◆3-3
「……御伽噺にならば」
「ええ、ええ。それは嘗て神の時代、本当に起こった事なのです。わたくしが奉じる銀月女神リチア様を、その悍ましき顎で一息に飲み込んだ、許されぬ罪を犯した黒き竜! それは紛れも無く――眷属を連れてエルゼールカの闇夜を脅かす、闇竜ラトゥに相違ありません」
突然の主張に、ジェラルドもポリーも顔を見合わせるしかない。寝物語に小耳に挟んだだけの御伽噺が、昔本当に起こったことなのだと言われても、どう返答して良いのか解らない。解るのは、目の前の女性がそれを事実なのだと、本気で信じているのだろう、ということだけだ。
訝りつつも、すっかり己の世界に入り込んでいる女性をこのままにもしておけず、ジェラルドは口を開いた。
「ならば、問おう。かの闇竜が、銀月の女神とやらを飲み込んだだけの強さを持つというのなら。それを退ける術は、あるか?」
ジェラルドにとって、竜の呪いという事実自体はさしたる問題ではない。何故なら、かの闇竜は女王陛下に徒名すものであり、それを退ける事が己の使命なのだ。問題はそれが出来るか出来ないか――否、その成否でなく、どのように退けるか、としか彼は考えていない。故に、何かの手がかりをとイエインに問うたのだ。
熱に浮かされたような女神官の瞳が不意に静まって、ジェラルドの方を向く。その顔には微笑が戻っていたが、彼は警戒を解かなかった。
「――竜も所詮は、始原神イヴヌス様が作り上げた世界の欠片。八柱の神が全て復活し、この地上にお戻りになった時、竜は全て神々に平伏すでしょう」
「神様が、復活?」
「この地上に現れた崩壊神とその眷属、魔の物達を封じる為、大いなる神々は力を使い果たし、眠りに着きました。だからこそ我々、神に仕える僕であるわたくし達が、祈りを捧げ、神々をこの地にお戻ししなければならないのです」
訝しげなポリーの言葉にも、堂々と答えを返すイエインの姿に、主従揃って再び顔を見合わせてしまう。くどいようだが、エルゼールカの民にとって、神とはそこまで遠いものなのだ。生まれてからずっと信仰と共にあるカラドリウスの民にとっては、当たり前の思いなのかもしれないが。
「神の前に、職業や身分の貴賎はありません。王も民も、商人も職人も狩人も農民も、全てが神の前で頭を垂れなければならないのです。何故なら、わたくし達は神にお仕えするものとして、この地上に生み出されたのですから」
ジェラルドにとっては、女神官の言葉はただの世迷言としか思えなかった。もっと言うならば、女王陛下より尊い存在が居るとも思っていない。彼女の言葉が真実ならば、女王陛下も神に仕える僕となってしまう。そんなことを、受け入れられる筈も無い。
「語るに落ちたな。三十年前、竜に飲み込まれたが故に銀月は天より消えたのか? ならばその神とやらを、どのようにして取り戻すというのだ」
ある意味最もなジェラルドの言葉に、イエインは何故か一層、笑みを深くする。聞き分けの無い子供を諭すように、うっとりと。
「それは違います。銀月女神リチア様は、遥か昔、カラドリウスの建国よりも以前に忌まわしき闇竜に飲み込まれ、空へと囚われました。――ですから、三十年前。わたくし達がお迎えしたのです」
「何?」
「わたくし達が、銀月女神リチア様を、地上へお迎えしたのです。故に銀月は、地上からは見えなくなりましてよ?」
そう結んだ女の言葉の意味が理解出来ず、ジェラルドもポリーも絶句した。女は気にした風も無く、更に言葉を重ねる。
「リチア様のお傍にお仕えすることによって、わたくしは類稀なる銀月女神の祝福を得ました。貴方がたも、奉じることを望む神へ祈りを捧げれば、きっと素晴らしい祝福を得られるでしょう。それこそが、神が人を生み出された理由であり、我々が生きていける唯一の術なのですから」
イエインの虚ろな瞳には、いつの間にかぢりぢりとした棘のような熱が篭り、ジェラルドを見詰めている。まるで、何も知らない愚かな羊を、嘲笑っているかのように。
「貴方もいずれ、わたくしの言葉を理解してくださるでしょう、スターリング将軍。何故なら、貴方の信奉する女王陛下とは――」
ダンッ!!
不意に石畳を重く突く音が当たりに響き、辺りの人々がびくりと身を竦ませる。イエインも虚を突かれたように言葉を止め、ジェラルドは素早く辺りを見回し、音源を突き止めた。
いつの間にか、彼等の傍に男女の二人連れが立っていた。
二人ともイエインと同じ装いの白い礼服に、聖銀鎧を纏っている。体格には大きな差があり、ジェラルドのゆうに倍はありそうな筋骨隆々の大男と、その腕にしがみ付いている小柄な少女だった。
男は赤銅色の髪と褐色の肌を持っており、首から黒の肩布を下げている。太い手で槍を掲げ持ち、その石突で地面を叩いたのだと予想がついた。厳つく四角い顔を無表情にしたまま、イエインとジェラルドを見詰めている。
少女はこれまた対称的に、真っ白な髪と肌の持ち主で、瞳と唇だけが随分と紅く見える。背丈だけ見れば少女であるのに、法衣にしては体の線がくっきりと見える装束により、豊満で魅惑的な肢体の持ち主であることが解る。何がおかしいのかくすくすと笑いながら、男の腕に身体を擦り付けて猫のように甘えていた。
対照的な二人は、やはりカラドリウス皇国の者に間違いなかった。男がイエインになにやら皇国語で囁き、イエインは渋々とだが了承の姿勢を見せた。そして先刻のような苛立ちをすうと消して見せ、あくまで優雅に礼をする。
「申し訳ありません、お時間となってしまいました。私達は船に戻りますが、今少しこの国に滞在させて頂く為、宜しければいつでもお話をお聞きにいらして下さいませ」
彼女の言葉に、様子を伺っていた野次馬達も、三々五々散っていく。ジェラルドとポリー、そしてイエインの他には、二人の男女だけになった。
「……失礼。この国の方達にとっては、不快な説法だっただろう」
口を開いたのは、ジェラルド達に向かい合った大柄な男だった。きちんとしたエルゼールカ語の、無骨ではあるが丁寧な礼に、ポリーはほっとして礼を返すが、ジェラルドは警戒心を隠さない。
「いや、そんな――」
「如何にも。神とやらが女王陛下よりも上などと、おこがましいにも程がある」
「ってこの馬鹿!」
客人相手にも全く遠慮が無い主の頭を、ポリーが咄嗟に思い切り引っ叩く。
「っあはははは!」
と、白い少女が大笑いした。イエインはジェラルドの態度か、それとも少女の笑いにか、僅かに眉根を寄せたが、少女と男は少なくとも気を悪くした風に見えない。
それをいい事に、ポリーは逃げを取る事にしたらしく、ジェラルドの腕を引きながら頭を下げる。女王陛下に関して暴走する主の怖さと突拍子も無さを、一番知っているのも彼女だからだ。
「あーもうすいません! この馬鹿にはよく言い聞かせておきますんで!」
「おい、放せ。まだ言いたいことが――」
「お前はちったぁ遠慮とかそういう言葉を覚えろぉ!!」
ぐいぐいと主の腕を引っ張って退場していく娘を、三人の神官達は黙って見送った。三者三様の表情で。
×××
――ジェラルドがポリーに引っ張られ、港を離れていき。白い少女が耐え切れ無いように、またくすくすと笑った。
「あー、面白かったぁ。今時こんな国、本当にあるんだねぇ。まぁ、『女王様』がいるんなら仕方ないかもしれないけどさぁ」
「クレーエ」
周りに僅かに残っていた人々に気付かれないよう、その会話は皇国語ともまた違う、神が創り出したと呼ばれる言語――今や神官すら読み書きできるものは僅かしかいないとされる、神紋語で行われていた。
黒い大男に嗜めるように、名前であろう言葉で呼ばれ、少女は一瞬びくりと体を震わせた。しかしみるみるうちに不満げに両頬を膨らませ、男の腕に縋りつく。
「ううー、何!? そりゃあ、ラーヴは私より『女王様』の方がいいかもしれないけどさぁ!?」
そのどこかずれた噛みつき方に、イエインは僅かな苛立ちを込めて溜息を吐いた。また始まった、あるいは、当たり前でしょう、とでも言いたげに。
ラーヴと呼ばれた男は、少女のこんな反応に慣れ切っているのか、自分の腕に回っている細い両腕を軽々と解く。そして泣きそうになった少女の方に半身を向け、眉ひとつ動かさず平坦な声で答える。
「……俺がこの世で一番大切な女は、お前だ」
「わあーん!! もー、ラーヴ大好き~!」
言葉だけなら情熱的だったが、声が淡々とし過ぎていた。しかし少女にはその睦言で充分過ぎたらしく、白い頬をぱっと紅潮させ、満面の笑みで、親子ほどの対格差のある男に縋りついている。
「全く……戯れもほどほどになさって下さいな。もう始めるのでしょう」
完全に呆れた声で、イエインが二人を促す。それに僅かに肯いた男が、少女の腰を抱いたまま踵を返し、彼女の方を向きながら答えた。
「ああ。如何なる妨害があろうと――我等が神は、我等の元に顕現なされねばならない」
その言葉に、イエインは満足げに微笑み、クレーエと呼ばれた少女は再び不機嫌そうに唇を尖らせたが、口答えはしなかった。男が言ったのは彼女も承知の上の、事実だったからだ。
「作戦開始だ、クレーエ、イエイン。急がねば、ペルランが痺れを切らすぞ」
「うぅー。……うん」
「ええ――参りましょう」
イエインはやはり緩やかに微笑み――その虚ろな瞳を、今にも零れそうな熱で満たして――夢見るようにうっとりと、宣誓した。
「智慧女神スヴィナ様を、我等キュクリア・トラペサの元へお迎え致しましょう」
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