⑤
最後に面と向かって
ごめんなさい──と一言だけ口にして家を出て行くその後ろ姿を僕は止めなかった。僕の見えないところで何が起きていたのかはわからないが、それから一時間ほどが経った後、家に帰り着いた彼女から送られてきた『別れよう』という連絡に、僕は迷わず『わかった』と返信していた。
その返信の躊躇わなさに彼女がどう思っていたのかは知る由もない。でも、僕はほんの少しだけ、彼女がフったことを後悔してくれればいいと思った。
連絡先はすぐに消した。未練なんて微塵も残るわけがないと思っていた。
それでも別れを告げられたその日は結局一睡もできず、金曜日の朝に目を腫らしたまま登校した僕は、いつもと変わりない──むしろ普段よりも幾分か血色が良くなっているように見えた──乃亜の姿を目にすると、たちまち屈辱感に襲われ、制服の下で身体が小刻みに震えた。
今でもまだそのショックは完全に癒えたわけではない。にもかかわらず、そこに追い打ちをかけるように今度はヴァンパウイルス感染症という聞き馴染みのない病気が悩みの種を蒔いたのだ。神様は僕に一息つく暇さえも与えてくれなかった。
「──大会が始まるのって来月からだっけ?」
僕は汀姉の唐突な質問で我に返った。「えっ? ああ、うん」
「じゃあ、そろそろ新しいスパイク買ってあげなきゃねっ」
「わざわざ買わなくてもいいよ。まだ使えるんだし」と僕は言った。
「えーっ、でもせっかく秋哉の晴れ舞台なんだもん。私も力になりたいよ」
汀姉はそう言ってテレビに目を移すと、「ほらほらっ、あれとかいいんじゃない?」と声を弾ませながら画面に映る青の10番が履いているアディダスの赤いスパイクを指差した。
いつの間にか日本代表対セネガル代表の試合は、スコアレスのまま後半20分を迎えていた。ピッチ内では一進一退の攻防が続き、後半に入ってからも画面越しに得点の匂いが漂ってくることはほとんどなかった。
そうするとやはり、前半に訪れたあのビッグチャンスを逃すべきではなかったな──という青の10番に対する失望感は時間が経つにつれて強まっている気がした。さっきからボールがタッチラインを割るたび、青の10番が相手キーパーに阻まれた前半のハイライトが何度も画面に映し出されていたのがその証拠だろう。
「いいよいいよ。あれ新作だから高いし」
僕は汀姉が指差したスパイクの価格がゆうに三万円を超えていることを知っていた。しかもそれは天然芝のグラウンドにしか対応していない。ほとんどの試合で土か人工芝のグラウンドしか使わない高校生
「せっかくバイト頑張ったのにー」と汀姉は何故か不貞腐れたように頬を膨らませる。「別に遠慮しなくたっていいのよ? 秋哉が大学卒業するまでのお金は十分にあるんだから」
「そうは言っても無駄遣いしないに越したことはないでしょ」
僕はそう言って小松菜のナムルを口に運ぶ。咀嚼するたびにシャキシャキという食感が耳の裏で聞こえ、ゴマの風味が口の中に広がった。
「まあ、それはそうなんだけどさー」
納得いっていない様子の汀姉は、まだ何かを訴えかけているように上目遣いでこちらを見つめていた。僕はその視線を気にも留めず、その後も日本代表戦を観ながら食事を進める。
汀姉は普段から自分のことにはほとんどお金をかけず、僕にばかりお金を落としていた。服装は決まってセカストやフリマアプリで購入したという安物ばかり。化粧品やメイク道具もそのほとんどは百均で揃えていた。大学だって本当は美大に通いたかったに違いない。小さい頃から絵が上手だった汀姉は中高合わせて六年間美術部に在籍し、幾つかの優秀な賞も貰っていたはずだった。
それなのに、両親が交通事故で亡くなって以降、汀姉は何事においても僕のことばかりを優先させてきた。
生活費や学費は両親の残してくれた保険金でやりくりしていると教えてくれたことがあったが、それ以外にかかるスパイクや遠征費などの費用は全て汀姉の給料で補填していた。今は幾つかのアルバイトを掛け持ちで働いているらしい。その甲斐あってか、僕はこれまで何一つとして不自由したことはない。それよりむしろ、僕は周りと比べても十分贅沢させてもらっていた。
だからこそ、ふとした時に罪悪感が込み上げてくる。
汀姉はずっと無理して働いていたんじゃないだろうか──
ただ、そんなことを心配したところで汀姉は適当なことを言ってはぐらかすに違いない。僕の前では決して弱音を吐くことも愚痴を言うこともなかった。それでも、たまには弱いところを見せて欲しかった。
やがてテレビの方からワァーッと歓声が上がる。
日本代表の選手が久しぶりにシュートを放った。が、そのボールはあえなくクロスバーの上を超えていった。時間は後半35分を回ったところだった。
試合はもう佳境を迎えている。代表戦とはいえ親善試合だから延長戦はない。このままスコアが動かずに引き分けで終わるか、劇的なラストが待っているのかは最後までわからなかった。僕たちはただその結末を画面越しに見守ることしかできない。
だが、試合の勝敗なんて今は正直どっちでもよかった。
未だに病気のことを打ち明けるタイミングを逸してしまった後悔に囚われながらも、ハーフタイム中にふとある妙案を思い付いていた僕は、今か今かとその機会を見計らい、喉元にその質問を待機させていた。
それはこれまでずっと踏み入れない方がいいと自分の好奇心に蓋をして、汀姉には聞けずにいたことでもあった。ただ、それを今更ぶつけてしまってもいいものかと僕はこの期に及んで迷ってしまう。これを機に姉弟関係に
「ねえ、汀姉」と僕は呼ぶ。
テレビを眺めていた汀姉は「んっ?」と眉を引き上げてこちらに振り向いた。
「……ちょっと聞いてもいい?」
「どしたのっ?」
汀姉は何も疑うことのない様子でその顔に屈託のない笑みを貼り付ける。「あーっ、わかった。もしかして、さっき言ってたあの赤いスパイクが欲しくなっちゃったんでしょう?」
「いや、そういうんじゃなくてさ……」
そう言って僕がかぶりを振ると、汀姉は眉をひそめた。
「じゃあどうしたのよ、そんなに改まって」
やがて汀姉は怪訝そうな表情で僕を見た。
「ああ、いや、その──」と僕はそこで一旦言葉を区切り、つい目を伏せてしまう。死の宣告をするよりはまだ気が楽だったが、それとはまた違った緊張感を僕はひしひしと感じていた。
「汀姉はさ、ずっと前からキャバクラで働いてるんだよね?」
恐る恐る顔を上げてみると、汀姉の目は点になっていた。やがてぽかんと開いていた口で「えっ?」と声を漏らした汀姉は、「なんで知ってるの?」とでも言いたげな表情でこちらを見つめていた。
僕は訥々と事の経緯を説明し始める。
「実は、うちの高校に汀姉が働いてるお店に通ってた教師がいたんだよ。ほら、うちは元々両親がいないから、親代わりの汀姉は結構先生たちの間でも顔割れしてたみたいなんだよ」
途端に汀姉の視線があちこちに泳ぎ始める。
僕は汀姉に構わず話を前に進めた。「でさ、キャバクラについてネットで色々と調べてみたんだ。行ったことがないからどういう場所なのかわかんなくて」
汀姉はわかりやすく顔を強張らせていた。こんな顔は今までに一度も見たことがない。その動揺は手に取るように伝わってきた。
僕は短く息を吐いて呼吸を整える。
それから少し間を空けたのちにようやく僕は意を決して言葉を紡ぐ。
「……汀姉もアフターってしてるの?」
たちまち目を見開いた汀姉はハッと息を呑み、やがて何も答えずに目を伏せた。
「責めてるつもりはないんだ。汀姉がいつも頑張ってくれているおかげで、こうして何不自由ない生活が送れていることもわかってるから。汀姉には本当に心の底から感謝してるんだ。本当だよ? サッカーを続けられてるのだって汀姉のおかげなんだから」
僕は語弊のないようにゆっくりと丁寧に言葉を選んだ。「ただ教えて欲しいだけなんだ。汀姉もお客さんたちにアフターを頼まれることはあるのかを」
汀姉は目を伏せたまま何も言わない。
僕はその答えを急がずにテレビの音に耳を傾ける。
サッカー解説者が三分のロスタイムが残っていることを教えてくれた。どうやら、どちらもまだ無得点のままらしい。やがて日本代表が選手交代を行ったらしく、ピピッと高鳴る笛の音が聞こえると、すかさず男性アナウンサーによる選手紹介が始まった。「アビランツ福岡に在籍している万波選手は今季のリーグ戦で既に7得点をマークしている選手で──」
僕はテーブルの上に残っていたアサリと白身魚のアクアパッツァとひじきのマヨネーズサラダをただ黙々と食べ始め、その後も汀姉が口を開くのをじっと待ち続けた。焦ってはいけない、と何度も自分に言い聞かせ、はやる気持ちを押さえつける。
すると、汀姉はようやく決心したようにテーブルの上に短く息を漏らすと、程なくして顔を上げ、潤んだ瞳でこちらを見つめたまま「ごめんね」と震える声を口にした。
思わず鼻の先がツンと痛む。
「……秋哉、ショックだったでしょ?」
汀姉は顎の先に溜まっていた涙を手で拭った。
「そういうお店で働いてるお姉ちゃんのこと、軽蔑したでしょ?」と汀姉は今にも消え入りそうな細い声で続けた。「……ほんとにごめんね。さっき秋哉が言った通り、私は贔屓にしてくれるお客さんの何人かと業務時間の後に会ったことがある。それが秋哉の言うアフターってやつ。そこでは普通にデートしたりとか、ご飯を食べに行ったりとか……まあ、色々するの」
汀姉は最後の最後に言葉を濁した。
それを構わず問い詰めようとする僕に、彼女は目を瞠った。
「色々って何? キスとか、身体の関係を結ぶことはあるの?」
僕だって汀姉がそういう淫らな行為を見知らぬおじさんたちと交わしているとは考えたくもなかったが、それは確実にはっきりさせておく必要があった。
その時にふと、数時間前に診察室の中で僕自身が口にしていた言葉が頭によぎる。
──ヴァンパウイルス感染患者は他の誰かとキスや性行為に及ばないと病気を完治させることはできない。
その答えは薄々勘付いていながらも、やがて小さく肯いた汀姉の姿を見て僕は密かに安堵感に浸っていた。
「……ほんとにごめんなさい。もう絶対そんなことはしないから。約束する」
目の前で泣きじゃくる汀姉に僕は慌ててかぶりを振った。
「ち、違うんだよ。だから汀姉のことを責めてるわけじゃないんだって」
「……でっ、でもっ、わ、私のこと軽蔑したのは事実っ、でしょ?」
呼吸が乱れ、胸が大きく上下している。大粒の涙に覆われていたその目は真っ赤に充血していた。
「軽蔑なんてしてないっ。汀姉には感謝しかないに決まってるじゃんか!」
そう説得を試みるも、汀姉はなおも大きくかぶりを振りながら「そんなことないもんっ。秋哉は優しいからそう言ってくれるけど、私は最低だもんっ。お姉ちゃん失格だよっ!」と応戦してくる。
おそらく汀姉は僕に対する後ろめたさで頭が一杯になっているのだろう。「お願いだから汀姉は今まで通り働いて欲しいんだっ!」と口にした僕の声も、濁流のように身体から溢れ出していた彼女のその喚き声を前にかき消されていた。
──ヴァンパウイルス感染症を完治させるためには、自分以外の誰かにヴァンパウイルスを感染させる方法しかありません。
病院で髭面の医師はそう言っていた。
汀姉が以前から行っていたというアフターは良くも悪くもヴァンパウイルスの感染経路になっていた。それをこの状況下で利用しない手はない。
今更、感染源になった人間にとやかく言うつもりはなかった。殺しても殺したりないくらいの殺意が芽生えていないわけではなかったが、今はとにかく時間だけが惜しい。残り三日間のうちにどうにかヴァンパウイルスをなすりつけなくてはならないのだ。他のことに油を売っている暇なんてなかった。
そして喉から手が出るほど欲していたその解決の糸口は、すぐ手の届きそうなところまで近づいていた。
「ゴォォォーーーーール!」
それはまるで図ったようなタイミングで歓喜の声が部屋中に響いた。
どうやら日本代表にも待望のゴールが生まれたらしい。
得点者と思われるその選手は両手を広げながらそのままゴール裏の応援席まで駆け走り、まるで「見たかっ!」と言わんばかりの大きなガッツポーズを大観衆の前に掲げている。カメラマンたちはこぞってその選手を追いかけ、勇敢なその後ろ姿を画角の真ん中に収めていた。
画面越しにその背中を目の当たりにした僕は思わず目を瞠る。
やがて男性アナウンサーが得点者の名前を読み上げると、確かにそう聞こえた。
未だに泣き止まない汀姉の隣で僕は人知れず、背番号の上に刻まれているその『BANPA』という文字に目を奪われていた。
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