最大多数の特大幸福

香織-かおる-

最大多数の特大幸福




 「古海ふるみくんってさ」


 「ん」


 彼は顔を上げる。私が声を発したその瞬間に、手元の本から目線を逸らす。かと言って私の方を向くわけでもなく、ただ空を見つめ、私の問いの内容を待つ。


 「彼女とか、いるの?」


 「ふは、いるわけないでしょ。こんなのに」


 やっぱり、内容を聞いてから目を合わせる。これは無意識的な彼の癖だと思う。


 私は彼を嘘つきだとは思っていないし、秘密主義だとも思っていない。というかこれはこのクラスの総意だと思う。明るくて、聡明で、人望がある。彼を信頼している人間は多くて、その信頼はどれも厚い。かく言う私も彼に魅せられた人間の一人であり、端的に言って彼のことが好きだ。だからこそ私は彼をよく観察する。彼の目線の癖に気づいているのも、彼にこんな質問をするのも、私ならではだと思う。ただ不意に見せる物憂げな表情や、不用意にアクションを起こさない姿勢に、親近感のようなものを感じるのだ。つまるところ彼もきっと、どこか人間を信頼しきれていない。


 「こんなの、なんてよく言えるよね」


 「いやいや、僕なんか本当に、こんなの、だよ」


 米粒を摘むようなジェスチャーと共にコミカルな笑顔を浮かべ、意味不明なことを口走る彼、もとい古海 匠ふるみ たくみ。他のクラスメイトは彼の氏名それぞれの最後の文字をとってと呼んでいるが、私は呼んでいない。不登校だった私が先月から無遅刻無欠席で登校できているのも彼の存在があってのことなのだけれど、特に親しい関係かと問われれば悔しくもそうではないし、当の本人にはきっと人助けをした自覚なんて微塵も無い。どうせ。


 「てか日野ひのさんこそ、すげえモテそうだけど」


 ああ、またやられた。彼は隙あらば人を褒める。これもきっと彼自身の自覚としては薄いんだろうけれど、今だって、どう考えても私のターンだったのに、いつの間にかこうして話のペースを持っていかれてしまうのだ。彼のこういうところが苦手だ。でも、好きだ。私は得手不得手と好き嫌いは別物だと思っている。うん。


 「まあ私はモテるけどさ」


 「でしょ、恋人とかいないの?」


 否定しないんだ、と普通の人ならきっと茶化してくれるんだろうけど、面白い程にそれをしない彼は、私が異性にモテる人間だと心から思っているのだろうし、そういうまっすぐなところが本当にずるいと思う。てかもうほら、完全に彼のペースだ、さっきまで私が質問してたよね?


 「いないよ……。そもそも私がまともに学校くるようになったの先月だよ?」


 「あれ、そうだっけ。すっかり溶け込んでて全然そんな感じしないわ」


 古海くんのおかげだよ、と言いかけて、やめた。その発言によってメリットが生まれるビジョンが見えなかった。彼はきっと困る。褒められることなんてたくさんあるだろうに、普段の彼を見ていても、褒められ慣れた様子が全く見受けられない。返す言葉を探して少し黙ってしまう古海くんが想像できてしまって、慌てて引っ込めた。まあそんな彼も少し見てみたいけれど、私は僅かにでも、不必要に困らせたくない。


 「どうしたの、考え事?」


 「ああいや、全然、なにも」


 私は会話という行為が嫌いではないが、苦手だ。彼がそうであるように、私も咄嗟な行動や言動を避けるので、何かを口に出す前に一度あれこれと考えてしまうのだ。それによって会話の中に若干のが生まれてしまうのだけれど、彼との会話では余計にその時間が長くなっているような気がする。というか、彼も同じような癖を持っているはずなのに彼の言葉にそんな間は無い。つくづく、頭の回転が速い人だなと思う。


 「そういえば日野さんって、下の名前なんだったっけ」


 すっかり彼のターンだ。かと言って自分の話ばかりする訳ではなくて、常に話の軸をこっちに置いてくれているから、会話の主導権を握られっぱなしでも不思議と嫌な感じは全くない。なんか、栞とか挟まずに置いちゃってるけど、もう読まなくていいのかな、その本。


 「羽奈はなだよ、羽ばたくって字に、奈落の奈」


 「なにその落差すごい表現」


 「ふふ、お気に入りの自己紹介」


 というより、持ち合わせがこれしかない。持ちネタというか話のタネというか、もう少しカードがあればいいなと思いながらも、そもそもそんなキャラではないだろうと、なんとも陰キャらしい葛藤をしながら、この高校生活を終えようとしている。というわけで私の手札はこれで尽きた。この会話どころか、これから先の彼との会話が既に思い遣られている。日本語の使い方あってるのかな。


 「でもいい名前だね、似合ってる。そのって字はさ、なんでとかどうしてみたいな意味があるじゃん?」


 「博識だね、古典ではそんな意味みたいだけど」


 「そうそう、なんかさ、羽奈さんって大人しそうな雰囲気なのに、結構こっちに興味持ってくれるっていうか、疑問を投げてくれるっていうか」


 ……あれ? 興味持ってるのバレてる? てか名前で呼ばれた? え?


 「嬉しいんだよね、真正面から話しかけてくれて。」


 顔が熱い。そわそわして、言葉が出ない。てのひら湿しめりを感じて、すぐにスカートで拭ったけれど、全然拭き取れた感じがしなくて、何度も自分の太ももを撫でている。これでは私が焦ってるみたいではないか。


 「えっと、ごめんね、急に。なんかその、僕ってこう、周りにちょっと距離置かれてるみたいな、一線引いて接されてるみたいな、よく分かんないんだけどちょっと寂しかったんだよね。少し遠くから話しかけられるみたいな、様子を伺われるみたいな感じで……。だからその、日野さんがまっすぐ話しかけてくれて嬉しくて、つい、だからそういうのじゃなくて、えっと」


 彼はいつになく早口で、ぽりぽりと頬を掻いている。初めて見た。いつも余裕たっぷりで、毎日同じように、分け隔てない笑顔を浮かべている彼が、いま明確に、私に向かって照れている。なんだかそれすらも、恥ずかしいのは君だけじゃないよみたいに、一人じゃないよみたいに言われているような気がして、少し気が楽になった。もちろん彼がそんな計算をしているはずはない。でも、やっぱり彼にはそういう才能があるんだと思う。人の心を救う才能が。


 「なんで日野さんに戻ったの。いいよ、羽奈でいい。羽奈がいい。」


 一言余計だったな、と思ったときには遅かった。


 「わかった、羽奈さんね。ありがとう。」


 一瞬落ち着いたのに、またすぐに顔とか胸の辺りが熱くなってしまった。その間に彼はいつもの笑顔に戻っているし、今のは夢だったのかってくらい元の雰囲気に戻されてしまった。なんというか、ずるいなあ。


 「変な話 しちゃってごめんね。もう五限始まっちゃうし、マジでごめん」


 「え、あ、うん」


 頭が回らなくて、多分、そっけない返事をしてしまった。でも彼は嫌な顔ひとつせず、お喋りしてくれてありがとうと言わんばかりにいつもの笑顔を浮かべて、結局最後まで栞を挟まなかったその本と、古典の教科書とを持ち替えた。

 つられて自分も五限の用意を始めながら、彼の言葉を思い返す。


 ―――少し遠くから話しかけられるみたいな、様子を伺われるみたいな感じで……。


 きっと彼の周りにいる人たちは、彼にだけは嫌われたくないという気持ちから言葉を選んだり、彼にだけは拒まれたくないという思いで遠回しに物を言ったりしている。

 正直、すごく分かる。彼に嫌われてしまったときが人間としての最後というか、そういう緊張感が実際にある。彼のやさしさは、みんなにとっての最後の砦になっているのだ。でも、彼にはその自覚がない。きっとそのギャップが彼の苦しみに、そしてさっきの吐露に繋がっているのではないかと、思った。

 無性に寂しくなった。私は彼に共感をしているのだろうか。いや、私は彼のような存在ではないし、彼の苦悩を理解できるわけがない。それでも何か、似たような苦しさを、私も知っているような、そんな気がして、目頭が熱くなったのだ。


 「羽奈さん、僕のことはミミで良いからね」


 張り詰めた弦を緩めるように、彼の声が耳朶じだを打った。


 「やだよ恥ずかしい、古海くんは古海くんだよ」


 あと一歩で、涙が出てしまうところだった。また彼に救われてしまった。


 「そっかあ。まあ逆にレアでいいかも」


 彼は誰にでもこうだ。私だけが特別なわけではない。


 「ふふ、逆にレアってなによ」


 でも、私だけに見せてくれるものがあるような、今日はそんな気がした。


 「あ、先生来たよ」


 いや、私だけに見せてほしいという、私の願望なのかもしれない。


 「今日は先週に続いて漢詩じゃ。えー、文末に付いて疑問や反語を表すのがこの漢字、『奈』じゃな。まずはこの漢字の―――」


 彼が途端に表情を明るくし、こちらの顔を覗いてくる。


 「めっちゃタイムリーだね、羽奈さん」


 本当に屈託のない笑顔だ。人の心を救う、温かい笑顔だ。


 この眩しい笑顔すら、私だけに見せてくれるようになればいいのに。

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