──五月九日、木曜日。

 雲ひとつない澄み渡る空の下、どこまでも広がっていくチャイムの鐘の音は、校庭で走り高跳びをしていた僕らに四時間目の授業が終わったことを知らせた。

 体育の後にすぐ昼休みが訪れる今日のような時間割は、いつも少しだけ損した気分になる。それは、教室に戻って制服に着替える時間が昼休みの時間に合算されてしまうからだ。校庭から校舎の三階にある教室まで移動するだけでまず二分はかかる。そして着替えるのに早くても一分。つまり、昼休みに入るだけでも計三分のロスタイムが発生しているということになるのだ。

 とはいえ、ほとんどの生徒にとってはたかが三分と思うかもしれない。

 しかし、僕にとってはされど三分だったのだ。

 というのも、青藍高校サッカー部員の一日は毎朝六時から行われる朝練から始まる。一時間の全体練習と三十分間の筋トレ時間が設けられ、それらは健康的な朝活のように軽く汗を流す程度では終わらず、まだ他の生徒が登校していないうちから、おそらくは一般生徒が一日に発汗しているであろう量よりも多くの汗を全身にまとっていた。昼休みの時間帯ともなると身体の気怠さに眠気が重なり、騒ぐ気力なんてまるで湧いてこなかった。

 それなのに、時間割のせいでそう易々と昼休みを削られていては、身体を休ませる必要のない他クラスの生徒たちに比べて不公平だと感じてしまう。

 僕はこの誰かに言うほどでもない小さな不満を胸に、この日も駆け足で三階の教室へ向かって急いで制服に着替えた。そして僕は周りのクラスメイトたちが着替え終わらないうちに、今度は財布を持って一階の売店へ向かった。

 校内一の人気を誇る牛すじカレーパンはあっという間に売り切れてしまう。昼食用に持ってきていた弁当は、既に二時間目直後の休み時間に早弁していた。

 予想通り、この日も売店の前には見慣れたカレーパン行列ができており、僕はその列の最後尾に並んだ。見た限りではざっと二十人ほど並んでいたのではないだろうか。だが、この感じだと、牛すじカレーパンが売り切れていることはたぶんない。その瞬間が近づいてきた頃にふと後ろを振り向いてみると、いつの間にか後続の尻尾はかなりの長さになっていた。

「牛すじカレーパンをふたつ下さい」

 顔の前にピースサインを作ってそう言うと、ペイズリー柄のバンダナを頭に巻いた売店のおばさんは「はーい、三百円ね」とこちらに手を差し出した。僕は財布の中から五百円玉を一枚取り出して、おばさんの手のひらに載せる。やがて、お釣りの二百円と一緒に茶色い包み紙に挟まれた牛すじカレーパンが二つ手渡された。

 茶色い包み紙はカレーパンから漏れ出した油分を吸い取り、ところどころに黒っぽいシミを作っている。僕はその部分を持たないよう包み紙の隅の方を指で摘み、また教室へ戻ろうと売店を離れて階段に足をかけた。

 すると、ちょうど階段を降りてきた同じクラスの女子生徒とすれ違い、僕は彼女に呼び止められた。

「あっ、秋哉くん」

 顔を上げると、彼女は僕の手元を指差していた。

「そのカレーパン一個ちょうだいよっ」

「嫌だわ。ってか、まだ今から並べば買えるんじゃね?」

「冗談だよっ。私、飲み物買いに来ただけだから」

 まるでどこかのOLのように赤い長財布を小脇に抱えていた彼女は苦笑いを浮かべ、「じゃまたっ」とこちらに手を挙げて僕の真横を通り抜けていく。

「あのさっ」と今度は僕が彼女を呼び止めた。「乃亜のあってさっきの体育参加してた?」

 こちらを見上げた彼女は「ううん」とかぶりを振る。「またいつもみたいに保健室で寝てるんじゃない?」

「そっかそっか。おけおけっ。ありがと」

「ほいほーいっ」

 そう言ってこちらに背を向けた彼女が売店へ消えていく姿を見送った後、僕は踵を返して階段を降り、渡り廊下を伝って教室棟とは別棟に位置している一階の保健室へと向かった。


「すみませーん」

 僕はノックをして入口の引き戸に手をかける。

 すると、引き戸が開いた途端に保健室の中で閉じ込められていた空気が一気に廊下の方へと飛び出していく。それはまるで僕のことを追い払うかのように、僕の顔に冷たい風が吹きつけた。

 どうやら保健室の先生はどこかへ出掛けていたらしい。がらんとした静かな室内で僕が何度か先生の名前を呼んでいると、むき出しになったベッドが二つ並んでいた隣で、一つだけ淡いピンク色のカーテンで空間が間仕切られていた向こう側から「ご飯買いに行くって言ってた」という声が聞こえてきた。その声の主が沖田乃亜おきたのあであることはすぐにわかった。

「失礼しまーす」

 僕は恐る恐る室内に足を踏み入れ、保健室の中を一通り物色する。

 薬品や資料のような冊子がずらりと並べられているガラス戸の壁付け収納棚に、アルミ製の机と背もたれ付きの回転椅子が一つずつ。それと、何脚か重ねられていた丸椅子は入ってすぐ右手の壁際に寄せられた。その他にも、窓際には他の教室と同じように腰高で二段になった木製ロッカーが備え付けられており、その上には黒い電気ケトルと観葉植物が背の高い順に並べられていた。

 空調も効いていたおかげか、体育で上昇していた体温はみるみるうちに下がっていく。一度足を踏み入れたが最後、放課後までこの部屋に居座りたくなってしまうという彼女の気持ちも少しは理解できた。

「パン買ってきたけど、食べる?」

 僕は先生の机に目を落としながらそう言った。その視線の先には『少しの間、教室を空けております。急用のある方はご連絡をお願いいたします。TEL:090──』と記されているメモ用紙があった。

 やがて、閉め切られていたカーテンの向こう側から返答が聞こえてくる。

「……いらない」

「昼飯くらいちゃんと食べといた方がいいと思うぞ?」

「だってお腹空いてないんだもん」

 僕は先生の机を離れてベッドに近づき、間仕切っていたカーテンを開ける。未だに体操着姿の乃亜はベッドの上でうつ伏せになり、枕の上に肘をついてスマホを触っていた。きっと彼女はカーテンレールが擦れた音でこちらに気付いたのだろう。つい今さっきまで触っていたスマホを慌てた様子でポケットに仕舞い、その場に上体を起こして座った。

「おいおい、授業休んでまで堂々と浮気してんなよ」

 僕は彼女の隣に腰を下ろし、笑いながら冗談を口にした。

 すると、それが彼女の琴線に触れたのか、「はあ? まじ最悪。ふざけんなしっ」とこちらを睨みつけ、「大体、人のスマホを勝手に覗き込むとか人としてどうかと思うよ」と吐き捨てた。

「ごめんごめん」と僕は謝る。「ところで、また今日も仮病使ったの?」

「うっさい。秋哉には関係ないじゃんっ」

 普段から授業をサボりがちな彼女が図書室や保健室へ駆け込むのは日常茶飯事だった。特に体育の授業がある日はいつも「熱射病っぽい」と嘘をつくらしい。それに加えて「生まれながらの体質なんです」と言えば、先生たちも下手に口出ししてこないらしい。以前、彼女はそれを自慢げに話してくれたことがあった。

「とりあえずこれ。乃亜にいつも頼まれるやつ」

 そう言って僕は彼女に頼まれる前にあらかじめ買っておいたカレーパンをひとつ、彼女に渡した。すると、「お腹空いてない時に持ってこられてもただの迷惑なんですけどっ」と彼女は嫌味を口にしながら、そのカレーパンを僕の手から乱暴に剥ぎ取るように奪った。もちろん彼女が代金の百五十円を払うはずもなかった。

 どうして僕はこんな女を好きになってしまったんだろう──と、たまに心の底から疑問に思う時がある。でも、クラスの誰とも群れず、内気で本ばかり読んでいた彼女のことを先に好きになってしまったのは正真正銘、僕であり、わざわざ彼女を放課後に呼び出して告白したのも僕の方だった。それらは誰かに指図されていたわけじゃなく、全部自分の意思で決めたことだ。

 とはいえ、未だに彼女と付き合い続けなければいけない理由なんてものはない。自分から「付き合ってください」と申し込んだのだから「やっぱり別れてください」と言う権利はない、なんていう筋の通った誠実さが僕にあるわけでもなかったし、見た目も正直、彼女よりも可愛い人はクラスにいくらでもいた。

 確かに胸に関しては言えば、他の同級生たちよりも大きい方だったが、そもそも僕はどちらかといえばおっぱいよりもお尻派だった。

 それに加え、彼女は感情の起伏が激しく、いつどこで琴線に触れてしまうかわからない危険性もあった。僕がクラスの女子と会話していただけでも「浮気だ」とやっかみ、それに何かを言い返してしまえば「じゃあもう私のこと一人にすればいいじゃんっ」「自殺してやるからっ」と軽々しく口にし、最終的にはいつも「嫌いにならないで」「私のことを一人にしないで」と泣き出してしまう。

 沖田乃亜はとにかく面倒くさい女だったのだ。

 それでも、僕は彼女に別れを告げられなかった。

 泣きじゃくる彼女を目の前にすると、僕は毎回とてつもなく大きな罪悪感に苛まれ、誰かをここまで泣かせてしまう僕はなんて人として最低な奴なんだ、と自己嫌悪に陥ってしまった。そして何故か、僕の目には泣いている彼女の姿がいつも汀姉と重なって見えてしまう。

 それは別に、汀姉が泣いている姿と目の前で泣いている乃亜の姿が似ているわけではない。むしろ、汀姉は彼女と違って僕に一切の泣き顔を見せたことがなかった。

 しかし、もしも汀姉がこんな風に泣き出してしまったら──と想像してしまうだけで、僕は胸をこれ以上ないくらいに強く締め付けられてしまうのだ。そして、おそらくそれは乃亜に限ったことじゃない。たぶん他の誰が泣いていたとしても、それを目の当たりにしてしまえば僕は汀姉の泣き顔を想像してしまうに違いなかった。

 だから結局、僕はいつも泣きじゃくっている乃亜に向かって「ごめんね」と謝ってしまう──

「そういえば、今日って家にお姉さんいる?」

 乃亜は唐突に声のトーンを変えてそんなことを言い出した。それにすかさず「どうして?」と僕は返す。隣で彼女はあれほどいらないと口にしていたカレーパンを平然とした顔でかじっていた。

 そのせいか、いつの間にか保健室の中は牛すじカレーパンの匂いが充満していた。たった今保健室の先生が戻ってきてしまえば、おそらく僕らはこっぴどく怒られてしまうだろう。なにせ、この教室内は食事禁止になっていたのだから。

 ただ、そんなことを彼女が気にするはずもなかった。

「今日、秋哉の家に遊び行こうと思って」

 彼女の口についていたカレーパンの衣がベッドに落ちる。

「え、でも、今日は普通に部活あるんだけど」

 僕はベッドに落ちたその衣を指で摘み、仕方なくそれを口に入れる。

「そんなの私だって知ってるよ。でもいいでしょ?」と甘えた声で言った彼女はこちらに身を寄せてくる。「普段は秋哉が部活が忙しいって言うからあんまし遊べてないけど、私もけっこう我慢してるんだからね?」

 彼女の大きな胸が僕の腕に押し付けられる。それは弾力があって柔らかかったが、だからといって別に興奮するほどでもなかった。

 僕もわざわざ野暮なことは聞かない。その代わりに「別にいいけど、夜の三時くらいには姉ちゃん帰ってくるから」と言った。

 すると今度は乃亜がわざわざ僕の耳元に顔を近づけ、ひそひそ声で「じゃあ、それまでに色々と終わらせておかないとねっ」と言う。

 その時、不意に体操服のよれた首元から彼女の深い谷間が視界に入ると、さすがの僕でもほんのわずかに反応してしまっていた。情けない。お尻派の僕が聞いて呆れる。

 やがて、僕は悶々としたその気持ちをなんとか落ち着かせようとカレーパンを口に運ぶが、今更になって肩に押し付けられている彼女の胸の感触がこれみよがしに大脳を刺激し、僕の下半身はみるみるうちに熱を帯びてしまう。

「……この続きは家に帰ってからしようねっ」

 耳元に吹きかかる彼女のその生温かい吐息に、僕はやむを得ず、それはまるで犬のように従順に肯いてしまっていた。


 ──その日の夜、日付が変わった頃に乃亜が突然別れを切り出してくるなんて、この時の僕はまだ想像だにしていなかった。

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