痛み無き獣、怒りのままに、島を飛び出し大陸へ

◆4-1

 彼の人生を、幸運か不運かで断じるのなら。間違いなく、不運であると言えるだろう。

 彼は、自分というものに、これっぽっちも価値などないと、生まれた時から思っていた。別に卑下するわけでもなく、そうとしか親に教わらなかったのだから、仕方がない。

 親が笑いながら人買いと銅貨のやり取りをし、その引き換えに彼を差し出しても、やはり彼は何も思わなかった。

 数年無事に生きた子供は、いい金になる。それが、第二市民の中での常識だった。周りの子供達も同じように、大抵男子は炭鉱へ、女子は娼館へ売られていった。自走人形も買えない貧乏な所に、代わりの労働力として売られるのだ。一つ年上の姉も売られていったし、彼自身もそうなるのだろうと理解していた。

 しかし売られた場所が、炭鉱でも商家でもなく、下町に隠れ住んでいた魔操師だったことが、一番の不運であったのかもしれない。

 その魔操師は、「痛み」の研究をしていた。痛みが有る故に人は怯えや恐れや怒り、負の感情を持つ。それを感じさせぬことが出来れば、人はもっとより良い生き方を得られるのではないか。そう真剣に考えている男だった。

 そして魔操師は、研究を開始した。実験材料に、買ってきた子供達を使って。

 まず、どれだけの損壊を肉体に与えれば、人は死ぬのか。その際に得る痛みを、数値化することが出来るのか。それを知るために実験を始めたのだ。

 最初は、男も加減が解らず、すぐに子供を死なせてしまった。治癒の術も少々心得ていたが、間に合わずに事切れることも何度かあった。

 そんな中、最後まで、彼が生き残ったのは、運が良かったのか、悪かったのか。

 何度も実験を繰り返し、魔操師が「手際良く」なったことと、彼自身の諦めが非常に悪かったこと。この二つが、彼に地獄を与えてしまった。

 潰して致命的になる部分、傷が治癒しても機能が戻らない部分――内臓や眼球は避けられた。その代り、両腕と両足が、主な実験場として使われた。

 力任せに引き千切る。斧や鋸で斬り落とす。炎の文言を刻んで炙り、氷の文言を刻んで腐り落とす。

 何度も、何度も、繰り返された。

 何度も、何度も、彼は泣き叫んだ。痛みに怯え、痛みに苦しみ、痛みに怒った。

 しかしそのうち、痛いというのがどういうことなのか、よく解らなくなった。それは彼自身が生き続けるために手に入れた、防衛策だったのかもしれない。

 腕がもがれても、足が千切られても、何も感じなくなった。

 その思わぬ成果に、魔操師は喜んだ。そうしてますます、彼を利用した実験にのめりこんだ。

 彼が更に不運だったのは、その当時、ついにというか漸くというか――エルゼールカにおいて第二市民の身分が廃止され、人身売買が完全に禁じられた為、魔操師が新しい実験体を手に入れるのが難しくなってしまった。尚更その身を潜め、彼を実験に使い続けるしかなくなったのだ。

 彼はたった一人で、この世の地獄を味わい続ける。四つか五つの時に売られてから、約七年間。

 その頃のことを、彼は良く覚えていないし、思い出したくも無い。覚えていた所で、何も齎さないからだ。

 彼の記憶が現在と繋がるのは、その地獄に、真っ白な手が伸ばされた、その瞬間からである。



 ×××


 その日は――既に日時の感覚など、彼に残ってはいなかったが――非常に魔操師が慌てていた。彼の小さな体をぐるぐると布で包み、荷物のように運ぼうとしたところで、兵士達が家に踏み込んできた。戦闘に長けた魔操師では無かった為、あっさりと縛された。

 兵士達は小さな布包みを、何某かの重要な証拠品だと思ったらしく、無造作に開けて――皆一様に、息を飲んだ。

 傷だらけの両手足をだらりと広げて、意識すら朦朧としている子供。無理やり生かされているとしか見られない、ぼろぼろの姿。哀れみや同情より、その姿の悍ましさに対する嫌悪や、何をされていたかが知れる不快感が沸いても、おかしくは無かった。

 彼は勿論、自分が助かったなどとは思っていなかった。今度は何が始まるのかと、虚ろに思っていただけだ。

 その頬に――白くて温かい腕が触れるまで。

「じょ、女王陛下!」

「お下がり下さい、危険やも――」

 騒がしい兵士達の声は、雑音にしか聞こえない。ただ、頬に触れてくる柔らかいものがなんなのか解らず、彼は視線を僅かに揺らす。

 その先に、いたのは。

「……」

 無言のまま、彼を見下ろしている白金の髪の少女。紫色の瞳は今にも水が溢れそうに潤み、ヴェールで隠された唇からかすかに息が漏れているのが聞こえた。

 彼女を、どう表現すれば良かったのか、あの頃の彼には解らない。

 ただ、彼女は自分の事を傷つけないだろうという、期待が沸いた。そんなもの、生まれるたびに、いつも、誰にでも、踏み躙られて来た筈なのに。

 彼女は、何度も何度もゆっくりと、彼の頬を撫でる。宥めるように、慈しむように、掬い上げるように――詫びるように。

 そして漸く彼の耳に、彼女の小さな言葉が届く。

「……ごめんなさい……」

 謝罪だった。意味が解らず、彼は今にも下がりそうな瞼を必死に持ち上げる。他者に謝られたことなど一度も無い。それがどういう意味を持つのか、どうすればいいのかも、解らない。

「ごめんなさい……助けに来るのが、こんなに遅くなって……ごめんなさい……」

 ほとり、と紫瞳から落ちた雫が、彼の瞼に落ちる。それすらも、優しくて温かかった。



 ×××



 女王陛下御自ら、何故あのような危険な場所に赴き、死に掛けの元第二市民を助けに参られたのか。そんな事は、彼には解らない。

 ただ――彼は、充分だ、と思った。

 何の価値も無い、襤褸のままいつしか打ち捨てられる筈だっただけの己を、助けに来て。躊躇わずにその身に触れて、謝ってくださった。

 それだけで、充分だと。己の命に見合うだけのものを賜ったと、思った。

 それから彼女は、名前をくれた。ジェラルド・スターリング。姓も名も、彼女から賜った。

 城に召し上げられ、兵士としての地位と、職と、食事と給金すら頂いた。

 だからもう、彼はジェラルド・スターリングになったのだ。女王陛下のものに、なったのだ。

 それが絶対であり、幸福であり、それ以外に生きる術など無いのだと、理解してしまったから。

 女王陛下が何者であるか? そんなことは些細な問題だ。

 女王陛下の采配に疑問? 差し挟むはずも無い。

 女王陛下に不満がある? 馬鹿げた思考をした相手を許せない。

 だから――だから。

 女王陛下が居なければ、彼はまったき何者でも無くなり――



 ×××



「――女王陛下ッ!?」

 己の絶叫で、ジェラルドは眼を覚ました。跳ね上げた体から、上掛けが落ちる。

 そこは、良く見慣れた自分の寝室だった。竜に壊された会議場でもなければ、どこぞの魔操師の隠れ家でもない。荒れた息を何度も吐いて落ち着けようとしているうちに、廊下を走ってくる足音が聞こえた。

「――っジェリー!!」

 ばん、とノックもせずに、ポリーが部屋に飛び込んできた。咄嗟に胡乱な眼で睨むジェラルドに構わず、ベッドの端に縋りつく。

「ったく……やっと眼ぇ覚めたかよ、この馬鹿。丸二日寝こけてたんだぞ……」

 床に膝を吐き、安堵の息を吐くポリーを見て、ジェラルドは自然と肩肘張っていた力を抜いた。しかし、彼女の告げた時間の経過に、はっと息を飲んで叫ぶ。

「ポリー! 女王陛下は!?」

 鋭い声に、ポリーはぎくんと肩を震わせて、困ったように首を横に振った。

「わかんないよ……何か大変なことが起きたんだろ? あたしは、お前がうちに運び込まれてきてから、ずっとついてたし。ただ……」

「ただ、何だ!」

「……街の奴等は、皆言ってる。女王様が、カラドリウスに浚われた……って」

 ぎり、とジェラルドの両手がシーツを握り締める。そのまま、乱暴に敷布を払い、立ち上がると、サイドテーブルに置いてあった武器を無造作に掴んだ。

「ジェリー!? おい馬鹿、何する気だ!?」

「決まっている! カラドリウス皇国に宣戦布告し、女王陛下を取り戻すッ!」

「無茶言えよっ! それこそ飛行船とか持ってる、めちゃくちゃでかい国なんだろ!? エルゼールカが敵いっこない!」

「だからどうした! このまま女王陛下をお助けせずにいろと!?」

「ああもう、だから落ち着けって……!」

 駆け寄って無理やり両腕を抑えてくるポリーの細腕を、容赦なく振り解こうとした瞬間――だん!! と部屋に響いた音に、二人同時に我に返った。

「――その使用人の言う通りだ。まずは落ち着け、スターリング将軍」

 部屋主の許しなく、中に入って思い切り壁を叩いたのは、略式の礼服を纏ってはいたが、その迫力は決して衰えるわけもない――宰相アグリウス・オットーだ。

「済まぬな、呼び鈴を鳴らしても誰も来ぬので、勝手に上がらせて貰った」

「すっ、すみませ……!」

「……宰相殿」

 この国で女王の次に偉い男の、共もつけぬ突然の訪問に、ポリーはすっかり萎縮して身を縮こまらせている。ジェラルドも先刻の鬼気は抜けたが、不遜にもアグリウスを睨みつける。彼にとって、己の行動を阻害するものは今や皆敵なのだ。

 しかし流石はこの国の重鎮にして、かつて女王陛下に拾われた頃からジェラルドの事を知っているアグリウスは、全く動じた様子も無い。寧ろ非常に冷徹な声で、彼に向かって告げた。

「城壁将ジェラルド・スターリング。貴公には、二日前に元老院から、闇竜との戦闘以外、無期限謹慎の命が下っている。迂闊な行動は控えて貰わねばならん」

「何故だ!? 宰相殿! 我が国全ての武力をもって女王陛下を――」

「ジェリー!!」

 声を荒げて食って掛かるジェラルドの腕に、ポリーが必死になってしがみつく。アグリウスはあくまで静かに、言葉を続けた。

「カラドリウス神聖皇国の力は強大。我が国の軍備は、竜に対する城壁守備隊以外は、戦の経験すらない兵士達のみ。対するカラドリウスの騎士団、神官団、海船団、そして飛行船を全て合わせた兵力を鑑みれば、我が国に勝ち目は無い」

 冷静かつ的確な戦力の分析だが、ジェラルドにとっては引く理由にならない。

「ではこのまま女王陛下をお助けせぬと言うのか!? エルゼールカの民は、元老院はそこまで腑抜けかッ」

「ジェリーもう止せって……!」

「これは女王陛下の厳命である!!」

「!!」

 アグリウスの一喝に、ポリーも、ジェラルドも口を噤んだ。宰相が懐から取り出すのは、女王陛下自身の印で封じられた書簡。それを開き、重い声でジェラルドに向かって告げる。

「この書は、我がオットー家に代々伝わる、女王陛下からの命令書である。女王陛下が何某かの事情でこの国を離れざるを得ぬ時に開けと、私も教わってきた」

 一歩、二歩。アグリウスが近づき、ジェラルドの目の前にその紙を掲げる。いつ頃書かれたものなのか、羊皮紙はかなり色褪せてぼろぼろになっている。それでも、書かれた文を読むことは出来た。




――この書を開く時は、いつか必ず来る時である。

何時如何なる理由で、私がこの地より去っても、それは覆せぬ宿命である。

故に、オットー家当主をエルゼールカ最高権力者として任命することをここに確約する。

元老院をはじめとする全国民は須らくオットー家に従い、エルゼールカ繁栄の為力を尽くして欲しい。

繰り返す。何時如何なる理由で、私がこの地より去っても、それは覆せぬ宿命である。

全ての民に感謝と、祝福を。

                              エルゼールカ女王

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