「……ヴァンパウイルス感染症?」

 僕はその聞き慣れない病名を何度も頭の中でその言葉を反芻はんすうしていた。

 白い壁で囲まれた診察室には二台のディスプレイとキーボードが置かれた白いデスクと、それから腰の高さほどある薄緑色の診察台、プラスチック製の白い荷物置き、淡いブルーのパーテーションがあった。僕は口の周りに髭を生い茂らせた白衣姿の男性医師と向き合い、その後ろに立っている若い女性看護師は医師の話の邪魔しないよう息を潜めていた。

 汀姉はこの場に同席できなかったが、それはかえって都合が良かったのかもしれない。たとえ相手が家族であったとしても、何もかも洗いざらいに知ってもらう必要はなかった。知らない方がいいことだってきっとあるに決まってる──

 背もたれ付の回転椅子に腰をかけていた男性医師はさっきから片方のディスプレイを覗きながら、キーボードを叩いて診断書を作成していた。

 やがてひと段落がついたのか、数十秒ほど待たされた頃に彼は僕の目の前にプリントアウトされた用紙が数枚差し出した。

 医師曰く、それはアメリカの大学で発表されていたヴァンパウイルス感染症に関する論文なんだとか。当たり前に英語が敷き詰められているその用紙の中には、あらかじめ赤丸で目印が付けられている箇所が幾つかあり、僕でもわかるようにその翻訳文と補足の説明が加筆されていた。

「ヴァンパウイルスというのは、ここ数年の間にアメリカで発見された新種のウイルスなんです。ですので、まだまだ不明な点も多いのが現状です」と口火を切って男性医師は病気の説明を始めた。「ある研究によれば、このウイルスは骨髄中の造血幹細胞ぞうけつかんさいぼうを少しずつ破壊していくようです」

「……造血幹細胞といいますと?」

 僕はつい医師の説明に割り込んでしまった。「破壊」という言葉がやけに不安を煽ってくる。

 医師はやがてプリントアウトしていた論文を一枚裏返し、ペンスタンドに挿さっていた赤いボールペンに手を伸ばしてその裏紙に何かを書き込み始めた。彼は手元に目を落としたまま説明を続ける。「造血幹細胞とは、血球を作り出している細胞のことです。『赤血球』『白血球』『血小板』という名前に聞き覚えはありませんか?」

「なんとなくわかります」と僕は医師の質問に肯く。

 確か赤血球は体内の各臓器に酸素を運ぶ。白血球は細菌などの病原体から身体を守る。血小板には出血を止める──とかだった気がする。

 僕はいつかの理科の授業で習った頃の記憶を引っ張り出し、早速それらを声に出して答え合わせをしようとすると、医師は顔を上げて「その通りです」と肯いた。その背中越しにチラと看護師と目が合うと、彼女は僕に向かって穏やかな表情を浮かべてみせた。

「造血幹細胞が破壊されるということは──」と男性医師は再び病気についての説明を始めた。「つまり、そのうち赤血球や白血球、血小板の生成ができなくなるということなんです」

 ふとした瞬間、診察室の中に沈黙が流れる。

 すると、僕のおぼろげな不安はみるみるうちに増幅していった。新種のウイルスだとか、不明だとか、破壊だとか、生成できなくなるだとか、そんな言葉をたびたび耳にしているうちに僕の心臓は少しずつ早鐘を打ち始めていた。

「……生成できなくなると、どうなるんですか?」

 医師は手元にある論文の裏紙をこちらからも読めるように向きを反転させ、つい先ほどまで書き込んでいた何かを僕に見せた。そこにはヴァンパウイルス感染症の典型的な症状を幾つか書き出されていた。

「主な症状でいうと──」と彼は淡々とした口調で言葉を紡ぎ始めた。「血中の酸素欠乏によって顔は日に日に青白くなり、めまい、頭痛、倦怠感、疲労感、狭心症、息切れなどの症状が現れます。そして、白血球の減少によって肺炎や敗血症のような重症の感染症を引き起こす可能性も生じます。また、血小板の減少は眼底、脳出血、血尿、下血などを引き起こし──」

 着々と並べられていくその言葉の数々に、ふとここ数日間の記憶を辿ってみると心当たりがないとは言えなかった。

 日が経つにつれて顔色がどんどん悪くなっていることには気付いていたし、家を出る前に欠かさず頭痛薬を服用していた。きっと汀姉もそのことをわかっていた違いない。

 しかし、僕も汀姉もその症状だけで、まさか新種のウイルスに感染していただなんて気付けるはずもなかった。

 その後も医師の説明は機械的に続いていく。

 が、やがてそれは思いもよらぬ場所に最悪な着地をみせた。

「──ヴァンパウイルスに感染してしまった患者の大多数は、およそ二週間ほどで死に至っています」

「…………はっ?」

 きっと僕はひどい顔をしていたに違いない。目を見開き、顎の筋肉を全て失ったかのように口を開け、ただ呆然として『死』という強烈な言葉に気圧されていた。まるで坂の上から石ころを蹴飛ばされたかのように、僕の情緒は勢いを持って下へ下へと転がり始める。頭の中はあっという間に暗闇に覆われてしまった。

「……え、えっと、それはどういうことでしょうか?」

 声が震え、目に映る医師と看護師の輪郭がぼやける。

「今のところ、この感染病が治療によって完治した事例はまだありません」

 いよいよ意識が朦朧とし始めた。今にも倒れてしまいそうだ。

「実際、ヴァンパウイルス感染症は、指定難病にも登録されている再生不良性貧血さいせいふりょうせいひんけつと主な症状がよく似ています。ですから、それと同じような療法──つまり骨髄移植を用いて回復を試みた事例が幾つかあったのですが、繁殖力が非常に高いこのヴァンパウイルスは一度の手術では完全にウイルスを摘出することは困難であり、手術後も患者の体内に潜伏し続け、やがて新しく移植された骨髄への攻撃を再開するのです。つまり、私どもに施せる最善の治療は支持療法しじりょうほうしか残っておらず──」

「……支持療法?」と僕は医師の言葉を遮る。

「要は、定期的に通院していただき輸血してもらうのです」

「輸血を続ければこの病気は良くなるんですか?」

「いいえ」

 残酷にも医師は僕の問いにかぶりを振った。

「この場合における支持療法とは、あくまで延命措置のようなものです」

「延命措置……ですか」

「はい」と医師は肯いた。「ちなみに、ヴァンパウイルスは非常に繁殖力が高いウイルスです。その繁殖速度は感染して一週間が経つとさらに高まっていくことがアメリカの研究によって解明されています。つまり、日が経つにつれて造血幹細胞が破壊されていく速度も上がっていくということです」

「……はあ」

 僕は相槌を打つ気力すらも薄れていた。

「ヴァンパウイルスに感染すると、初期症状──いわゆる頭痛や気怠さが現れるまでに二、三日を要します。そして、それから五日ほどが経った頃、体内に潜伏しているヴァンパウイルスは急激なスピードで繁殖を始め、およそ二週間が経った頃に死に至るケースが一般的とされています」

 きっとこの医師には慈悲というものが備わっていないのだろう。僕はそんなことを思いながら彼の前で項垂れていた。

「……もう帰ってもいいですか?」

 僕のくぐもった声が診察室に響き渡る。

 さすがに説明の途中に帰ろうとする僕に医師も呆れてしまったのか、途端に彼は黙り込んでしまった。その静寂の中、扉の向こうの待合室で患者の名前を呼んでいる看護師の声は、やけに騒々しく聞こえた。

 それからしばらくして、「とりあえず、最後まで聞いてください」と最後まで仕事を全うしようとする医師の声に、僕は仕方なく重い頭を上げた。

「ヴァンパウイルス感染症は大量の輸血を必要としていることから、アメリカでは『吸血鬼病』とも呼ばれているそうです」と気を取り直したように彼はまた説明を始めた。「そして実は、もう一つ別名があるんです」

 彼は裏返しになっていた論文を表向きに戻し、英語表記で綴られていた文章の中で、赤丸で囲われていたある一文をボールペンの先っぽでトントンと叩いた。

「……鬼ごっこ病?」と僕はつい食いついてしまう。

 医師の示したその赤丸の下には『別名:鬼ごっこ病』と記されていた。

「はい」と彼は肯く。「実はこの感染症、一般的な感染症とは明らかに異なる点が一つあったんです」

「異なる点?」

 僕は反射的に眉根を寄せてしまう。

「はい」とまた医師は肯いた。「実は、先ほどまでの説明の中で、私は、この感染病が治療によって完治した事例はまだない──というようなことを申し上げましたが、それは決してこのヴァンパウイルス感染症を完治させる方法がない、という意味ではないのです」

「……えっ?」

 僕は思わず目を瞠った。

 医師の口にした言葉の意味はよくわからなかったが、たった今、彼が重要なことを口にしたということだけはわかった。

 やがて、医師はまたしても論文に目を落とし、ボールペンの先っぽで今度は違う赤丸の箇所を指し示すと、僕は呼吸を整え、背筋を伸ばしていた。

「それがどういった原理なのかは未だ明らかにはなっていませんが」と医師は前置きした上で喋る始める。「現状、ヴァンパウイルス感染症を完治させるためには、自分以外の誰かにヴァンパウイルスを感染させる方法しかありません」

 僕の眉間に深いシワが刻まれる。「どういうことですか?」

「先ほども申し上げました通り、ヴァンパウイルス感染症は別名、鬼ごっこ病とも呼ばれていますが、その名前はヴァンパウイルス感染症のある特性を切り取って付けられた呼称なのです」と医師は言う。「ヴァンパウイルス感染症を鬼ごっこと捉えてもらうとわかり易いかもしれません。つまりヴァンパウイルス感染者を鬼とした場合、鬼は自分以外の誰かにタッチ──いわゆるウイルスを感染させることで、タッチされた人が今度は鬼となり、それと同時にこれまで鬼だった人は鬼じゃなくなるのです」

 ふと、僕は抜け落ちていたパズルのピースがはまったような感覚に襲われた。

「……なるほど」

 どうやら不治の病ということではないらしい。要は、誰かにウイルスをなすりつけることさえできればヴァンパウイルス感染症は完治するということだ。

 無意識のうちに安堵のため息を漏らしていた僕をよそに、医師はその後も説明を続けた。「ヴァンパウイルス感染症の場合、感染者は繁殖力を高めるまでの一週間の間に第三者へウイルスを感染させなければなりません。感染後、八日が過ぎてしまうと、たとえ第三者へウイルス感染を及ぼした場合でも完治しないという結果が研究によって明らかになっています」

「つまり、タイムリミットは一週間ということですか」

「正確に言うと、初期症状が現れてから四日ほど、ということになります」

 医師のその説明に、僕はほんの少しだけ視界が晴れたような気がした。

 それからしばらく間を空けて「飛沫感染や空気感染することはあるんですか?」と僕は質問した。

 が、その答えは目の前の二人がマスクを着用していなかった時点で、なんとなくは察していた。案の定、彼は「いいえ」とかぶりを振って「そのような事例は聞いたことがありません」と答える。

 そしてその後に彼はこう続けた。

「ヴァンパウイルス感染症の感染源となるのは主に唾液、精液、膣分泌液などで、感染経路はキスや性行為による感染に限られます」

「ということは、ヴァンパウイルス感染患者は他の誰かとキスや性行為に及ばないと病気を完治させることはできない。そういうことですか?」

「その通りです」と医師は肯いた。

 不意にある疑念が僕の頭をかすめる。それはまだ確証を得ていたわけではなかったが、可能性は十分にあった。

「つまり、その感染経路さえ特定できれば、自ずと誰がヴァンパウイルスを感染させたのかを絞ることができるってことですよね?」

「……まあ、そういうことになりますかね」と肯く医師。

 僕はその反応につい下唇を強く噛んでいた。

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