DREAM
隴西の李徴
序
2030年6月9日、日曜18時、東京の国立競技場において第24回を迎えたFIFAワールドカップ東京大会の開会式が始まろうとしていた。オープニングゲームは日本代表とイングランド代表の対戦である。過去二大会連続でワールドカップ出場を逃してきた日本代表にとって、予選を戦うことなく、開催地代表として本戦に臨む選手たちの顔には緊張感と悲壮感が漂っていた。
明るい話題としては、本大会が始まる半年前の昨年末に代表監督に就任した武藤祐太朗の存在が挙げられる。現在48歳の彼は高校在学中まで各年代の代表において守備的MFとして欠かせない存在であった。相手の攻撃の芽を摘む読みの速さ、攻撃へとつなげるパスの精度、フリーキックの豊富なバリエーション。中でも圧巻だったのは、2001年にアルゼンチンで行われたU-20ワールドカップにおいて、予選リーグで三本のフリーキックを含む4得点1アシストで大会ベストイレブンに選ばれたことだ。もちろん、Jリーグを含む各国リーグも獲得に乗り出し、特にイングランドのプレミアリーグのチェルシーとスペイン、リーガエスパニョーラのレアルマドリーは破格の条件を提示した。
しかし、メディカルチェックで先天性の心疾患が見つかると、彼は競技者としての道をすっぱりと諦め、医大への進学を決めた。大学で医学を学びつつ、草サッカーに明け暮れた。転機となったのは28歳の時、一年間ドイツへ先進医療の長期研修へ出た時のことである。下宿先のバイエルンでもサッカーへの興味は失うことはなく、医療スタッフチームでプレイしたり、地元チームの観戦を欠かすことはなかった。
あるとき、居酒屋で地元チームの選手と意気投合し、試合を見に行くことになった。自分が日本で経験していた草サッカーに毛が生えた程度のレベルであったが、選手たちが一生懸命に汗を流す姿に感動し、ちょくちょくグラウンドへ足を運ぶようになっていった。そんな折、チームの監督が二部リーグのチームから引き抜きに合い、シーズン途中で監督不在となってしまった。奇しくも週末にドイツカップ参加に向けた大事な試合を控えていたが、ロッカールームは暗く沈んでいた。武藤がロッカールームを訪れたとき、あまりの雰囲気に、すぐに立ち去ろうと踵を返したその時、「なあムトー、俺たちの監督になってくれないか。」「次の試合だけでいい、俺たちと一緒に戦ってくれないか?」「何を急に。俺に監督なんてできるわけない。」「いや、できるさ。お前はU-20の大会でドイツにFKを二本も決めた凄い奴じゃないか。あの試合は衝撃的だった。ドイツが負けた悔しさよりも、サッカーの天才が現れたことを神様に感謝したものさ。そして、そんなすごいやつが今はサッカーをしないで医学を学びに俺たちの町で暮らしているってことは、皆が知ってる。」「俺たちはどうしても次の試合勝ちたいんだ、だが、冷静に外側から俺たちを見て、鼓舞してくれる指揮官がいなきゃ勝てない。ムトーならそれができるはずだ。頼む、引き受けてくれ。」
それまでの武藤は、己のプレーで局面を打開することは求められても、監督としての自分を評価してくれる者はいなかった。大学時代の草サッカーで監督権選手を経験し、サッカーの監督業に興味を持った。大学卒業後は医師の傍ら、独学で遊び程度には最新の戦術を学んでもいた。その経験を活かすべき時が訪れたのだ。
武藤は二つ返事でOKすると、週末のゲームを5-0で勝利した勢いそのままにドイツカップ本戦では1回戦で2部のヘルタ・ベルリンに2-1、2回戦でも2部のボーフムに2-0で勝利した。続く3回戦で1部のバイエルンミュンヘンとの対戦では、1、2回戦の勝利に敬意を表しリーグ戦でのスタメンをそろえたバイエルンに対し、前半は0-0と検討したものの、後半に力尽き、2-1で敗退した。しかし、4部リーグの弱小チームがバイエルンミュンヘンを本気にさせたという見出しが翌日の朝刊に躍り、武藤は魔術師、東洋の神秘と評された。
その活躍をきっかけに医師の道半ば、ドイツでの監督ライセンス取得のため各チームを渡り歩き、ブンデスリーガを中心にリーガエスパニョーラ、プレミアリーグでも若手とベテランを個々の良さを伸ばす選手起用で、弱小チームに結果をもたらす監督として評価を高めた。折しも日本人選手が海外へと活躍の場を移し、海外組なる言葉が定着しはじめた時代であった。
武藤はヨーロッパの2部、3部のチームを渡り歩き、確実に評価を高めた。そして遂に2026シーズン、満を持してブンデスリーガのヴォルフスブルグの監督に就任すると、それから3年間でリーグ制覇二回、カップ戦優勝1回、UEFAチャンピオンズリーグベスト8、リーグ最優秀監督などの輝かしい成績を収めた。そんな武藤に半年前、日本代表監督として白羽の矢が立った。シーズン途中での監督交代にどのような逆風が吹くのか、交渉は上手くまとまるのかと日本サッカー協会が危惧を抱いたのもつかの間、「おらが町の英雄」、「ムトー」はドイツ中の人々に愛されていた。「今度は自分の国のために戦う番だ」、「世界を相手に戦ってこい」と、誰もが笑顔で英雄を送り出した。こうして、日本代表監督初の、プロ経験の無い、逆輸入の代表監督が誕生したのであった。
しかし、この物語はFIFAワールドカップの物語ではない。ワールドカップの開会式を間近に控えた日本で、時を同じくして2030年6月9日、沖縄の普天間基地返還跡地に新しく建設された琉球総合競技場多目的施設、通称「バトルフィールド」で行われた、第1回e-ワールドカップの記録である。
DREAM 隴西の李徴 @1972Superfly
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