◆1-3

「ッ!?」

 咄嗟の勘で、上を向く。この季節ならば、天空に見える筈の沢山の星々が、今は見えない。街明りのせいかとも思ったが――違う。

「全員伏せろッ!!」

 ジェラルドの鋭い声に、反応出来た兵士は半分にも満たなかった。その次の瞬間、凄まじい突風が城壁を薙ぐ!

「う、うわああああっ!!」

 何が起こるのか解らないままに、その場に立ち尽くした兵士は、暴風に煽られ、ばらばらと城壁を落ちていってしまう。訳も解らず、ただ声に従いしゃがみ込めた者達が慌てて立ち上がる。

「あ……あれは、」

 城壁すれすれを飛んでいき、術式砲の光の中を悠々と旋回して飛ぶ、巨大なその姿を見て、兵士達から恐怖の声が漏れる。

 飛竜などとは比べ物にならない程の巨体は、小高い丘一つ程にもなる。城の尖塔ぐらいならば、その顎で齧り取ってしまえるほどの巨大さに、兵士達も、騒ぎに気付いて起き出したのだろう市民達も、皆呆然と見上げている。

 街全体を覆うかのように広げられた翼と、悠々と伸ばされた長い尾。太い四足の先に生えている、人の胴ほどの太さを持つ鉤爪。巨体は棘のような黒い鱗で覆われ、胴体から伸びた長い首には、大きな冠翼と無数の角で縁取られた頭が付いている。

 そして、闇を固めたような黒なのにぎらぎらと輝いて見え、地を睥睨する巨大な瞳を持つ竜は、無数の乱杭歯の並んだ口をぐぱりと開き――凄まじい咆哮が、闇夜を劈いた。

「闇竜だあああっ!!」

 それに触発されたかのように、悲鳴が次々と伝染していく。恐慌状態に陥り、右往左往する人々の中、ジェラルドは城壁の縁にしがみ付き、竜の動きを具に追い続けた。

 ――三十年前、空から銀月が消えた。

 この世界に古くから伝わる神話の伝承において、銀月の女神を飲み込み夜と化した巨大な黒い竜の話が出てくる。銀月が消えたその夜に、エルゼールカ上空に現れた巨大な竜を、人々は怯えてその伝承のままの名――闇竜ラトゥと呼んだ。

 この小さな島国は、嘗てその闇竜によってあわや壊滅の憂き目をみた。巨大な顎はその一噛みで数人を裂き殺し、尾で薙げば家が吹き飛んだ。口から吐き出される黒い炎はどんな水でも消えず、家や死体を薪として、全てが尽きるまで燃え続けた。実に、当時の人口の三分の一が、竜によって奪われたとされている。

 幸運だったのは、襲撃が明け方近くに行われたことだった。女王が生き残った者達をできるだけ城に避難させ、弓矢でどうにか応戦しているうちにやがて金陽が昇った。陽光を浴びると竜は体中から黒煙を上げ、苦しげに藻掻きながらその姿を消してしまったという。

 それ以降、闇竜は現れなかったが、その代りのように黒い飛竜達がエルゼールカの夜を脅かすようになった。女王陛下は憂い、国民達を守るために、島を覆う巨大な城壁を作り上げ、魔操砲を作成し、設置させた。そして同時に置かれた城壁守備隊の奮戦によりこの国は守られ、栄えてきた。

 しかし、今。

 エルゼールカの住民ならば誰もが恐怖を覚えるその巨体が、上空に翼を広げていた。

 闇竜は、城壁に居る兵士などに目もくれず、まだ輝きを保っている上空の術式弾に向かって悠々と首を動かした。光に怯む様子は全く無く、そのまま大顎を開き、ばくん、と口の中に入れる。あっという間に、辺りは暗闇に包まれた。

「ひ、光を食っただと!?」

「魔操砲が効かないのか!?」

 怯えと慄きが兵士達を席巻する中、竜はそれを嘲笑うかのように空を何度も旋回し、やがて街の中心部にある王城に向かって首を擡げる。その動きにいち早く気付いたのは、やはりジェラルドだった。

「貴ッ様ァアア!! 蜥蜴如きの分際で、女王陛下に目通り叶うと思ったかァ!!」

「将軍!?」

 激昂の声が空に響き、部下達が驚いてそちらを向いた時には、ジェラルドは城壁に常備されている分銅付きの鉤縄を引っ掴み、振り回すと竜に向かって思い切り投げていた。

 縄の長さはぎりぎりで足り、黒竜の後ろ脚、その爪先に縄が引っ掛かった。当然その程度で竜の巨体が止まるわけも無く、縄の先を掴んでいるジェラルドは、城壁から市内上空へと放り投げられる。

「将軍ーッ!」

「危険です! お戻りをー!!」

「っ、く……!」

 部下達の悲鳴も意に介さず、風に煽られながらもジェラルドは自分の血で滑る手で、必死に手繰って縄を登る。縄から手を離せば、地面に叩きつけられて死ぬことは間違いない筈なのに、その動きは全く弛まない。

「――ふッ!」

 竜の鋭い爪先まで辿りつくと、今度は両手を伸ばしてその足にしっかとしがみ付く。

 そこで漸く竜の方も、小虫が足にくっついているのに気付いたようだった。僅かに鼻を鳴らし、軽く足を振る。

「ぐぅっ!」

 それだけで酷い衝撃を味わい、振り落とされそうになるのを、両手に全力で力を込めて堪える。二度、三度と揺らされるが、それでも離さない。両手の爪が剥がれても構わないと言わんばかりに五指に力を込める。

 いくらやっても落ちない虫に痺れを切らしたのか、闇竜は翼を大きくはためかせ、高度を上げた。思い切り天へ引っ張られる圧力に耐え、どうにか瞼を開けると、闇夜の中に星が幾個も輝いているのが、何故かはっきりと見えた。

 次の瞬間、ぐるん、と世界が反転する。

「ぐ――!!」

一瞬の浮遊感、それに続く凄まじい風の圧迫に、堪らずジェラルドは目を閉じそうになるが、その時。

 視界に、逆さになった、白亜の城が見えた。

「――ッ!」

 それを見た瞬間、ジェラルドの体に力が漲る。

 守るべきもの、護るべき人があの城に居る。己の生きる意味、生きる価値、生きる理由が全てあそこに在る。

 それをこんな薄汚い竜に、土足で踏み躙られてたまるものか!

「させる、かァアア!!」

 ジェラルドの捕まった竜の右足が一番上空に来たところで、彼はほとんど落下するような形で、その足から腹へ向かって駆け下りた。腰のサーベルを抜き放ち、真っ直ぐ前に構えたまま。

 竜がその動きに気付いてその身を僅かに捩れば、支えの無い身体は地面に激突して赤い花になるだろう。

 例え剣が届いても、巨大な竜の分厚い鱗には太刀打ちできないかもしれない。

 だが、ジェラルドはそこまで考えない。そんな思考は無駄である、と断じる。

 眼前に敵がいる。己の主君に害を成そうとするものが。

 手元には武器がある。己の主君から賜った一振りが。

 ならば、その武器を持って敵を殲滅しなければならない。可能か不可能かは問題では無く、達成しなければならないのだ。彼は本気で、そう思っているし、その思考に疑問を挟まない。

 サーベルを両手に構え、怯むことなく真っ直ぐに、竜の鼻先目がけて落ちていく!

 小虫の目的に巨竜も気付いたようで、嘲りのように一声鳴いて、首を自分の腹側に巡らせて大きく顎を開く。そのまま落ちてきた輩を、口の中で噛み砕くつもりなのだろう。

 だがそこで、上官の援護の為か、再び撃ちだされた光弾が、彼等の近くで思い切り弾け、光の粒を振り撒いた。痛みは無いが、不快には違いないらしく、竜の黒瞳が僅かに眇められる。

 その隙にジェラルドは、牙の並ぶ洞窟の中に落ち――否、飛び込んだ。

「っぐ!」

 歯の間をぎりぎりですり抜け、ジェラルドの体は喉奥の壁に当たり、跳ね返って巨大な舌の上に受け止められた。犠牲になったのは、牙に引っ掛かった外套だけだ。

 人が寝転べば三人は入れるほどの広さがある口腔内は、肉を食らう獣独特の据えた臭いはせず、ひんやりとして乾いていた。生き物の口というよりは、まるで石造りの洞窟のようだ。明り石はもう無い為、それ以上の様子は良く解らない。

 今まさに、食われかけているということに対する恐怖は微塵も顔に浮かべず、ジェラルドはサーベルを握り締める。異物が口の中でまだ生きている事に気付いたのだろう、舌がぐにゃりと喉奥へ動き出そうとした瞬間。

「――ッらぁ!」

 気合一閃、サーベルを両手で握り、渾身の力を込めて――舌に突き刺した。



 ×××



「グルゥガアアアアアアアッ!!」

 闇竜の悲鳴がエルゼールカに響き渡る。援護の為、駄目もとで撃った光弾により、ジェラルドの一部始終を見ていた兵士達は皆一様に絶望の表情を浮かべていたのだが、その音にはっと我に返った。

「見ろ!」

 誰か一人が、竜がぶるりと首を振り、何かを吐き出したのを目に捕らえた。空に放り捨てられたのは、泥のような黒い塊――否、恐らく闇竜の血である黒に塗れた、ジェラルドの体だった。そのまま、王城の草木が茂る庭園に落ちていく。

「城だ! 皆行くぞ!」

「将軍ー!! どうかご無事で!」

「待てお前ら、持ち場を離れるな!」

 期待と不安のままに次々と駆け出そうとする兵士を軍長が諫めるが、殆どは聞かずに走っていってしまう。幸いなことに、そのまま闇竜は忌々しげに身体を振ると、海へ向けて飛び去ってしまったので、その日の戦いは終焉することになった。

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