鬼の行方(No.4)

ユザ

 思えば、ここ最近はずっと体調が優れなかった。

 いくら寝ても前日の疲労感は抜けず、大学の講義中に眠ってしまうこともしばしばあった。身体の気怠さと頭痛は日に日に増していくばかりで、息切れもひどく、めまいや立ちくらみにもたびたび見舞われていた。

 とはいえ、すぐに治るだろうといつもどこか楽観的で、決して深刻には考えようとはしなかった。もちろん頭痛薬は何錠も飲んだ。だが、なによりも昔から病気や怪我とは無縁だった頑丈な身体に、私は全幅の信頼を寄せ過ぎていた。インフルエンザでクラスが学級閉鎖した時でさえ、一人だけピンピンしていたのだ。弟の秋哉しゅうやにも早めに病院で診てもらうよう促されてはいたが、結局は手間と金が無駄に思えて病院へは行かなかった。きっとそのツケが回ってきたのだろう。

 気付いた時には病院のベッドで眠っていた──

 目を開けると、最初に飛び込んできたのは彩りのない無機質な白い天井だった。まだ目を覚ましたばかりだったからか、思考はその都度空中分解するように散漫しており、未だ置かれている状況を掴めないでいた。

 私は重たい身体を起こし、そのまま枕元の壁にもたれかかるようにして座った。傍にいた秋哉は私の右手を両手で握り締め、まるで健気な子犬のような潤んだ瞳でこちらをじっと見つめていた。どうやらよほど心配をかけてしまったらしい。その目は軽く充血していた。

「おはよっ」

「おはよ、じゃねえよ」

 秋哉はそう言って安堵の息を漏らした。「死んじまったと思ったじゃんか」

「勝手に殺さないでよ」と私は笑う。「でもあれっ、私なんでこんなところに……」

「墓参りから帰ってる途中、バスの中で突然倒れたんだよ」と秋哉は言った。

 彼の足元には、空のペットボトルと枯れた花を包んでいる新聞紙が入ったビニール袋が置かれていた。

「ああ──」

 やがて、分断されていた水路がその妨げを解消したかのように、頭の中で滞っていた記憶が繋がり始める。

 そういえば今日は六年前に交通事故で亡くなった両親の命日だったな、と今更になって思い出した。と同時に、私は記憶を失くしていなかったことに胸を撫で下ろしていた。

「気分はどう?」と秋哉は言った。

 私はそれにかぶりを振り、「大丈夫」と答える。念のため、左手を握り締めたり開いたりとしばらく繰り返してみたが、特に異常は感じられなかった。確かに多少視界のチラつきがあったり、身体に気怠さがあったり、指先に若干の痺れを感じていたものの、それらはどれも我慢できないほどではなかった。

「とりあえず、さっきまで輸血してもらってたんだ。なぎさ姉、血が足りてなかったんだって」

 秋哉はどこか浮かない表情のまま、私の右手をじっと握り締めていた。その手は弟がどれだけ私の手を握り続けてくれていたのかを感じ取れるほど、多量の手汗で滲んでいた。

「入院する必要はないんでしょ?」と私が言うと、秋哉は肯いた。

「……うん。一応、目が覚めて何も異常がなければ帰って大丈夫って言ってた」

 その言葉に私は密かに安堵する。実はさっきからずっと嫌な予感ばかりが脳裏をかすめ、心拍数が高くなっていたのだ。それを弟に悟られまいと、私は表情を変えずにそのまま会話を続けた。「もしかして心配してくれてた?」

「そりゃ心配するに決まってるじゃんかっ」と言って秋哉はさらに手に力を加えた。

 私はそんな弟の姿に思わず顔を綻ばせてしまう。ついつい愛おしくなった彼の頭に左手を置き、癖のない髪の毛を優しく撫でた。「大丈夫よ。お姉ちゃんは秋哉を一人にさせたりしないんだから」

「……わかってるよ」

 秋哉は目を伏せて小声で呟いた。

 すると、やがて秋哉の頭に載せていた左手首のミサンガが目に留まった。それはつい先日、秋哉が初めて私のために編んでくれたものだった。彼曰く、緑色のミサンガには健康運をアップさせる効果があるらしい。高校のサッカー部に所属している弟は一ヶ月後に大きな大会を控えているにもかかわらず、寝る間も惜しんでそれを作ってくれたという。

 きっとこの先、どれだけ高価な腕時計やネックレスをもらったとしても、秋哉の作ってくれたこの緑色のミサンガ以上の価値は見出せないだろう。私にとってそれはダイヤモンドやロレックスやベンツよりも光り輝いて見えた。

「ねえ、秋哉は帰ったら何食べたい? 今日はちょっと迷惑かけちゃったし、お姉ちゃんがとっておきのご馳走作ってあげようか?」

 これだけ秋哉に迷惑をかけてしまったのだ。途端に何か埋め合わせをしなければ気が済まなかった。

 しかし、秋哉はかぶりを振って「いいよいいよ。今日くらいは無理しないでゆっくりしてて」と言った。

「えー、そんなの駄目よー」と私は眉をひそめる。「あっ! じゃあ、せっかくだからお寿司とか頼んじゃう?」

「生モノなんて一番駄目だろ。腹壊したらどうすんだよ」

「じゃあ、焼肉は? 家の近くに超美味しそうな店オープンしてたのよっ。行ってみない?」

「いや、行かない」と秋哉はかぶりを振った。「今日は家でゆっくりしようよ」

「えー、もーっ。ケチー」と私は頬を膨らませる。

 まるでどっちが歳上かわからないな──とふと思い、私はついほくそ笑んでしまう。四つ下の秋哉はいつもどこか私よりも大人で、冷静で、志が高くて、大きな夢を持ってて、そして格好良かった。

 そんな弟のことを私はずっと昔から尊敬し、愛していた。

 もちろんそれを恋愛感情と履き違えることはない。弟として、家族として、心の底から秋哉のことを大切に思っていた。それはきっと、他の家庭よりも一層濃くて深い愛情だったに違いない。私のような姉のことを、世間ではおそらく揶揄するような形で『ブラコン』と呼ぶのかもしれないけれど、別にそれでも構わなかった。実際、両親のいない私には愛情を注げる相手なんて秋哉以外にはいなかった。

 そんなたった一人の家族のためであれば、いくらでも身を粉にして働けた。

 私は公立大学に通いながら昼と夜のアルバイトを掛け持ちし、私立高校に通う秋哉の学費とサッカー部の部費、それから用具代、生活費を払っていた。

 別に貯蓄に余裕がなかったわけじゃない。両親が交通事故で亡くなった時、二人が揃って死亡保険に加入していたおかげで、幾らかまとまったお金は私たち残された家族の懐にも入ってきていた。

 しかし、それだけを当てにしていてはいざという時に秋哉に我慢をさせてしまうかもしれないと思った。サッカーのスパイクなんて一足でゆうに二万円を超えたりするのだ。それを天然芝用、人工芝用、土用、雨用、練習用、と揃えるだけでもかなりの額が必要だった。しかもそれらはあくまで消耗品でしかない。およそ一ヶ月から長くて半年のサイクルで新しいものに買い替える必要があった。そして、その他にも練習着やインナーウェア、遠征費からお小遣いまで必要経費は多岐に渡った。

 いつしか秋哉に黙って高時給の夜の仕事に手を伸ばし始めたのも、贔屓にしてくれるお客さんを勤務時間外に相手するようになったのも、頑張っている弟のことを継続的に援助し続けるためだった。

 しかし、ここ数日は夜の仕事にも入らないようにしていた。勤務時間外にお客さんを相手にすることも一切やめていた。働き詰めだったシフトに穴を開け、夜は家で過ごすことを増やしていたのだ。それは秋哉をこれ以上悲しませないための自分自身に課した戒めでもあった。だからその分、朝や昼の労働時間は増やして補填していた。

 それが結果的に過労に繋がってしまったのだろうか。以前よりも規則正しい生活を送るようにはなっていたものの、実質的な労働時間は総じて増えていた。

 やがて窓の外で夕方の六時を回ったことを知らせる町内チャイムが鳴り響く。

「そういえばさ、この後はもうそのまま帰っちゃってもいい感じ?」と私は聞いた。

「大丈夫みたいだよ」と秋哉は肯いた。「一応、さっき汀姉の代わりにお医者さんから説明を受けてきたから」

「なにか言ってた?」と私は質問を続ける。

 すると、秋哉は一瞬だけその顔を強張らせたような気がした。それから程なくしてこちらから目を逸らし、彼は一拍を置いて答える。

「……たぶん、過労と貧血が重なったんだろう、ってさ」

 訥々と喋る秋哉の視線はさっきからじっと緑色のミサンガに注がれていた。


 ──その日、私は吸血鬼になった。

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