第36話 旅館

 電車とバスを乗り継ぎ、今日宿泊する旅館に着いた。老舗の和風旅館といった感じのおもむきのある宿だ。


「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」

 番頭や仲居がずらりと並んだお出迎えに莉子りこはたじろぐ。


「あの、予約していた遠野とおのです」

「はい。お伺いしております。三月みづきさんもご一緒で」

「はい。今日はお世話になります。すみません、俺まで急に泊まることになって」

「え? 三月も泊まるの?」

「そうだよ。帰ってくるなって言われてるからね」

「あ、そっか。そうだよね」


 宿帳に名前を記入し、莉子はロビーを見渡す。重厚な雰囲気だが、木の温もりが感じられて居心地がいい。

 ふかふかのソファに座って待っていると、落ち着いた色合いの着物を着た、迫力のある女性がやってきた。三月が立ち上がって礼を言う。


「すみません。こんな忙しい時期に」

「いいのよ。藤十郎とうじゅうろうからくれぐれもよろしくって言われてるから」

 女将おかみは莉子に向かって挨拶をする。

「ようこそお越しくださいました。三月さんにはいつも甥がお世話になっています」

「いえ、こちらこそ」

「お疲れでしょう。お部屋にご案内しますね」

 三人の後を荷物を持った仲居がついてくる。


「百合の間でございます」

 通された部屋は意外とモダンな洋室で、手前の部屋にテーブルとソファが置かれ、その奥にはベッドがふたつ……

「「えっ!?」」

 三月と莉子が同時に叫んだ。

「あの、女将さん。俺の部屋は――」


「いやあねえ。こんなギリギリに言われても空いてるわけないでしょ。この部屋は急遽キャンセルが出たの。運がいいわねえ、あなたたち。では、ごゆっくり」


「え、いや、そんな、女将さん?」


 追いすがる三月を置き去りにし、女将はさっさと部屋を出ていく。

 残されたふたりは――。


「ごめん! わざとじゃないんだ。藤十郎に頼んだのが間違いだった。あいつ、任せとけって言ってたのに……まさか、こういうことだったとは」


 三月の脳裏にニヤニヤと笑う藤十郎の顔が浮かんだ。

 落ち込んでいる三月を莉子が慌ててフォローする。


「大丈夫だよ、同じ部屋で」

「ほんとに? 嫌じゃない?」

「嫌なわけないよ! そりゃあ緊張はするけど、久しぶりに会えたんだし、人の目を気にせずイチャイチャできるのは、ちょっと嬉しいっていうか……」


 チラリと三月を見ると、目をキラキラさせて喜んでいた。


「ありがとう、莉子。俺もイチャイチャしたいけど、まずは風呂かな。疲れただろ。ここは温泉が有名なんだ。浴衣も脱衣所に色々と用意してあるみたいだよ」


「じゃあ入ってこようかな。三月は?」


「俺も入ろうかな」


「準備するからちょっと待ってて」


 荷ほどきする莉子に背を向け、三月は窓の外に目をやる。

 庭園には、綺麗に剪定されたアカマツや、玉散らし仕立てのイヌツゲの他、センリョウの赤い実や白い山茶花さざんかが見える。


(前に泊まらせてもらったときは、紅葉もみじがきれいだったなあ)

 思わずカグヤを使って、莉子に贈ったくらいだ。


 この旅館は藤十郎の母親の実家で、叔母の夏帆かほが女将をしている。


「いっつも山だと疲れるだろう」

 そう言って、藤十郎がちょこちょこ三月を連れてくるので、旅館の人たちとも顔見知りだ。ただ、いつもは別館にある藤十郎の部屋に泊まっているので、本館に客として泊まるのは初めてだった。


「準備できたよ」

 声をかけられて振り向くと、着替えやアメニティを詰め込んだ手提げ袋を持った莉子が、すぐ傍に立っていた。


「どうしたの? 変な顔して」

「いや、なんか夢みたいで」

「今日一日一緒にいたのに?」

 莉子が面白そうに言う。


「だって京都に、しかも同じ部屋に莉子がいるなんて信じられない」


(可愛いこと言うなあ)

 莉子はふふっと笑って、三月にぐいぐいと近づいた。

「ほら、現実でしょ」

「やめなさい」

「なによぉ」


 笑い合うふたり。

 ふと、三月が真顔になった。


「莉子」

「なに?」

「キスしてもいい?」

「……うん、いいよ」


 莉子はそっと目を閉じた。

 ふたりとも心臓が破裂しそうなほどバクバクしている。


 三月は震える両手で莉子の肩を抱き、おでこにそっとキスをした。

「え、そこ?」

 思わず目を開けた莉子に、

「いや、ちょっと待って。順番にするから、もう一回目を閉じて」

 慌てる三月に、順番てなにと言いながら再び目を閉じた。


 すると今度は、両頬、まぶたと、色々なところにキスの雨が降ってきた。そして、戸惑う莉子の唇に柔らかな感触が――


(すごい、わたし三月とキスしてる)


 うっとりとしている莉子に三月が囁く。

「莉子、ちょっとだけ口開けて」


 何も考えずに言うとおりにすると、いきなり深い口づけをされた。

(まさか三月が、こんな……)

 大人のキスは、莉子が想像していたよりずっと気持ちが良かった。

(好きなひととするキスってすごいんだなあ。これ以上のことしたらどうなっちゃうんだろう)

 待ち望んでいたことなのに、自分が変わってしまいそうでなんだか怖かった。


 




 

















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