◆7-3

 数刻で、ジェラルドの身体は自由に動くようになった。ごく自然に、ジェラルドは再び竜の首に跨り、竜もそれを止めず、悠々と空に舞った。

 ゆっくりと金陽の沈んでいく空を西に眺めながら、一人と一竜は南へ飛ぶ。

「――神々の円卓とやらまで、あとどれほどで着く?」

【このまま飛べば、夜明けには。ぬしが途中で落ちなければな】

「舐めるな。気遣いは不要だ」

 高い空の上で常に風を浴びていれば、たちまち体温が奪われてしまうものなのだが、ジェラルドは僅かな肌寒さのみで耐えることが出来ていた。これも、闇竜の血を宿したお陰なのだろう。

 不快なことには違いないのに、何故か今、ジェラルドの心はとても凪いでいた。今までどうしても、どこかしらに引っかからなければならなかった魂の棘が、幾許か抜けたような気がする。その理由に気付かないままに、彼は黙考し、ひとつ思い出したことを竜に問うた。

「――飛行船に、お前の妻が居るというのは、間違いが無いのか」

【無論よ。この身に傷を刻めるのは、忌まわしき金陽神アユルスか、愛しき我が妻、銀月女神リチアのみ。あの膨れた鳥が吐き出した輝きは、正しく我が妻の光そのもの】

 それを聞き、ジェラルドは自然と竜の身体を見遣る。闇の洞窟で邂逅した時にあった筈の傷は、全く見えなくなっていた。こちらもジェラルドの血肉を得たことによって、傷の治りが早まったりするのだろうか。

「では、女王陛下も?」

【恐らくはな。神々の円卓には既に、神の気配は欠片も無い。あの鳥が小癪にも、逃げ回っているのだろう。我が眷属もあちこちに飛ばしているが、未だ見つからん。だが、最終的に神が集う地はあの場所を措いて他に無し。あの不快なる地蟲共が、神の奴隷を標榜するのならば、間違いなくあの地へ向かうであろう】

 悔しげに歯噛みしながら語る竜の顔を覗き、ジェラルドは浮かぶままに疑問を口走る。

「お前は、妻のために生きているのでは無いのか」

 端的な問いに、闇竜は薄い皮膜で己の眼球を何度か撫ぜた。人で言うなら、目を瞬かせたのと同じかもしれない。

【薮から棒に、何をぬかす】

「妻を悪漢より取り戻すということは、妻のために生きるということにならないのか? お前も俺と、何も変わらないではないか」

 もっともであるはずの疑問に、竜は心底馬鹿にしたようにふん、と鼻を鳴らした。

【悍ましい勘違いを抜かすな愚物めが。我が妻が我が妻である理由は、我が妻が我が妻である一点のみ。そして我が妻は我の物であり、我は我が妻の物である。言うたであろう、理に生きるが神、界に生きるが竜であると。我が妻を我より奪う行為は、理を違え界を壊す愚考である。故に、取り返さねばならぬのだ】

 それが当然であると言うように淡々と語る竜に、何故だか少し苛立ちを持って、別の不満をぶつけた。

「では、女王陛下も――貴様等の言うとおり、女王陛下が神であると言うのなら、かの方も己が為だけに、エルゼールカを治めているとでも言うのか?」

 それは侮辱でしかありえない、と苛烈な瞳で竜を睨むと、以外にも闇色の眼に揶揄は浮かんでいなかった。さてな、と呟き、改めて前を見ながら呟く。

【あれは元々、人に甘かった。絆されたのやも知れぬな】

 静かな言葉に怒鳴り返すことが出来ず、珍しくジェラルドは唇を噛み、どうにか反論を絞り出す。

「女王陛下は、お優しいのだ」

【くく、そうしておいてやるわ】

 また暫し、沈黙が続く。空は海と共に藍から黒に染まっていき、銀月は無い。今まで意識をしていなかったが、酷く空虚な空だと感じた。

「……闇竜よ、改めて問う。神とは、竜とは、何だ?」

 姿勢を正し、凛とした声での問いは、竜の耳にきちんと届いたようだった。一つ翼を羽ばたかせ、黒竜は頭を擡げると、ジェラルドに向かってはっきりと答える。

【神とは理、即ち世界を律するものである。竜とは界、即ち世界を象るものである。例えるならば、神は骨、竜は肉、この空は皮よ。三つ揃ってようように、この地は世界として成り立っている】

「では、魔と人は?」

 ぐるる、と竜の喉が鳴った。恐らく、笑ったのだろう。

【混沌より零れ落ちた澱と、骨と肉に集る地蟲よ。皮を食い破り、肉を腐らせ、骨に縋らねば生きてすらいけぬ、哀れな蟲共よ】

 貶されたのだろうが、反論する気は起きなかった。骨に縋らねば生きてはいけぬ――その様が、己と重なったせいかもしれない。

【如何した、大人しくなったな。では儂からも問おう。地蟲よ、ぬしは何の為にあの小娘を助けんと欲するか?】

「……女王陛下への不敬は改めて問う。女王陛下が、あの不届き者達に拐かされたからだ。女王陛下の意志に従わず」

【何故、そう思う?】

「女王陛下が何の前触れもなく、エルゼールカの国と民をお見捨てになる筈がない」

 言葉を綴った書は残っていた。しかしそういうものを常に残していることこそが、今回の略取が突然の事で、彼女が従わざるをえないものであったのだ、とジェラルドは改めて思う。そうでなければ、かの方は必ずや、全ての民に去ることを己の言葉で告げて下さったであろうからだ。

【成程、成程。では――その女王陛下が、心変わりを起こしたのなら、何とする?】

 片目だけで見上げてきた竜を怒りで睨み下ろしながら、ジェラルドははっきりと反論する。

「それならば、やむを得まい。だが、その旨を女王陛下御自らの口から、聞かねば納得は出来ん」

【くくく、然り。ならば――その御自らの口で、愚か者と詰られ、今ここで命を絶てと言われれば如何とす】

「女王陛下への侮辱は許さんと言った筈だが?」

【侮辱ではあるまい。ぬしを本気で疎ましく思う日が、来るかもしれぬではないか】

「……」

 ぎり、と奥歯が砕けんばかりに歯を噛みしめる。ジェラルドにとって、紛れもなく侮辱に等しい言葉だ。かの方の手に救われてから十三年、その手腕にも言葉にも、常にジェラルドを信頼し、守らんとする心があった。少なくとも、ジェラルドはそう思っている。それを否定されるのは、許しがたかった。だが――

「……女王陛下が、本気でそう、お望みになるのなら」

 無表情のまま、ジェラルドは呟く。

「この手で銃を取り、己が眉間を撃ち抜こう」

 言いながら見ている手は、いつも銃を抜く筈の黒い左手ではなく、白い右手だった。もうかなり薄汚れてしまった、白い布に飾られた手を。

【ふん、愚物が】

 心底呆れたように竜は呟き、その後何も言葉を交わすことは無かった。



 ×××



 キュクリア・トラペサの飛行船には、八神官の部屋もそれぞれ備わっている。嘗て神の数に合わせて八人いた神従と呼ばれた神官達も、様々な理由で失われ、今は四人しか席と部屋を埋めていない。

 しかもそのうち、戦神ディアランの神従であるクレーエの部屋はほぼ放置されており、彼女はほとんとジュラーヴリの部屋で過ごしていた。

 今日も、椅子に座って食事を取るジュラーヴリの膝上に、横抱きにされたクレーエが上機嫌で座っている。男の太い腕が解かれることなど有り得ないと言いたげに、体を預け切っていた。

 ジュラーヴリはいつも通りの無表情のまま、皿の上に置かれた乾麺麭パンを手に取り、千切って口に入れる。そして、良く噛んだそれを、身を乗り出してきたクレーエの唇と重ねて、口腔内に押し込んでやる。母が子に離乳食を与えるように、はたまた鳥同士が求愛で餌を渡すように。

「……飲んだか?」

「ん……おいしい」

 満足げに笑うクレーエに対し、そんなわけがないことを、ジュラーヴリは知っている。彼女の舌と喉は、キュクリア・トラペサに入る時、戦神ディアランに捧げられた。戦の才と代わりに捧げたその供物により、彼女は一切の味を感じ取ることが出来なくなった。故に彼女は食に執着はなく、どんなものでもぐちゃぐちゃに混ぜて喉に流し込むのが常だ。そんな彼女が、唯一楽し気に食事をするのが、ジュラーヴリが一緒の時。最近は智慧女神のもとへ勤めていることが殆どであるから、尚更なのだろう。

 ジュラーヴリは瞳を、ペルランは手足の指を、イエインは己の心の半分を、それぞれ奉じる神へ捧げた。その代わりに、神の御業とも言うべき力を得たが――その大いなる力に耐え切れずに命を落としたり、自ら命を絶った神従もいた。ペルランやイエインに言わせれば、神に対する冒涜である。幼い頃からキュクリア・トラペサに従うカラドリウスの大家に生まれたジュラーヴリにも、その言い分は解らないでもないが、死を選ばざるを得なかった者達の思いも良く理解できる。

「……次は如何する」

「うーん、お酒飲みたいな」

 甘えるように胸元に頬を摺り寄せてくる女の顔を、ジュラーヴリの目は捕らえることが出来ない。酒で酔うことも無い女に、強請られるままに葡萄酒を口に含み、口付けて注いでやっても。

 彼の視界には、智慧女神が生み出したとされる神代文字しか見えていない。両目を智慧女神に捧げた褒美として、すべてのものを形作る、情報を読み取ることが出来る瞳を与えられた。目の前の机も本も、乾麺麭も葡萄酒も、クレーエの美貌も肢体も全て、僅かに光を放つ、奇妙な文字の羅列にしか見えないのだ。彼の視界でその姿を認められるのは、情報量が有り得ぬ程に豊富な、竜か神ぐらいしかいない。

 それでも――それでも。

「ラーヴも、美味しい?」

 文字の羅列を読めば、彼女が笑っていることを知れる。酒と、共にする食事と、自分の唇に、本当に喜んでいることも。故にジュラーヴリは、重く頷く。

「ああ」

 嬉しそうに、押し付けられる唇だと書かれた場所を、自分の口で受け止める。ジュラーヴリには何もない。ただ、家を支えるために贄となり、智慧女神に全てを捧げる為に生きてきた。その敬虔は報われ、今、かの女神を取り返すことが出来たけれど――

 何故、目の前の女が自分にここまで執着しているのか、その理由が解らない。この世の全てを理解できる瞳を持っている筈なのに、どこにも書かれていないのだ。

「ラーヴ、大好き」

 聞こえる声と寸分違わず、彼女の血肉と魂に刻まれている好意が、全て自分に向かっていることだけは解る。その事に、生まれたころからすっかり萎えている筈の己の魂が、心臓のように脈動するのが解る。智慧女神の神従としては、恥ずべきことであると理解しているのに。

 両腕を文字の塊に回して、感じる重さと柔さを受け止め、決して閉じてはいけない瞼をゆっくりと下げようとしたその時。

 不意に外が騒がしくなり、扉を叩く音が響く。クレーエが怒りを込めてそちらを睨んだことが分かり、背中をそっと擦ってやりながら外へ声をかける。

「――如何した」

『ジュラーヴリ様! 敵襲です!!』

 ぴくりと眦を上げ、ジュラーヴリはクレーエを抱き上げたまま椅子から立ち上った。

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