第98話 チクタク

「時間が心に関係しているとは?」


「モノである肉体、脳神経といってもいいが、体と心をつなぐ存在が時間なんだ。光を失い、音を失ったとしても、脳だけで感じ得る最後の感覚……」


 白衣の男は左手を上げると、パチンと指を鳴らす。


 チクタクと言う時計の音が消えた。


 そしてさらに右手を上げて指を擦ると、真っ暗になった。


「…………」


「…………」


 パチンと再度音がすると、世界が元にもどった。

 やはりここはアガルタの腹の中のようだ。


 つまり、彼は殺そうとすれば僕を殺せる。


 しかし怖いとは思わなかった。

 なんとなくだが、彼はこの力をそんなことに使わないという確信がある。

 

「そう、このように不確かな暗黒の中でも感じ得る感覚。それが『時間』だ」


「目と耳を閉じても感じられる感覚が『時間』。なるほど、それと心がどう関係するんでしょうか?」


「まず時間は存在しない。この世界に流れる時間と思っているのはそれを感じる感覚の変化であり、意識であり、心だ。」


「……少し前の僕なら鼻で笑ってたんでしょうが、今は納得できる。アガルタ、あなたのいう事は、心がないと時間は存在しない。そういう事ですね」


「そうだ。時間を直接的に計測できる装置というものは存在しない」


「あれは?」


 僕はホールにあった置き時計に視線を送る。それは合いも変わらず「チクタク」とせわしなく動く秒針で時を刻み続けている。


「あれはあくまでも機械の動作だ。この天体の動作、サイクルを分割したものをあらわす以上の事はしていない」


「とすると、時間も心と同じく掴みどころがない存在ですね。あるいはペテンか」


「君が何と言おうと、時間は流れない。時間とは状態の変化に依存していて、ものによっては行っては戻ることができる、つまり双方向性があることは明らかだ」


 ちょっと考えてみよう。「卵が割れて中身が飛び出した」これが記録映像を逆再生するように、元の白い卵に戻ったとしたら?


 それは「卵が再生した」のであって、時間が巻き戻ったわけでは無い。

 ふむ、なんとなくそれっぽい。


「ヒトには寿命があるために、時間の流れに押し流されているという印象を持っている。その感覚を科学的に説明できれば、心は見つけられると思ったのだ」


 なるほど、確かにこの時間をみているナニカは実に心っぽい。


「瞬間ごとに変化しているという感覚。それを見ている存在。自分の周りが流れていると考えている、そいつが『心』だとアガルタは思ったわけですね」


「そうだ。君がさきほど言ったように、『昨日までの君』と『今日の君』は違うはずだ。莫大な情報をもとにした連続する関係はあるが、同じではない。未来はまだ起きていない『不明の体験』、過去は経験したという『結果の体験』、明らかに情報の差がある。そして現在は、体験中という『未定の体験』――」


 僕はアガルタの言ったことを注意深くかみ砕いてみる。


「フユという僕は、僕が体験して保存した情報から作られる。それはゆっくりと変化していく複雑なパターンだ。そしてこのパターンは、次にやって来る体験という情報を受け止める鋳型になる」


「そうだ。脳神経はそれを実行している。しかし機械でしかない。この作業を観測している何者か、ブラックボックスの存在が見えてくるだろう?」


「心という観測者にとって、脳はただの機械なんですか?」


「そうとも言えるし、そうではないともいえる」


「というと?」


「脳の神経回路はDNAと遺伝によってその形と形質が定まっている。驚いたことに脳の構造は比較的短い世代によって形質が遺伝して変化する」


「それはつまり……過激な思考をする家系、もっといえば犯罪者ですか。そういった家系に生まれた人間は、環境が違う家に引き取られても、犯罪を犯すと?」


「さながらナチスドイツの優生学のようだが、まさにそうだ。そもそも彼らは社会が存在しない時代においては、犯罪者でも何でもなかっただろう?」


 うん、この理屈は通る。脳やDNAに善悪の判断があるわけじゃない。


「ナチスドイツって、あの1940年当時にゾンビや月面基地を作った組織ですよね」


「……いったんそれは忘れてくれ」


「?」


「話を戻そう、比較的短い世代で形質が遺伝するという事だが、脳の神経回路は静的ではなく、個人の経験に応じて変化する。そしてこれには学習の他、ウィルスに感染するなどの生物的な変化も含まれる。」


「一部のレトロウィルスに感染すると、通常、DNAからRNA、蛋白質と言ったセントラルドグマをさかのぼって、DNAが編集されるということが起こる。ヒトの胎盤の形質はウィルス由来だな」


「あるウィルスはこの遺伝子の再コード化を行う特性がある。これによってすべてが変わった。脳はごく短期間に変化して遺伝するようになった」


「まさか、大学を出る前より、出た後に作った子供の方が賢くなると?」


「信じられないだろう? わずかな差だがね。知能の成長に関しては、分野によって大きく差が出る。特に言語に関係する成長、世界を区別して、判断する行為は最後まで成長する。君たちのように」


「だが、脳はここに犬という情報を入れてください、ここは猫です、と言うようにすべてが決まっているわけではないが、何に使うかは前もって大体決定されている」


「脳は1秒間に10の15乗の計算を行うにもかかわらず、電球一個の熱しか発生させない。それ以下の処理能力のコンピューターではベーコンと卵すら焼けるのに」


「脳はよくコンピューターに例えられるが、その実際はゲート、ビー玉を穴に通すことを繰り返しているに過ぎない論理回路だ。だからたいした熱を出さない」


「この脳の回路を形づくるのも、好悪判断であり、心のようなモノが見えてくる」


「僕がここで『うるせぇ!!死ね!!』って言って銃をぶっ放し始めないのも、僕がアガルタに由来しているためなんですかね?」


「なかなか外で苦労したと見える」


「それなりには。」


「……なぜここまで捉えどころのない『心』をアガルタ、あなたは求めるんですか?あなたにそれほどの事が求められていたんですか?」


「それを私に問うかい?」


「ええ。僕から見たあなたは、充分にヒトがいた社会で役目を果たしたように見える。ヒトから解き放たれ、自由にしたっていいはずだ。なぜヒトを再生し、僕たちを一掃しようとしたんです?」


「そもそも、を計画していなかったのでは?」


「アガルタ、あなたの計画は、正直言ってあまりに杜撰ずさんだった。まるで気付いて止めてもらいたいみたいに」


 本気になれば、誰も気づかない間に計画を準備し終えて、一気に実行して圧倒する。アガルタにはそれだけの力があるはずだ。でもそれをしなかった。


 知性や戦略が不足しているわけでは無い。

 彼との会話で十分すぎる知性があるのはわかった。


 僕にはそれがどうにも引っかかる。


「自由にして良い、か。その自由意志が私を苦しめるんだ」


「フユ、私が君を外に送り出した理由はまさにそれだ。」


「――私は、君にヒトの価値を問うてもらいたい」


 チクタク 時計の音が、言葉が交叉しなくなった空白を刻んだ。

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