を捨て置いてどこぞへ飛び去ったらどうだ。――残念ながら今は、朝のようだがな」

 は、と鼻を鳴らし、精一杯の悪態を吐くと、竜の眼は不機嫌そうに眇められた。だが、顎から漏れた言葉は、ジェラルドにとって少々意外なことだった。

【舐めるな、愚物。最早ぬしの血肉はこの身に馴染んでおる。アユルスの光など、最早恐るるに足らず。――故に、ぬしを殺せなんだのが、また腹立たしいがな】

「……どういうことだ」

 意味が解らず、どうにか首を捩って相手を見遣ると、闇竜はまるでジェラルドを抱え込むかのように、その身を木々の間に押し込めて丸まっていた。一刻も早く脱出したいが、今の身体ではそうはいかない。何とか身を捩っているうちに、再び竜は口を開いた。

【言うたであろう。最早ぬしと我の肉体は、別に在って別に非ず。ぬしが死ねば、この身に宿したぬしの血肉も消え失せる。竜の魂は、矮小なるぬしが死んだとして消えはせぬが――二度もあんな代物を喉に通すぐらいならば、ぬしの面倒を見るほうが幾許かましだ】

「……成程」

 不本意だが、そういうことかとジェラルドも肯かざるを得ない。お互いが求める利益の為には、互いを殺すわけにはいかないのだろう。どれだけ相手が腹立たしく、許せなくとも。

【しかし愚かなものよ。死ぬと解っていて何故無駄な足掻きをする。脆弱な命にしきりにしがみつくのが人とばかり思うていたがな】

「女王陛下への侮辱を看過したまま、おめおめと生きるつもりは無い」

【動けぬ身でほざくな。動きたくば、我が魂から命を啜れ。駄々を捏ねるだけの餓鬼ならば、今度こそその首、噛み潰す】

 ジェラルドは舌打ちで答えた。非常に腹立たしい、腹立たしいが、相手の方が正論だ。互いがいなければ動けないのはジェラルドも同じ。悔しさを奥歯で磨り潰し、不満しかない声で問う。

「如何すればいい」

【眼を閉じろ。己が心の臓の音を聞け。その音を、我と合わせろ】

 端的な説明はすぐには理解しがたかったが、大人しく瞼を閉じる。己の心音に耳を澄ませていると、それとは別の、ゆっくりとした鼓動を感じた。

 ――これか。

 ゆっくりと呼吸をし、その音を聞いていると、自然と二つの鼓動が重なっていった。それと同時に、己の体が少しずつ薄れていくような感覚を覚えたが、何故か恐怖は無く、却って心地良い。

 まるでそのまま、宵闇に全て解けていくようで――その瞬間、全身に激痛が走る。

「っ、ぐあ!?」

 耐え切れず眼を見開き、海老反りになった身体を必死に丸める。息をどうにか吐き、痛みを逃がそうとするが、ずきずきとした苛みは消えてくれない。

【――成程。脆弱な地蟲にしては、随分と無茶ばかりすると思いきや。ぬし、今の今まで、その傷が痛くは無かったのだな?】

「……っ、き、ず……?」

【体中の骨が砕けているぞ。腑の方は、我が血で守られたようだがな。ここまで歪な生き物がいるとは思わなんだ。いや、愉快愉快】

 全く面白くなさそうな揶揄が耳に届くが、ジェラルドはそれどころではない。身を動かそうとするたびに走る激痛が、まともな思考を許してくれない。

 枝葉の上に蹲り、細い呼吸で耐えていると――視界に入った、白い布。


『痛いなら痛いって、ちゃんと口に出せよ』


「は……ぁ、……はー……」

 随分と汚れてしまった、右腕に巻かれたそれを見ていると、不思議と落ち着いてきた。そうだ、これの持ち主の場所に、帰らなければと自然に思った。浅くなっていた呼吸を少しずつ深くして、ゆるゆると体を弛緩させていると、呆れたような竜の声が響いた。

【――皮肉よの。ぬしのその大暴れは、痛みが無いが故か。我が闇により、ぬしの歪は埋められよう。これで少しは、分別もつくだろうて】

「……必要、ない……。痛みなど……邪魔だ……」

 竜の声に、譫言のように返す。そうだ、痛みなど必要ない。あれは恐ろしくて、動けなくなるものだ。これが無ければ、女王陛下の為に、いくらでも動けるはずなのに。

【は、痛みが要らぬと言うか。覚えおけ、神でも竜でも、魔にも人にも、痛みは有る。それは痛みが警告であり、命を守る知らせであるが故。この地に存在を許されるものにとって、痛みは不可欠であるのだ】

「では……俺は」

 どこか言い聞かせるように、語られる竜の言葉を頭の端で聞きながら、ジェラルドは朦朧とした頭で答える。

「――ならば、やはり……俺は、人では、ないのだろう」

【……ほう。何故、そう思う?】

 僅かに興味深げに、己を覗き込んでくる竜から視線を逸らし、ジェラルドはぼんやりと言葉を紡いだ。普段の激昂も、痛みを誘発すると思ったら浮かんでこない。どこかか細さすら湛えた声が、静かな森に零れる。

「女王陛下の、為。女王陛下の、望む国を、作る為。その為に、俺の全てを使う。俺は、俺を、女王陛下に、頂いたの、だから」

 女王の事を思えば、少しずつ、痛みが引いていくような気がした。いつも通りの、自分に――ジェラルド・スターリングに戻れるような気がした。

 ――親からは何も受け取れず。

 ――魔操師に引き取られ。

 ――繰り返される痛みに、嘆くことしか出来ず。

 ――肉体も、記憶も心も魂も、ぼろぼろに削り取られた。

 何もなくなった、その後に現れたのは、来てくれたのは、とても美しく、とても優しい、光り輝いているかのような、女王陛下。

 ごめんなさい、とかの方は仰った。何者でもない自分に、謝って下さった。

 遅くなった、とかの方は仰った。何者でもない自分を、知っていて下さった。

 それだけで、充分だったのに。兵士の地位を得て、サーベルを賜った時、玉座に座ったかの方は。

『ジェラルド・スターリング。貴方は貴方の望むままに、生きて。私を――許してくれるのなら』

 そんな許しを、与えてくださったから。

「あの御方は、俺に名と、言葉を下さった。住む場所と、糧と、学ぶ場を下さった。戦う術と、礼儀と、地位を下さった。全部全部、女王陛下に頂いたのだから――俺は、女王陛下の『もの』なんだ」

 全身の痛みが消えていく。心が、冷たくも熱い、鉄の炉になる。そしてこの魂は、女王陛下のためだけに動き、燃え尽きるだろう。

 この生き方に、迷いは無い。後悔など、無論無い。自分で選んで、そう決めたのだから。

 誰に認められなくても、誰に否定されても――


『……お前って、本当馬鹿なのな。痛くなくなるまで、頑張ってんじゃねぇよ』


 そう、ひとつだけ。自分の身の回りを世話してくれる彼女が、時たま。

 ほんの少しだけ、悲しそうな顔をすることが、何故か引っかかるけれど。

 蹲ったまま、右腕の白布をもう一度見る。洗濯もしていないそれは、随分と汚れて見えた。彼女に怒られるだろうな、と思い、何故か少しだけ落ち着かない気分になった。

【く。くく、くくく】

 ふと、自分の体が揺れていることに気付く。背に当る竜の喉が、搾り出すような、堪え切れないような、そんな笑いで震えている。非常に不快で、身体を捻って睨みつけると、その瞬間、竜は爆笑した。

【くははははははっははははは!! ここまで無様な生き様があったものか! くく、くははははははは!! 安心しろ地蟲よ――その様、その志、ぬしは紛れも無く『人』であるぞ! くくく、ははははははは!!】

「――何を」

 自分があらん限りに嘲笑われているのは理解できたのだが、紡がれた言葉の意味が解らない。

 何故、この竜は。誰もが己を人でなしと呼んだのに、ポリーですら自分とは違うと諦め顔で言ったのに。己を、紛れも無く人だと言ったのか。

【解らぬか、愚物! 神が生きるは理の為、竜が生きるは界の為、魔が生きるは己の為。それが世界の理、何物も変わらぬ。――他の存在の為に生きることを己で定める愚など、人以外におらぬわ! くくくはははははっ!!】

 その哄笑に、ジェラルドは一瞬怒りを忘れた。紛れも無くその笑いは嘲りであるはずなのに、己が「人」に相違ないと言われたことに、何故だか酷く、心が柔いもので包まれたような気がした。多分恐らく、錯覚だろうけれど。

【くくく、良い、良いぞ。ぬしの此れまでの不敬は不問に処してやろう。生かしてやろうではないか、我が身が界へ融けるまで! 己が全てを己の意思で捧げて、のたれ死ぬまで!】

 巨大な顎を押し付けてくる竜の鼻先を不快に思いつつも、何故か反論する気も起きず。ただ、眼を閉じて今しばらく、体力の回復に努めることにした。憤懣やる方ない相手ではあるが――この場所にいれば安全なのだと、頭のどこかで理解していたからだろう。

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