◆3-4
「あー……もう。やな汗かいた」
「あの国司、何か怪しさがある。女王陛下にお知らせした方が良いかもしれん」
「えー。……まぁ確かに、あの薄気味悪い女はちょっと怖かったけどさぁ」
人が殆ど港へ行っているのだろう、いつもの休日よりも空いている道を、ジェラルドとポリーは言い合いながら歩いていく。城を中心として緩やかな昇り坂になっているこの国は、中心部に向かうのに少々骨が折れるが、ジェラルドのせかせかとした足取りはいつもと変わらない。
「けど、女王様のお客なんだからって言ってたのもお前だろうがっ」
「女王陛下を侮辱する言葉を出した時点で、客人ではない」
ある意味子供の駄々のような言い草で、ぶつぶつと呟く主の後ろについて呆れたようにポリーは首を振る。そして何気なく後ろを振り向き、先に港の異変に気付いた。
「あれ? ……飛行船が、動いてる?」
「何?」
その声に従い、ジェラルドも足を止めて振り返る。確かに、港に浮かんでいた筈の飛行船が、城壁の向う側にその姿を見せている。着陸したままなら、壁に遮られて見えない筈なのに。
思わず、ジェラルドは城の方を振り仰ぐ。カラドリウス皇国の国司達は、今日女王と謁見し、会談を行った後に夜晩餐会に出席。帰国は明日の予定だ。それまで停泊している筈の飛行船が、今動き出す理由とは――
【――見つけたぞ!!】
「ッ!!?」
不意に、がつん、と殴られたような衝撃が頭の中に走り、ジェラルドは身体を傾がせる。そう思うほどに巨大な声が、頭の中に響いた為だ。
「え!? どうしたんだよ、ジェリー!?」
堪らず踏鞴を踏み、両手で頭を抱えるジェラルドに、ポリーが慌てている。どうやら先刻の大声は、彼女の耳には届いていないらしい。それに疑問を差し挟む余地もなく、がんがんとその声は繰り返される。
【――ついに、ついに、ついに見つけた!】
頭痛すら感じる反響を堪え、どうにか辺りを見回すが、静かな街中で歩く人々も、何も気にした風が無い。この巨大な胴間声は、何故かジェラルドにしか聞こえていないらしい。
【――其処にいるのだな! 間違いなく、其処に!】
「……ッ、誰、だ……!?」
「なんだよ!! 頭、痛いのか!?」
ポリーの気遣いの声に答える余裕も無い。耳を押さえても声が遮られる事は無く、寧ろどんどん激しくなっていく。
【――漸く、見つけた――愛しき我が妻よ!!】
「!?」
そこで、思い至る。頭の中で響く音と、今朝の夢が重なる。
それと同時に、声が聞こえる方向が解った。眩しさを堪えて金陽を見上げる。
毎日変わらず輝き続ける空の天球に、小さな黒い点が一つ。
それは見る見るうちに巨大になり、翼を大きく羽ばたかせた。
光の輝きにその身を焦げ付かせながらも――真っ直ぐに飛んでくる、黒き巨竜!
「馬鹿なッ!?」
「え――、なんで、竜が……!」
ジェラルドと、その視線を追って空を見上げたポリーが、驚愕したのも無理はない。闇竜にこの国が脅かされるようになってから三十年、この竜は決して昼間に現れることは無かった。初めて現れた時も日の出と共に姿を掻き消し、同種族であろう飛竜達が光の術式砲に怯えて逃げ去るところから見ても、光が彼等にとって天敵であろうことは明白だった。
事実、闇竜はその身から、無数の煙を上げ続け、幾本もの黒く長い尾を引いているように見える。それでも全く怯むことなく、真っ直ぐエルゼールカの城を目指して降りてきた。
「――!」
咄嗟にジェラルドは遠い城壁を振り仰ぐが、何か動く気配は無い。当然だろう、寝耳に水の襲撃の上、昼間城壁には最低限度の人数しか置いていない。更に今日は飛行船を見に行こうと、休暇を申請したものも少なくなかった。
一瞬城壁に向かい命令をすべきかとも考えたが、竜の鼻先が真っ直ぐに城へと向かっていることに気付き、彼の頭から冷静な判断が全て頭から吹っ飛んだ。
「おのれえええ!! 羽蟲の分際で性懲りも無くっ!!」
「ジェリー!?」
怒りのままに絶叫し、石畳の道を駆け出す。ポリーの声を背に受けても、足は止まらない。いつも城壁の上を駆け巡っているジェラルドの足は速い。しかし、地に引き落とされるような竜の飛行に追いつくことは出来ず――どぉん! と鈍い音がして、城の尖塔に黒竜が激突した。
「ッ……女王陛下ッ!!」
×××
城内は、完全に恐慌状態の中にあった。
三十年近く竜の脅威にさらされて来た街であったが、ジェラルドが城壁将に就任してからは、被害が格段に押さえられた。しかもつい先日には、伝説扱いされかけていた闇竜ラトゥすらも退けたのだ。それ以降竜の襲撃は行われず、誰もが多かれ少なかれ、竜恐るるに足らず、と油断をしていた。
だから、会談を行っていた室の窓を、煙を上げながらも闇竜の顎が食い破った時には、元老院の貴族達は皆、ある者は腰を抜かし、ある者はほうほうの体で逃げだした。其処に居る女王を、放ったままで。
アグリウスだけが唯一女王の前に立ち、腰に佩いていた剣を抜き放つ。会談の場に武器を持ち込むことは禁じられているので、刃を潰した儀礼用のなまくらだ。だが、氷のように彼の表情は動かない。僅かでも時間を稼ぎ、女王を逃がすことしか考えていないのだろう。
カラドリウス皇国の国司達も逃げてはいないが、部屋の隅に固まり蹲っていて役に立つとは思えない。がしがしと壁や床を爪で削り身体を捩子入れてくる巨大な竜に、アグリウスは無言のまま対峙する。
黒い鱗を焼け爛れさせながら、巨大な黒瞳を爛々と輝かせた竜は、ゆっくりと女王に向かって首を伸ばす。アグリウスは僅かに腰を落とし、捨て身覚悟で斬りかかるつもりだった。
「――下がりなさい、アグリウス」
「女王陛下?」
後ろから告げられた小さな声に、アグリウスは片目だけ動かして後ろを見た。顔半分をヴェールで覆った少女は、そっと忠実な宰相の腕を撫でてから、一歩その場に進み出る。当然、竜の鼻先にまでその身を曝すことになる。
息苦しい沈黙。そして、ぽつりと誰かの声が響いた。
【――違う】
低く、小さく。しかし部屋中に響いたその声には、どうしようもない絶望のみが籠っていた。
「ええ、違います。私は、貴方の愛する妻ではありません、原初の七竜、闇竜ラトゥ」
凛とした女王の声が響き、そこでアグリウスは、「違う」と呟いた声の持ち主が、目の前の巨竜であることに、漸く気付いた。普段全く表情を動かさない彼でも、目を見開かざるを得ない。竜が人語を解し操るなど、如何なる伝説でも聞いたことが無かったからだ。
アグリウスの驚愕に構わず、闇竜は顎を開き、なおも言葉を発した。人のように一音のたびに顎を動かす事は無く、喉奥から響かせるように文言を吐き出している。
【馬鹿な。では、我が妻は何処にいるというのだ……! 神の気配の残る地上など、最早此処しか無いというのに! 忌まわしきアユルスの光に焼かれようとも、ここまで来たというのに! 何処だ、何処に居る! 我が声が聞こえるならば、応えを寄越せ!! 我が愛しき妻、リチアよ――!!】
異形の竜でありながら、その巨大な口から漏れる言葉は、どうしようもない哀切を含んでおり、その場に残った人々の心を穿つほどだった。言っている言葉の意味が解らずとも、この竜が何かを必死に望んで、目指して、しかしそれが手に入らなかったということは理解出来た。それほどまでにその声は――苦しげに、切実だった。
「女王陛下、恐れながら――」
如何すれば良いのか見当がつかず、やむなくアグリウスが女王に進言した時。
「――『皆、平伏せよ』」
後ろから、何語か解らない男の声を聞いた瞬間。
アグリウスは指一本動かせず、そのまま床に膝をついてしまった。何故自分がこのような行動をしたのか、理解できぬままに。
「『智慧女神スヴィナ様の御前である。額ずき、頭を垂れよ』」
アグリウスだけではない。部屋に残っていた僅かな人間達は皆、深々と床に平伏した。皇国からの使者達は淡々と、エルゼールカの民達はやはり、己の行動に訳が解らないまま。
そして、部屋の中に立っているのは、女王の他に、一人の男だけ。
白い神官服には、豪奢な魔銀糸の刺繍が入れられており、首に下げる飾り布は灰色。その風貌は凡庸であり、決して精彩を放つ身形ではない。
だが、その唇から出てくる言葉だけが、深く重く、全ての人の心に突き刺さるように響く。
「改めてご挨拶をさせて頂きます、智慧女神スヴィナ様」
男は女王をそう呼ぶと、目の前に進み出て、片膝を着いて礼をした。
「我が名は、神の代弁者、キュクリア・トラペサの神従がひとり、ペルラン・グリーズ。智慧女神スヴィナ様を、お迎えに上がりました」
「……」
女王は無言だ。神の名で己が呼ばれても、そう呼んだ男に跪かれても。
ただ、ヴェールに隠されていない、紫水晶の如く美しい瞳が、僅かな悲しみで揺れていることに、気付くものは誰もいなかった。
アグリウスは動けない。先刻、ペルランの言葉を聞いてから、指一本でも動かそうとすると、体全体に激痛が走る。周りの人々もそうらしく、不用意に身を動かそうとして堪らずあげる呻き声が、あちこちで聞こえた。
【――そうか。貴様等か!! 貴様等が我が妻を、我が胎より奪ったかァ!!】
その時、闇竜が動いた。黒瞳を爛々と輝かせ、首を振るってペルランに齧りつかんと這い擦る。
【我が妻を奪い、その女神を奪い、次は何だ!? 神の威を借りて囀る愚物共が、貴様如きの言葉は竜には響かぬぞ!!】
憤怒に満ち満ちた声で罵倒され、その身の傍に乱杭歯の並ぶ鼻先が迫っても、ペルランは動揺ひとつ見せず、悠々と言葉を紡ぐ。
「解っているとも。故に――あの御方の力を、使わせて頂く。闇竜ラトゥには覿面であろう」
そう言いながら、すいと男が手を空に翳した瞬間。
部屋が、眩い輝きに包まれた。
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