◆4-3

 暫し二人の睨み合いが続き――先に口を開いたのは、アグリウスだった。

「――私は女王陛下御自らに命じられた。たとえ女王陛下がこの地から去られることになろうとも、この国を支え発展させていく事を。これを違えるのは、私にとって女王陛下への裏切りである」

 そこまで告げて、しかし宰相の瞳は僅かに翳った。

「故に。この誇り高き鎖に縛されぬ貴公を、私は羨もう」

「宰相殿……」

 驚きの混じったジェラルドの声に、アグリウスはほんの僅か、唇を緩めた。とても気付けないほどの、小さなものだったけれど。

「……今日最終の運行船に、話を通しておく。元老院は、私が抑えよう」

「宰相殿!」

 踵を返し、去っていくアグリウスの背に思わずジェラルドが声をかけると、その足が一瞬止まる。

「大陸に渡り、闇竜を探せ。上手くすれば、助力を得られるだろう」

「闇竜を!?」

 唐突に出て来た不倶戴天の敵の名前に、ジェラルドの声が裏返る。

「貴公は業腹であろうが、空を飛ぶ相手に追いつけるものは、恐らくあれしかあるまい。……かの闇竜が求めるものが、あの飛行船に乗っているようだ。利害が一致するのならば、耳を貸すやも知れぬ」

 何を馬鹿な、と言いそうになったジェラルドの脳裏に、不意に蘇る。闇竜と相対し、その黒血を浴びた日から見続けている奇妙な呪夢。愛する妻と引き離され、探して慟哭する夢。そして竜が現れた時、頭に響いたあの声。

 ――あれが、竜の声だったと言うのか?

 俄かには信じられず、僅かに戸惑うジェラルドをどう思っているのか、アグリウスはゆっくりと部屋を出て行く。と、廊下に出て来たところで、危なげな手付きで茶道具を運んできたポリーと鉢合わせた。

「あ! す、すいません、お茶遅れて――」

「いや、結構。……君にも苦労をかけるであろうが、彼の地位に関しては心配はいらぬよ」

「へ?」

 きょとん、と眼を瞬かせたポリーが戸惑っているうちに、アグリウスは一人で階段へ向かう。それと同時に、部屋の中からジェラルドの声が張り上げられた。

「ポリー!! 旅支度を手伝え!!」

「はぁっ!? ちょっと待て、何!?」

 お客を見送るべきかどうしようか迷って、結局部屋の中へばたばたと走りこんでいく、不真面目だけれど憎めない女中を見送るアグリウス。

 その瞳は、まるで自分の子や孫を見詰めるような、柔らかさを湛えていた。



 ×××



 サーベルと短銃はいつもの通り、ベルトを巻いた腰に下げ、滅多に着る事のない厚手のコートを羽織る。弾はあるだけ持ち、明り石や磁石、火打石と一緒に腰の物入れに纏める。他国に通じる通貨など持っていないので、ずっと昔にどこぞの貴族から貢物として渡された、宝石の縫い付けられた皮帯を荷の奥に押し込んだ。それなりに大粒のものが多いので、路銀の代わりにはなるだろう。

 着替えは最小限にし、非常に小さく纏めた。まるでこれから、あてもない旅に出るなどとは思えないような出で立ちだった。

 短銃の点検を行っているそんなジェラルドを見ながら、ポリーは呆れしかない溜息を吐く。

「前々から馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、本当大概だなぁ、お前。ま、こちとらお前の面倒見るのが終わりかと思うと、清々するぜ」

 悪態ばかりの声音は、しかし僅かに震えている。彼女らしい気遣いと強がりの結果であることは、ジェラルドももう理解している。

 何度も何度も、怪我を負っても痛くないと告げ続けていたら、一度だけ怒りよりも先に涙を零されたことがある。それ以来、彼女の言葉が例え納得いかなくても、無視することが出来なくなった。だからといって、どのような返事をすれば良いのか、は未だに良く解っていないけれど。

「ポリー」

「っ。……何だよ」

 声をかけると、ジェラルドよりも細い肩がびくんと持ち上がり、不満げに問われた。背の高さは、そう変わらない。ポリーは女にしては背が高めであったし、ジェラルドは成人を過ぎてもあまり伸びなかった。同じ高さにある青灰と緑の視線は、普段と違って、上手く絡み合わない。

 いつもなら、沈黙に耐え兼ねたポリーの方が喋り始めるだろうし、ジェラルドも思ったことはすぐに口から出す性分だ。この二人の間で、ここまで会話が出てこないことも珍しい。

 何か言うべきだとは解っているのだが、何を言えば良いのかジェラルドにも解らない。これから自分は、まさしく当ても無い長旅に出る。女王陛下を取り戻すまで帰るつもりはない。何年かかるか解らない、何十年かかっても難しいかもしれない。

「……この家は、好きに使え。手放しても構わん」

「っ」

 結局、言えたのはそんな台詞だけだった。

 僅かに、ポリーの肩が振るえ、息を飲む音がした。まるで何かに怯えているようにすら見え――ああ、自分を恐れているのかとすぐにジェラルドは思い至る。こんな反応をする部下や貴族は、決して珍しくなかったから。

 そのはずなのに、当たり前なのに。何故かまた、ジェラルドの腹腔は酷く重くなる。

「残っている録も、お前に譲る。贅沢をしなければ、働かなくても暮らせるだろう。……」

 言うべきことは言い終わったはずなのに、喉がひくつく。何か言わなければと思うのに、言葉が思いつかない。

「……はぁ」

 再び沈黙の後、ポリーが溜息を吐いた。それは僅かに揺らいではいたものの、いつもジェラルドに対して呆れたように吐かれるそれと似ていて、ずっと重たかった腹部が僅かに軽くなった。やはり、何故そうなるのか、いまいち理解できなかったけれど。

 逆にポリーは、落ち着いたようだった。俯いていた顔が持ち上がると、僅かに目の端に水が貯まっていたが、ふてぶてしい表情はいつも通りだった。

「あたしが言いたいのは、一個だけ。いい加減、いつも言いすぎて口酸っぱくなっちまったけど」

 その声は、まるで聞き分けの無い我侭な弟を、諌めるようで。

「痛かったら痛い、って言え。無理とか、我慢とか、すんな」

「それは――」

「痛くない、わけねぇんだよ。誰だって怪我したら痛いし、大事なもん取られたらもっと痛いんだよっ」

 反論しようとした声は、相手の早口で止められる。他の人間ならば、激昂で更に言葉を被せることも出来ただろうが、彼女に対しては出来なかった。本当に、自分は、痛くない、筈なのに。

 するとポリーは髪を纏めていた白布を解き、ジェラルドの右手を掴むとそこに手早く巻きつけ括った。行動の意味が解らず、まじまじと見詰めたまま沈黙するしかない。

「だから、あたしは言ってやる。無理すんな。必ず戻って来い」

「……ポリー」

 布を巻いた手をぎゅっと握られたままそう言われて、漸く気付いた。

 女が髪を結う布を男に捧げるのは、船乗りの無事を祈るまじないの一種だ。腕に巻いておけば、海に落ちても必ずや流れて、その布の持ち主の所へ帰りつけると、流行歌でも謡われている。

「しかたねーから、それまでこの家、守っておいてやるよ」

 やっぱり呆れたように、それでも赤毛の少女は笑う。僅かに目尻に涙を溜めたままで。

 その様を、やはりどうすれば良いのか解らず、ジェラルドは途方に暮れる。

 貴族として雇う者の責任を果たすのならば、財を全て処分して彼女に渡すのが正しい在り方だろう。だから、肝心の彼女からそう言われても――どうしたらいいのか、解らない。

「……なんでそこで、いつもみたいに偉そうにしねぇかな。こっ恥ずかしい」

 今更自分の言葉に照れているらしく、ポリーがもごもごと呟いて視線を逸らす。ジェラルドはやはりどうすれば良いのか解らず、ただ何か答えなければならないと考えて、握られたままだった手をぐっと握り返す。驚いたようにびくつくその手を離さないまま、真っ直ぐ翠色の瞳を見詰めて、こう告げることしか出来なかった。

「――礼を言う。ポリー」

「っ、馬ァ鹿! いきなりしおらしくなるなっ!!」

 かっと顔を髪に負けないほどに紅潮させ、振り解いた手をそのままべちん! と頭に打ち下ろされる。しかし何故かジェラルドは、これで正解だったのだろうと、何となく思った。

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