002 CASE504 大手製薬会社男性社員・Y

 散髪屋で髪を切られながら、俺は手に持っていた週刊誌のページを一枚めくった。アダルトな内容のものだったのですぐにそのページごと週刊誌を閉じた。このようなものを店員の前で眺めることなどできるはずもない。


 自然と週刊誌の表紙が目に入った。そこには大きな活字でこう書かれていた。


 本紙雑誌記者A、JR東日本南北総武線連続駅プラットホーム転落死事件被害者に


 タブロイド紙に近いこの週刊誌にしては、真面目な文言だった。いつもは芸能人の下世話な話題をタイトルにした馬鹿げた文字や水着を着た女たちが一面に踊っているのに、人の死、しかも自社員の死だったので、多少は気を使ったのか、表紙の最も大きな見出しはそれで、写真はJR東日本南北総武線の急行電車が線路の上を走っている姿だった。しかし、その表紙の端には、いつもの通りヌード写真が付録として付いていることを示唆する内容が小さな文字で書かれていた。


「物騒な世の中になったものですね。お客さん」


 俺の髪を切りながら、散髪屋の店員は言った。毎回定期的にこの散髪屋に通っていていつも担当はこの店員であるのにもかかわらず、こいつは俺の名前を呼んだことがない。たいした人気店でもなく、客も少ないのに、俺の名を覚えていないなどということはないはずだ。散髪の最中、いつも楽し気に会話をすることから、俺に対して親しみを持っていないなどということはないのだが、それが何故かは未だわかっていない。


「ああ、そうだな。物騒だ。だがこれから仕事で北船橋駅から電車に乗らなければならない。本当だったら休みだったのにひどいもんだ」

俺はそう言うと、斜め横にあるテーブルの上へ、その週刊誌を置いた。

「そういや、お客さん。大手の製薬会社の社員さんでしたね。また、MRとかいう人たちに呼び出されたんですか?」

 店員が尋ねてきた。

「ああ、そうだ。そのMRも医者に呼び出されてな。何やら売り付けた機材に文句があるらしい。今から一緒に医者のいる病院に行ってご機嫌取りだ。朝まで帰れない」

 相槌を打ってから、そう説明した。

「ああ、だから今日はスーツでいらっしゃったんですね」.

「散髪に来たのもそれが理由だ。身だしなみにうるさくてな、その医者は」

 俺は吐息をついた。

「それは大変ですね。はい、終わりましたよ。お客さん」

 店員が言った。

 俺はすぐに革の椅子から立ち上がり、店員に案内されながら、散髪屋を後にした。


 すぐに開けた通りに出た。


 JR東日本南北総武線北船橋駅はその通りを真っ直ぐ行った先を右に曲がり、正面にある大通りをさらに奥へと進んだ場所にある。この散髪屋がある場所からは少し遠いが、隣の駅構内でのMRとの待ち合わせ時間までかなりの余裕がる。ゆっくりと駅に向かってもまったく問題はない。


 駅構内の喫茶店でアイスコーヒーでも飲んで時間を潰そう。そう考えた俺は駅の方角へと歩き出した。


 街は人もまばらでがらんとしていた。休日であるしこの暑さ。人々はみんな家に引き籠もっているのだろう。何しろ今は真夏日の昼下がりだ。たまにすれ違う人は全員薄着で、少しでも熱気を身体から逃がそうとしている。汗を滝のように造るスーツなんて着ているのは俺くらいのものだった。

 

 駅構内に入ると若干涼しくなった。近くにコンビニエンスストアがあり、工事でもしているのか、ドアが開きっぱなしになっていたため、そこから吹き付けるエアコンの風が改札を潜ったばかりの俺の身体に少しばかりの冷気を感じさせてくれたのだ。


 喫茶店に入って少しばかりの時間を過ごした後、俺は駅プラットホームへと向かった。構内にある本屋で時間でも潰そうかと思ったが、やはりMRと待ち合わせをしている隣駅に先乗りすることにした。まだ時間には余裕があるがいつまでもこの構内にいても何も目新しいものはない。それくらいであれば、若干都会の隣駅近くにあるデパートでウィンドウショッピングでもしていた方がまだマシだ。


 喫茶店左手にある若干古びたエスカレーターに乗り込むとすぐ駅プラットホームにたどり着いた。


 うだるような熱風が俺の身体を襲ってきた。電光掲示板を見ると、後五分ほどで各駅停車の電車がやってくるようだった。そのくらいの時間であれば、そのままプラットホームにいても汗だくにならずに済むだろう。


 その各駅停車の前に急行電車の姿が線路奥に現れた。俺は少しプラットホームの端から距離を置くと、誰も周囲にいないか確認した。


 JR東日本南北総武線連続駅プラットホーム転落死事件の被害者は、事件を世間に認知させた五十人目の女子高生Fを含めてそのほとんどが朝と夕方の時間帯に被害に遭っている。こんな時間にまさか何か起こるとは思えないが、俺は念のため線路付近から身を離すことにした。


 急行電車がもうすぐ近くにあった柱の前を横切ろうとしている。そのタイミングでそっと柱の陰へと身を隠す。ここまで注意すればもう問題はないはずだ。

 

 考え過ぎだとは思うが、やはり注意をおこたらない方が良い。人間である、ないにかかわらず、どんな生き物でも一度死んだら終わりだ。それは製薬関係の仕事をしていると嫌という程わかる。猿などの実験データにおいて死亡記録はよく目にするし、臨床試験において人が死んだデータも国から送られてくる共有ファイルには多数散見された。それらひとつひとつは死亡フラグの項目にマークが入った一行一行に過ぎないが、そのマークは紛れもなく命が失われた証拠だ。俺がその死亡フラグのマークをワンクリックで取り消せば、そのデータ上生存していることになるが、実際の命は戻ってくることはない。自分が死んだ時もそれは同じだ。死んだ事実を取り消す方法などこの世に存在しないのだ。


 俺がそう考えた時だった。


「今日はこいつでいいか」

 背後から男の声が聞こえた。


 その若干甲高い声に、俺は後ろを振り返った。次に身を隠していた柱が目に入った。身体は線路へと落ちていく最中だった。

 な、なんで俺の後ろに柱があるんだ? あ、あんなに注意したのに。

 そう狼狽えた声を出そうとしたが、俺がそれを実行することはなかった。

 なぜなら俺にはすでに口がなく、この世で俺が最後に目にした物はおそらく俺の身体の部位の一部だった物と思われるただの肉片だったからだ。

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