◆4-2
短い文章を、ジェラルドは何度も読み返し、歯噛みをしてアグリウスを睨む。対する氷の宰相は、その視線をあっさりと往なし、書簡を仕舞う。
「見ての通りだ。これは女王陛下のお言葉であり、逆らうことは許されぬ」
「納得がいかん!」
「そうだろうと思い、貴公を謹慎にかけるよう命じた。迂闊な行動は控えて貰いたい」
冷たい声音に全く臆さず、ジェラルドの声はますますいきり立つ。
「貴殿はそれで良いのか! あの狼藉者共に、女王陛下を略取されることが、覆せぬ宿命であるものかッ!」
一瞬、アグリウスの眉が動く。
「我等が慮るは、この腹立たしき略取が女王陛下のお望みではないというその一点のみ! ならば俺の取るべき道はひとつしかない!」
ジェラルドは踵を返し、寝台の傍へ大股で向かう。改めてサーベルを手に取り、眼前に掲げて誓った。
「女王陛下の御心を安らかにするべく、如何なる手段を用いても、エルゼールカにお帰り頂く!」
「……」
アグリウスは、尚も無言。部屋に沈黙が落ち、ポリー一人が気まずそうに二人の顔へ視線を行き来させる。
「女中殿。少々席を外してくれまいか」
「えっ! えと……」
「ポリー。茶の仕度を」
「あ、え、うん! はい!」
次に口を開いたアグリウスの言葉に、ポリーは驚いてきょろきょろと首を巡らし、最終的にジェラルドの方を見る。ジェラルドも一瞬だけ悩んだが、アグリウスの声音が先刻よりも僅かに変化したことに気付き、ポリーを促した。
不安そうだが、この緊張感溢れる部屋に居続けるのも、勘弁だったらしいポリーが足早に部屋を出て行き、二人だけが残る。ジェラルドは黙ったまま、真っ直ぐにアグリウスを見詰めている。
「――女王陛下を略取した者達の名は、キュクリア・トラペサと言う」
「……何者か、ご存知か」
問えば僅かに首肯し、アグリウスの視線が僅かに宙を向く。
「カラドリウス皇国の国教は八柱神教だが、この中にも様々な宗派が存在する。最も歴史がある一派にして、過激派といわれている派閥が、キュクリア・トラペサだ。自らを神従と名乗り、人は皆神に奉仕するべき存在であり、神を信じぬ者は人ではないと嘯く者達。その苛烈さから現在の皇国では主流では無くなっており、ペルラン・グリーズがその一派であることも、隠蔽していたようだ。此度の件、皇国へ当然申し入れをしたが、その繋がりに関しては知らぬ存ぜぬを通された。――恐らく、帝国自体もペルランの、キュクリア・トラペサの動向を掴めていないのやも知れぬ」
「何故、そう思われる?」
「密偵からの情報だ。飛行船が、カラドリウスのどの都市にも寄航したという記録が無いらしい。寧ろカラドリウスの方が、血眼になって行方を捜している。かの皇国の国土は広い、密かに何処ぞへと降り立ったのかも知れぬが……どちらにしろその動きを、皇国側が掴めていないと見る」
つまり、此度の狼藉は、ペルランをはじめとするキュクリア・トラペサの暴走である、とアグリウスも皇国も見ているし、そういう形にしたい、ということだろう。
「皇国は抜け目なく、軍事力を鼻にかけての交渉をして来たが、この書簡に寄りて返答をした。――女王陛下がこのような文書を残されたのは、徒に人質としては使われぬという女王陛下の御心であろう」
「しかし!」
「キュクリア・トラペサとは」
アグリウスが、ジェラルドに一歩近づき、荒げた声を止める。その顔は、ジェラルドが始めて会った時よりも、随分と深く皺が刻まれていたが、その間から覗く眼光は、鋭さを有し続けている。
「嘗てこの世界を作り出し、人を見捨てて去っていった神々を、再びこの地に取り戻すために活動を続けているという。我等から見れば、どうしようもない御伽噺に縋る者達と見ざるを得ないが――ジェラルド・スターリング、神の名を知っているか?」
「……原初の神が、始原神イヴヌスということは」
神学すらろくに学ばないエルゼールカの民にとっては、皆ジェラルドと同じぐらいの知識しか持たないだろう。アグリウスも肯いてから、静かに続ける。
「人に祝福を与える神は八柱。始原神イヴヌスが最初に在り、金陽神アユルス、銀月女神リチアを生んだ。次に海洋神ルァヌ、鳥獣神スプナを、神々の眷属として人を産み出した。そして――人に与えるものとして、法と戦と知を与えた。即ち――秩序神タムリィ、戦神ディアラン、智慧女神スヴィナ」
「!」
最後に告げられた神の名に、青灰色の瞳が見開かれた。その名は正しく、ペルランが女王陛下を呼んでいた名だ。
「……では、かのペルラン・グリーズは、愚かにも女王陛下を、神と思っていると?」
ジェラルドの眼から見れば、馬鹿げた話としか思えない。彼にとって、神話にしか出てこない神々と、女王の間には雲泥の差がある。だが――最も女王陛下に近い男は、静かに首を横に振った。
「彼奴等の見立ては正しい」
一瞬、言われた意味が理解出来ず、ジェラルドは瞳を瞬かせる。アグリウスは欠片も動揺を見せず、冷徹な声で更に続けた。
「我等が女王陛下は、過たず――嘗ての御世で、智慧女神スヴィナ様として奉じられてきたのだ」
「な――」
絶句するしかなかった。今まで己に一番縁遠い存在だと思っていた神が、他ならぬ女王陛下だと言うのか。彼の混乱を宥めるように、アグリウスはあくまで冷静に言葉を運ぶ。
「我がオットー家は嘗て、智慧女神スヴィナ様を奉じる神官であった。だが、時が流れ、人がこの島に増えていく中、常に我等の傍にいらっしゃるスヴィナ様の、神としての権能は失われていった。そも、神代が終り、始原神が眠りについてより、世界から神の力は霧消してゆくが理。最後に残ったのが、スヴィナ様だったのだ」
アグリウスは尚も語る。まるで、御伽噺のように――嘗て、本当に過去起こった出来事を。
「神が神で無くなるということは、人の死に近しい。それを危惧した我が祖先は、スヴィナ様を女王として奉じ、人の目から隠すことによってその神秘と権能を守る事にした。スヴィナ様は――否、女王陛下は我等の声にお答えになり、エルゼールカを建国された。それでもいつか、神の力を全て失い、眠りにつく時の為に、このお言葉を我が一族に託して」
建国におけるとてつもない事実を知ってしまい、流石のジェラルドも何も言えなくなる。そんな彼に、アグリウスは厳しく言葉を重ねた。
「――改めて、問おう。城壁将ジェラルド・スターリング。貴公は我等が女王陛下が神だと知ってなお、この国へお帰りいただくことを願うか。キュクリア・トラペサは、決して女王陛下を傷つけまい。寧ろ、本来あの方が得られるべき祈りと奉仕を受けられる場所へ迎え入れ、穏やかな日々を確約するであろう。貴公は、それでも望むか?」
ジェラルドの瞳に、初めて僅かに迷いが生じた。この国を治めるよりも、相応しい場所が女王にあるのならば、それは――
ぐっとひとつ息を飲み、ジェラルドはアグリウスを睨みつける。
「愚問だ。俺の意志は変わらない」
「何故だ?」
アグリウスも一歩も引かず、厳しく問う。眼を逸らさず、声も荒げず、ジェラルドは答えた。
「女王陛下は――俺に、詫びられたのだ」
僅かに、アグリウスが息を飲む。
「あの時と同じだ。女王陛下が、俺に手を触れて下さった時と。名も身も魂も、失いかけていた俺を、全て救い上げて下さった時と同じように!」
堪えきれぬ激情が、ジェラルドの喉を焼いた。
「女王陛下は、この国を! エルゼールカを愛しておられる! この狂犬にすらその御手を伸ばされ、詫びてくださるほどに! この国の民を徒に傷つけ、略取されることを、女王陛下が望む筈が無いッ!! 逆に問おう、宰相殿! 何故貴殿にはそれが解らないのだ!!」
青灰色の瞳に、最早迷いは無い。望むのは、結局は実に単純な事。
ぼろぼろの自分を見て泣いていた女王陛下が、名を得、兵士として勤め始めた自分を見て、微笑んで下さったから。竜との戦いで傷つきながらも、成果を上げる自分を見て、お声をかけて下さり続けるから。
だからこそ、あんな悲しそうな顔を、二度とさせるわけにはいかないのだ。
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