変わり果てたが変わらぬものを、嘲り笑うは無様也

◆7-1

 風が髪を撫でていく感触に、ジェラルドはじりじりと瞼を開く。

 体中の痛みは、嘘のように消えていた。左腕も、黒さだけは変わらないが形は人のものに戻っている。恐る恐る、という形容が相応しいほどに、ゆっくりと地面に肘をつけ、うつ伏せになっていた身体を持ち上げた。

 そして今まで寝転んでいたのが荒れ地ではなく、黒いごつごつとした鱗の上であることに漸く気付く。

「っ!」

 がばりと、身を起こす。その瞬間、体全体が強風で煽られそうになり、咄嗟に傍にあった突起を掴んだ。

【漸く眼が覚めたか。惰弱過ぎるな、地蟲】

 低く響く声が、跨った鱗を揺らしている。風は耳元でごうごうと渦を巻き、眼前に広がるのは、巨大な翼と――星が輝く空を抱く、広大な雲の海。

 生まれて初めて見る光景に暫し呆然としているジェラルドの身体に、嘲るような喉音が響く。

【何を呆けている。空がそんなにも珍しいか】

 風が煩い耳に、何故かはっきりと聞こえてくる竜の声に、ぐっと唇を引き締め、手近な鱗をどんと拳で叩く。

「何処へ連れて行く気だ」

【ふん、あのまま地べたに打ち捨てておいて欲しかったか? 我とて人を背に乗せるなど、約定が無ければ御免被る】

 改めて、周りを見渡す。ジェラルドは、巨大な闇竜の背、正確には冠翼の裏側に当る首筋に跨っていた。近くで見る巨体は正しく小山で、尾の先は雲の隙間に掠れて見えなくなっている。

「運べと頼んだ覚えはない。降ろせ」

【は、不満ならば飛び降りて見せい。地蟲らしく地べたに潰れて這え。ぬしの足では、百年かかっても神々の円卓には辿り着けまいよ】

 心を逆撫でしてくる竜の言葉に苛立ちを隠せずにいたが、最後に紡がれた言葉にはっと眼を見開く。

「その言葉を何故知っている? 心当たりがあるのか?」

 身を乗り出して冠翼の端を掴むと、不快そうに首を振られて危うく滑り落ち掛ける。どうにか堪えると、煩そうに鼻を鳴らす音が聞こえた。

【まっこと、不本意だが。今やぬしと我が肉の体は、別に在って別に非ず。ぬしが見聞きしたものは我が眼や耳に届く。逆も然り】

「……実に不愉快だ」

【そのまま返すわ】

 本気で、心底嫌だという気持ちを込めて言葉を吐くと、同じぐらい不機嫌が滲み出た声で返された。竜と血肉を交わらせるというのは、こんな副作用まで出てしまうらしい。

 実に、実に不本意ではあるが、今は瑣末事に関わっているわけにはいかない。改めて、ぐいと冠翼を引っ張って問う。

「もう一つの質問に答えろ」

【ふん、小煩いことだ。――神々の円卓、と呼ばれる場所は、ひとつしかない】

 不意にぐん、と竜の体が沈む。一瞬の浮遊感の後、雲の下に全身が沈みこみ、咄嗟にジェラルドは両の太股に力を込め、両手で冠翼にしがみついた。

 初めて肌に触れる雲は感触など無く、ただ視界を真っ白に奪った。凄まじい風と音が耳を支配し、やがてそれが不意に消える。

「――……!」

 眼下に広がるのは、真っ暗な夜の世界。その筈なのに、何故かジェラルドの眼には、雪に埋もれた岳山だけでなく、裾野に広がる森や川の位置まで、はっきりと眼で捉えることが出来た。

 夜目にはそれなりに自信があったが、星明りすらない曇った夜に、ここまで見えるわけが無い。

 身を乗り出して、竜の鼻面を見遣ると、黒色の巨大な目玉が地を睥睨している。自分の瞳もあのような闇の塊になってしまったのかと思い、思わず眼を擦った。

【如何した。脆弱なぬしには、不相応な賜り物だろう。受け取っておけ】

「これも貴様のせいか……役には立ちそうだ、礼は言わん」

【ふん、小癪な】

 ジェラルドの動きに気付いたらしく、ぐるぐると竜が喉を鳴らす。肉体を共有する、ということは利点も弊害もあるのは間違いないようだ。相手の掌の上で踊らされているのが悔しくて、腹腔に力を入れて虚勢を張った。詰まらなそうに竜が再び鎌首を擡げ、延々と連なる山脈を顎で指した。

【我が寝床より更に南。封折山脈の南端、どの大陸からも離れた海の上に浮かぶ、崩壊神の墓にして処刑場。それが、神々の円卓よ】

「崩壊神……?」

 聞き慣れない神の名に首を傾げると、心底呆れた闇竜の声が響く。

【この世の成り立ちも知らぬ地蟲よ、覚えておくがいい。始原神が作り上げた世界を、全て壊すが崩壊神の理。神々の円卓、即ち全ての神が立ちし祭儀場に崩壊神は引き摺りだされ、その罪状を説かれ、罰としてその身を混沌に融かして落ちる。始原神は崩壊神の齎す滅びを封じる為、巨大な大陸を二つに折り畳み、眠りについた。そして出来上がったのが、この山脈よ】

「……見てきたように語るものだな」

【如何にも。我はこの眼で、幾度も見たわ】

 さらりと言われた言葉に驚き、もう一度冠翼を掴んで身を乗り出す。目玉を動かして首の上を睨んだ竜は、その視線を空にやり、呆れた風も無く淡々と言葉を紡いだ。

【最早、数えるのも煩わしいほどの時が過ぎた。崩壊神は大人しく罪状に従ったが、その子供達は乱を起こした。数多の眷属である魔の者を引き連れてな。いつも通りに、いつもと変わらず】

 とても想像がつかないが、神々の戦いとは今まで幾度も行われていることなのだろうか。空言かとも思ったが、この竜が地蟲と嘲る相手に、何の意味も無い御伽噺を語ることもあるまい。恐らく――本当に、闇竜は見てきたのだろう。神々の、繰り返し続ける、滅びた歴史を。

【我は悲劇に慄く妻をこれ以上汚されてたまるかと、腹に飲み空へ向かい、眠りについた。再び始原神が目覚めるまでな。いつも通りに、いつもと変わらず】

 曇った闇夜を見上げる竜は、酷く嗄れた声でなおも続けた。愛しい相手に焦がれ、縋りつくように。

【我が抱き眠りについた妻は、この世の誰よりも美しい。闇夜を恐れ惑う地蟲共に、うつろう輝きで標と安らぎを与えた。アユルスと背中合わせに、時を刻み、微睡み続けてきた】

 きっとそれは、空を巡り続けてきた金陽と銀月を表しているのだろうと、流石にジェラルドにも理解できた。しかし、今の空に銀月は無い。そう考えたと同時、竜の黒瞳に苛烈な色が混じる。

【――だが。あの地蟲共は、こともあろうに我が妻に手を伸ばしたのだ】

 ずん、と竜の声が低くなり、不覚にもジェラルドの背筋が伸びた。明確な苛立ちと怒りが篭った声が、竜の顎から零れる。隙間から覗く牙の間から、めらめらと黒い炎が漏れているのが見えた。

【心優しき我が妻は、人の愚かな願いに応えたのだろう。哀れな地蟲を救わんと、この汚れた地に再び降り立ったのだろう。それを彼奴等は捕え、縛したのだ! 身の程知らずな地蟲の分際でェ!!】

 ごう、と顎から炎が漏れ、風にのって僅かにジェラルドの髪を焼いた。苛立たしげにそれを払いつつ、ぐいと冠翼を引いて問う。

「では何故、奴等を探さず、エルゼールカを襲ったのだ! 勘違いでは済まされんぞ」

【見縊るな地蟲。三十年、あれの気配を探し続けた。今や地に神の匂いが残る場所は、あの島しか無い。故に眷属を率い、戦を挑んだ】

「ふざけるな。その為にエルゼールカを襲い、無辜の民を苦しめたのか。女王陛下のお心を悲しませたのかッ」

 一方的な言い様に我慢できず、ジェラルドは思い切り身を乗り出して、竜の眉間に爪を立てた。一歩間違えれば振り落とされそうな位置だが、怯まない。そして竜の方も何も痛痒に感じた様子は無く、寧ろ侮蔑を持って頭の上の脆弱な生き物を睨みつけた。

【ふん、我とてあの臆病者が、まだ消え切らずに地に残っていたとは迂闊であった。だがあの日、確かに感じ取ったのだ。我が妻、リチアの輝きが、あの島に在ると! 最早一刻の猶予もならぬと、アユルスの光に怯むことなく迎えに出向けば――あの有様よ。謀られたわ】

「訂正しろ。女王陛下が、臆病であると?」

 ぎり、と右手の爪に力を籠め、ジェラルドは己の眦をぎりぎりと吊り上げた。竜が何の目的を持ってエルゼールカを襲ったかは兎も角、女王に対する侮辱だけは看過するわけにはいかなかった。当然、闇竜は何も臆すること無く、一層嘲るように眼を細めた。

【あれを臆病と言わず何とする? 己が言葉が、人を生かしも滅ぼしもすると慄き、自ら口を封じた小娘が。その上眠りにつく度胸も無く、人の世界にしがみついて崇められるのをよしとする――無様としか言えぬなぁ!】

「その口、閉じろォッ!!」

 限界だった。女王を助ける為には竜が必要な事も、己が竜の背に乗っている事も、すべて瑣末事になった。今すぐこの獣の息の根を止めなければ、女王陛下に申し訳が立たないと、本気で思った。

 サーベルを抜き放ち、その眉間に突き立てようとした瞬間――ぐわん、と世界が回転した。

【図に乗るな、地蟲ッ!!】

「――ッ!!」

 当然といえば当然。竜が思い切り身体を反転した瞬間、何の支えもないジェラルドの身体は、あっさりと空へ投げ出された。一瞬の間の後、物凄い速さで地面に向かい、落ちる!

【己が身を弁えぬ、無様な小物が。そのまま潰れたくなければ、大人しく縮こまっているがいい!】

 それを追い、降りてくる竜の鼻面。これに掴まらなければ間違いなく死ぬ筈なのに――ジェラルドは、握り締めたままのサーベルを思い切り横に薙ぎ、それを振り払っていた。

「貴様の助けなどいらんッ――そちらこそ、図に乗るな羽蟲がッ!」

【は、どこまでも愚物か! ならばそのまま、弾け死ね!】

 嘲り笑う竜の鼻先に、堕ち続けながらも切っ先を突きつけ、ジェラルドは絶叫する。

「俺は死なん! 女王陛下をお助けするまで、必ず――」

 そこで、地上に広がる針葉樹の多量の枝葉に追突し、言葉が途切れた。多少の緩衝材にはなるものの、勢いは殺せず、そのまま地面に落ちる――

「――!!」

 最後に見えたのは、サーベルを握り締めた手に結ばれた、白い布。

 咄嗟にそれを胸元に抱き込んだ瞬間、物凄い衝撃が全身を包み込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る