私立青藍せいらん高校からほど近い場所に借りていた二階建てアパートの『106号室』の玄関ドアを開けると、入ってすぐ右手にある収納棚に載せていたセンサー式の消臭スプレーがプシュッと作動し、フローラルの香りが宙を舞った。

 スーパーで購入した惣菜が入っているビニール袋を手に提げていた僕は、玄関で乱雑に靴を脱ぎ、電気も点けずに暗闇の廊下の中を進んだ。

 やがて廊下の電気が点くと、暗い場所に目が慣れてしまっていたせいか、一瞬だけ視界全体を真っ白いもやに覆われ、何も見えなくなってしまう。「ただいまぁ」と独り言のように呟く声が後ろから聞こえ、振り返ると、壁に身を寄せながら片足ずつ靴を脱いでいる汀姉の輪郭が徐々に現れ始めた。

「先にお風呂にする?」

 僕が目を擦りながらそう言うと、汀姉は顔を上げ、ニカッと笑って「久しぶりに一緒に入ろっか」と冗談を口にした。

 大学三年生になった今でも幼稚でくだらないことを弟の前で平気で言えるのだから、やっぱり汀姉は少し変わってる。周りの同級生たちを見渡しても、男女兄弟の場合、思春期を迎えたあたりからは徐々に兄弟間の溝が深まっていくのが一般的と言えた。それなのに、積極的に距離を詰めてくる汀姉のせいで、僕ら姉弟の距離感はむしろ年々縮まりつつある感覚があった。

「疲れてるだろうから先に入ってきていいよ」と僕は言い残し、廊下突き当たりのLDKに向かった。

「えーっ、一緒に入ろーよー」

 まだ言ってやがる。

「嫌に決まってるだろ」

「えーっ、ケチー」

 後ろから服の裾を引っ張ってくる汀姉を無視し、僕は正面の扉を開けた。

 LDKの電気を点けると、必要最低限の家具家電しか備わっていない十二畳のその空間が一瞬のうちに露わになった。

 親戚から譲り受けた白い冷蔵庫、オーブン機能が故障している黒いオーブンレンジ、実家でも使っていた木製の食器棚、パステルカラーの椅子が四脚並んでいる丸いダイニングテーブル、引っ越したばかりの頃にセカストで安く手に入れた緑色のL字型ソファー、録画機能が付いていない32インチの薄型テレビ──そこにはまるで統一感という概念は存在しなかった。

 汀姉はというと、一向に冗談を無視し続ける僕とのやりとりに飽きたのか、やがて手に掴んでいた裾を離し、今度はソファーに寝転がってテレビを観始めていた。

「先にご飯にする?」

 僕はペニンシュラ型のキッチンに立ち、惣菜の入ったビニール袋を作業台の上に置いた。それから程なくして汀姉がこくりと肯いたことを確認すると、僕はビニールの中の惣菜を皿に取り分け、それらを順番にオーブンの中で温め始めた。その間に手洗いうがいを済ませ、シンクに溜まっていた使用済みの食器を洗い流す。

 どうやら今日はサッカーの日本代表戦が行われていたらしい。僕はすっかりそのことを忘れていた。リビングの方から元日本代表のディフェンダーをしていたというサッカー解説者と男性アナウンサーのやりとりが微かに漏れてくると、僕は慌てて水栓用のレバーハンドルを持ち上げ、勢い良くシンクを叩いていた水道水を止めた。

「相手どこ?」

「セネガルだって。強いの?」

 汀姉はそう言って顔だけをこちらに向ける。

「日本よりは強かった気がするけど。今まだゼロゼロ?」

「うん。まだ始まったばかりみたいよ」

 僕は再び水栓用のレバーハンドルを下げ、残りの食器を急いで洗い流した。

 ふと、そういえば今朝炊いていた残りがまだあったような──と思い出して炊飯ジャーの蓋を開けてみると、いたるところに水滴が張り付いていた釜の中には一合分ほどの白米が残っていた。

 惣菜を温め終わったのちに、僕はジャーに残っていた白米を全部茶碗によそって一分半温め、湯気の立ち上るそれらを全て丸いダイニングテーブルの上に並べた。レバニラ炒め、アサリと白身魚のアクアパッツァ、小松菜のナムル、ひじきのマヨネーズサラダ──それらまるで、この部屋みたいに統一感がないように見えて、実はどれも鉄分豊富なラインナップだった。

 きっと汀姉もそれだけの情報で、ついさっき病院で診断されたばかりの病気について勘付いたりはしないだろうが、それでも席についた彼女が不敵に笑いながら「なんか健康的すぎない?」と口にした時には、さすがに僕も顔を引き攣らせてしまった。

 病気のことはまだ汀姉には一切教えていない。

 タイムリミットが刻一刻と迫っていることはわかっているが、それが死に至る病であるというその事実が、それを打ち明けようとする勇気を少しずつ僕の中から奪っていく。少しでも頭の中に絶望した姉の表情を思い浮かべてしまうと、どうしても僕は怖気付いてしまった。

 帰り際、担当してくれた髭面の男性医師は「とりあえず四日後の金曜日にまた来てもらいますので」と言った。その時点でまだ陽性の結果が出てしまえば、それ以降は支持療法で残りわずかな余生を過ごしていくことになるのだという。つまり、残されていたはあと丸三日間。今週の木曜日までに誰でもいいからヴァンパウイルスをなすりつける必要があった。

 一分一秒でも無駄にはできるはずがない。今すぐにでも汀姉に病気のことを告げた方がいいに決まっていた。

 僕はありったけの勇気を振り絞る。

「あっ、あのさっ」

 緊張のあまり、つい声が裏返ってしまった。

「なになに?」

 何も知らない汀姉は箸の先っぽを咥えながら緊張感のない笑みを浮かべ、じっとこちらを見つめていた。

「ヴァっ」と僕は息継ぎをするように思い切り口を開けた。

 その勢いのまま一息にヴァンパウイルス感染症と言い切ってしまえればよかったのだが、その勢いはわかりやすく尻すぼみになっていき、僕はついに開いていた口を結んでしまった。

 汀姉は小首を傾げる。「……ば?」

 彼女は絶望なんて似合わないその澄んだ瞳を僕に向けた。

 すると、今度は喉元まで差し掛かっていたはずの言葉が立ち往生したように、なかなか舌の上を滑り落ちていかなくなってしまう。人知れず焦りと動揺にまみれていた僕をよそに、沈黙の時間は無情にも流れていった。

 テレビの方から聞こえてくるサッカー解説者のどうでもいいウンチク話がやけに耳障りで、みるみるうちにしかめ面になっていく汀姉の顔にまた躊躇してしまう。

 早く言え。早く言え。早く言え。早く言え──

 心の中で幾度となく唱えていたその言葉がようやく僕に口を開かせようとしていたが、その直前で決死の勢いでせり上がってくる遣り切れなさに、用意していた言葉は全て飲み込まれてしまう。

「──ああ、いやっ。そういえば今度の誕生日プレゼント、何が欲しいのかなって」と、結局は全く関係のない話題に変えてしまった。

 育ててくれた汀姉を目の前にして、死の宣告なんてできるわけがなかった。

 僕は自分の弱さを呪った。

「誕生日プレゼント?」

 汀姉はしかめ面を解いてかぶりを振った。「いいわよそんなの。お金だって勿体ないでしょう?」

「別に勿体ないなんてことはないんだけど……」

「いいのいいの。私は秋哉が祝ってくれるだけで嬉しいんだから」

「で、でもさっ、いつもは汀姉に与えられてばっかだし……」と口にしながら僕は思わず顔を伏せてしまう。

 僕は何を呑気に誕生日の話をしているんだろうか。確かに汀姉の誕生日は運悪くも三日後の木曜日──つまりはタイムリミットの期限当日──だったのだが、プレゼントなんて今はどうでもいい話題のはずだった。

 それなのに僕は先ほどのように沈黙が流れてしまうことを恐れ、なおもそのどうでもいい話を続けてしまう。「──たまにはお礼させて欲しいんだよ」

 すると、何か良いことでも思いついたように目を見開いた汀姉は「じゃあさっ」と声を弾ませて「秋哉の愛情をたっぷり私にちょうだいよっ」と言った。

「……ああ、う、うん。別にいいけど」

 僕はその後の言葉が続けられず、またもや沈黙の時間がやってくる。それはまるで和やかな空気が全てリセットされたように、二人してただ黙々と鉄分を多く含んでいる食事に箸を伸ばし続けていた。

 病気のことを打ち明けるには絶好の機会だった。

 しかし、そんな矢先に汀姉は唐突に声を張り上げた。

「あっ、チャンス!」

 小松菜のナムルに箸を伸ばしかけていた汀姉は空中でその手を止めている。僕は彼女の向く方に視線を移し、テレビ画面に映る青いユニフォームの選手たちの姿を目で追った。

「いけいけーっ!」

 汀姉は頭上に掲げた握りこぶしを何度も前に突き出している。僕は彼女のそんな姿を横目に、いつもそんな風に応援してくれてたのかな──と勝手に想像していた。

 やがて解説者の声にも熱が入る。

 ペナルティーエリアの中でボールを受けた青の10番は、キックフェイントで目の前のディフェンダーを華麗にかわし、左足でシュートモーションに入る。すると、すかさず前に飛び出してきた相手キーパーは低い体勢を保ったまま、どんなに強烈なシュートが飛んでこようと絶対に止めてやる、という気概をテレビ越しにも感じさせるほど、両手を大きく広げた。

 その威圧感に青の10番は怯んでしまったのか、またしてもシュートモーションからもう一つフェイントを入れ、前に立ち塞がるキーパーを抜きにかかった。

 たぶん、迷った時点で勝負はついていたのだろう。

 次の瞬間、青の10番のドリブルはキーパーの伸ばした足に引っかかり、こぼれたボールは相手ディフェンダーによって回収され、その直後には盛大なカウンターを食らっていた。どうやら青の10番は絶好のタイミングを逃してしまったらしい。

 結果的に、なんとか相手のシュートミスのおかげで失点は免れたものの、せっかくの得点チャンスを台無しにした青の10番はきっと、試合後にサポーターや批評家たちから叩かれてしまうだろう。僕はそんな青の10番に深く同情した。

「おいーっ。どうしてあそこでシュートを打たないんだよーっ」

 早速、苛立ちを隠せないサッカー解説者はテレビの中で吠えていた。

「でも、惜しかったよねー」

 汀姉はまるで青の10番を擁護するようにそう言うが、その顔には悔しそうな表情を浮かべていた。僕はそんな彼女を横目に、「うん。惜しかった」と答える。

 やがて汀姉はテレビの中で繰り広げられている一進一退の攻防を一時も見逃すまいとその目に力を宿した様子で、前のめりに日本代表戦を見入っていた。

 どうやら僕は完全に病気のことを打ち明ける機会を見失ってしまったようだ。ふと漏れてしまいそうになるため息を僕は無理やり飲み込み、その代わりにせり上がってくる後悔を奥歯ですり潰した。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 思い返してみれば、ここ最近は突然降りかかってくる予期せぬ出来事に僕は振り回され続けているような気がした。僕はここ数日の間に起こった出来事を頭の中で振り返ってみる。

 真っ先に浮かび上がったのは、先週の木曜日に起こった出来事だった──

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