第9話 あの頃の阿吽と三月 

「おい、うんよ」


「なんだ、よ」


「あいつ、また来てるぞ」


「ああ、からすの小僧か。どうせまた大天狗さまに叱られたんだろうよ」


「力も弱いし、翼も小さいからなあ……どうする?」


「またか」


「だって、チラチラこっちを見てるから気になるだろう」


「まあ……あれは声をかけられるのを待ってるな」


「吽が行ってやれよ」


「最初に声をかけたのは阿だろ」


「はあ、しょうがないな」


 狛虎こまとらの阿は、石像からするりと抜け出た。小さな虎の姿になった阿は、大きな木の陰に隠れている子どものもとに飛んでいった。


「どうした? また泣いてるのか?」

「あーたん! うぇえええーん!」

 

 三月みづきが阿に抱きついて泣き出す。


「まったく、おまえは泣き虫だな」

「だって、おっ、お父さんが、おれのこと、だっ、だめなやつだって」


 ひとしきり泣かせてから、阿が言った。


「大天狗さまはなんでもお出来になるから、出来ない者を見てると歯がゆいのだろう。だが、大天狗さまとて、子どもの頃は苦労しておったぞ」


「お父さんが?」


「ああ、そうだ。今でこそ立派になられたが、昔は身体も小さく、兄者あにじゃたちによく馬鹿にされておった。だが、大天狗さまは負けず嫌いだったから、たくさん修行をして、兄者たちを負かすくらい強くなったのだ」


「おれにもできるかな?」


「どうかのう。まあ、大天狗さまの子じゃから、出来るかもしれんな。ああ、そろそろ戻らぬとうんに怒られてしまう」


「わかった。またね、あーたん」


「小僧よ、その呼び方はどうかと思うぞ」


 三月が手を振りながら去って行くのを見届け、阿は石像の中に戻った。


「ずいぶんと話をしていたな」

「そうか? 次はうんが行けよ」

「うむ。そうだな」


 その後も、三月はたびたび阿吽のもとへやってきた。 

 いつも大きな目を潤ませながら、チラチラとこちらを見るので、放っておけずつい相手をしてしまう。


「今日はどうした? 上手く飛べない? どれ、ちょっと飛んでみろ」


「また怒られたのか? ほら、もう泣くな。しょうがない小僧だ」

 

 そんなふうに世話を焼いているうちに、いつのまにか阿吽は、烏の小僧が来るのを待ち望むようになった。


 ◇

 

 遠足の日の夜、阿吽たちが鏡夜の家を訪れた。


「あははは、ほんとに来たんだ!」

 

 大笑いする鏡夜に向かって、阿が言い放つ。


「ふん。ぜひ遊びに来てくれと小僧が言うから、わざわざ来てやったのだ」


「寺は大丈夫なのか?」


「門に結界を張ってきたから、低級霊ごときは入れぬわ」


「嫁御は元気か?」とうんが訊く。


「元気だよ。静香しずかさん、おいでよ」


 呼ばれて、部屋の奥から静香が姿を見せた。


「あら、いらっしゃい。阿吽ちゃんたち」


「相変わらずだな、嫁御よ」


「阿吽ちゃんたちも、相変わらず可愛らしいこと」


「やれやれ、口の減らぬおなごだ」


 静香は今年で六十七歳。夫の鏡夜はどう見ても三十代にしか見えないので、親子だと勘違いしている人もいる。


 確かに見た目は歳を取ったが、鏡夜の目に映る静香はあまり変わっていない。可愛い笑顔や、美しい琥珀色の瞳を見るたびに、愛おしいと思う。


 烏天狗たちは、代々、傍系の中からめとることが多い。

 まれに人間と結婚する者もいるが、その者たちは山を下りて人間社会で暮らすことを強いられる。鏡夜とて例外ではない。


『馬鹿なやつだ。同じときを生きられず苦しむことになるのに、なぜ人間を選ぶ』


 鏡夜が静香と結婚したいと伝えたとき、兄である大天狗に吐き捨てるように言われた言葉だ。


 兄には理解できないだろう。

 恐ろしいほどの力を持ち、関東一帯の烏天狗たちの頂点に立つ男。


 鏡夜はずっと、兄に対してコンプレックスを抱えていた。兄弟に傑物けつぶつがいると、周りから比べられて肩身の狭い思いをするものだ。


 高校生のとき静香しずかと出会い、その聡明さや、偉そうな態度や、明るい笑顔に惹かれて恋に落ちた。静香は、鏡夜のコンプレックスなど笑い飛ばし、あなたはそのままで充分魅力的だと言ってくれた。


 同じときを生きられないのはわかっていたが、それでもこのひとと一緒にいたいと鏡夜は心から願った。

 

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