第十七話 初めての感情は僕が良かったーこの声は届かない

 アルテミスは首を取り戻してから困った現実があった。一つは首のある感覚に慣れず、口から放つ声じゃなく仕草や動作で伝えようとしてしまうこと。もうひとつは葉月にキスした弊害だ。人魚とのキスは陸で生活できなくなる。正確には呼吸の仕方が変わってくるのだ。

 すぐにアルテミスは悪魔と契約し直し、再び存へと仕えた。


「そう簡単に同じ内容でクーリングオフ出来ると思わないでほしいな」


 悪魔からのぼやきは、至極その通りでアルテミスは両手合わせて頭を下げた。

 アルテミスはそれから平穏な日々を過ごし、変わらず悪魔との取引をし続ける存を守っていくが、気付いた事実がある。

 存が何かしらの折りにぎくっと身を固めて、動かなくなる瞬間があるのだ。ウブな生娘みたいな反応だが、恋した人間と違うのはぎくっとした後に気まずい顔で苦く顔を顰めるのだ。

 何かしら存にも変化が訪れたのだろうかとアルテミスは思案すれば、そういえばやたら気恥ずかしくなる言葉を言ってしまった気がするとアルテミスははっとした。

 気まずいのだけは参ったな、と電線に腰をかけて座っていれば、スマホが鳴り響く。


「はい、どちら様ですか」


 見覚えのない番号に小首傾げて出てみる、もしかしたら昨夜頼んだゲームキャラのフィギュアの配送に問題があったのかもしれないと。


「やあやあ、元気かね。久しぶりの頭は重くないか?」


 現実は非情で世界一聞きたくない声が聞こえたので思わず、スマホを遠ざける。

 スピーカーにしているスマホからは明るすぎる声が響いたのでまたげんなりした。


「そんな嫌な声をしないでくれ、君たちには朗報だよ。迷惑代として幾らか振り込んだから、好き勝手使ってくれ」

「迷惑代? 迷惑の自覚あってやってたんですか」

「そうでもしないとあの子は区切る前に朽ちてしまう。僕らの我が儘からの大暴れだった自信はあるからこその、その対価だ。多分おたくのご主人様は大喜びになるんじゃないかな」


 要件はそれだけ、じゃあね~とぷつっと一方的な通話は一方的に切れられて、アルテミスはスマホをまじまじと見つめた。

 アルテミスはスマホアプリから、口座を確認すればとんでもない金額が振り込まれている。いつだったか疾風が銀行から連絡があったと聞いていたが、銀行も確認せずにはいられない金額だ。桁数は億もある。

 悪魔からの金額もすごいし、マイナス履歴もすごいのだが、独水からの金額は群を抜いている。

 一気にきゅっと心臓が縮まるアルテミスは、少しの間ぶるぶると震えた。



 今日のご飯は煮魚にしよう。ぶり大根にしてホウレンソウのバターソテーに、蕪と茄子の漬物。きんぴらゴボウに、大根と油揚げにわかめの味噌汁。

 疾風はメニューを決めると前日から買ってあった品をメモしてあった紙を見つめ確認する。

 今日も無事でありますようにと願いながら冷蔵庫を素早く開けては閉じ、品を取り出せば全部取り出し終わる頃には、じじ、と電子音が少し痛ましそうに響いてる。

 冷蔵庫は電化製品の中でもとりわけ頑丈だった。この冷蔵庫が頑張ってくれてるだけかもしれないし、世の中の冷蔵庫は頑丈なのかも知れない。

 機械の苦手で破壊体質である疾風にとってみれば、冷蔵庫だけは味方のような気がしてしまう。出来るだけ冷蔵庫は壊したくなくとも、季節毎に今のところ一台ずつ買い換えている。

 料理の支度をしていき、ちょうどぶり大根をあとはことこと煮込めば終わりというところで、存が帰ってくる。存は悪魔から頼まれた依頼を終え、あとは金額を受け取るだけだったのだが、疾風は見逃さなかった。存の手元には、マッサージチェアのパンフレットだ。


「今度は何を買えって?」

「全自動マッサージ。フットも揉んだり、あとは揉む種類を変えられるやつがいいってさ」

「……お前はそれでいいのか」

「うん……わからないんだ、最近」


 いつもなら放っておいてくれという空気が出るのに、存にしては珍しい反応だと疾風は瞠目し火を止めた。話を聞くのに集中したい気持ちもあり、存にきんぴらゴボウをつまみ食いさせてやりながら、話の続きを促した。


「……このまえ。一生懸命なアルテミスを見て。望めって言われて。過ったのが、大事な人がほしい、だった」


 疾風は言葉を飲み込む。そうであれば自分と一緒だ、と告げたい気持ちもあったからだ。


「だけど、前に聞いたことがあるんだ、自分を粗末にする奴には誰も近づかない。今のおれのままだと、駄目なのかも知れないって」

「……お前の理論を借りるなら。それは、多分。お前にとって答えは出ているよ。どうすればいいか、どうすれば駄目じゃなくなるか」

「そうだな、向き合えてない証拠だ。だから、わからないままでいたいのかもしれない」


 存の角度が変わったくらいの変化だ。存の僅かな変化が疾風には無性に嬉しかった。


「大丈夫だって、お前なら向き合えるよ」

「根拠もない言葉や励ましやめろよ、期待して出来ないと傷付く」

「根拠ならあるさ、お前は強い。気持ちが強い変なねじ曲がった奴だ」


 褒めていない言葉に存は逆にほっとして、「何だよそれ」と噴き出せば、そのまま手洗いに向かっていった。手洗いを済ませる水音が、家に響く。

 疾風は考え込みながら、少しだけ自分の出来事を振り返る。親友だと思い込んで、親友じゃ無くて、それでも見放せない今をどう言おうか。


(もしかしたら僕はやり直したいのかもな、救えなかった過去を)


 それでも存をかつての親友と被せるのは、もう二度としてはいけないと今なら感じるけれども、と疾風はまた火を点けていく。

 料理が良い塩梅になる頃合いにアルテミスが帰ってきて、とてつもない勢いで存の方角へ走っていった。


「存さん、存さん、絶対通帳見たら駄目ですよ!」

「なんだどうした、そんなの見ろと言ってるようなものだろ」

「ああああっ、とにかく絶対駄目です。絶対に親御サンにばれないように! 通帳の金額ばれたら、貴方の親はきっとフェリー世界旅行にでもいきそうだ!」

「何かあったのか」

「……この前のあの社長が。迷惑料にって、金額振り込んでくれたんです、事務所の口座に」


 見てくださいよ、と顔を覗かせる疾風やまだ面食らっている存に、アルテミスはスマホアプリで金額を見せる。二人は固まった。


「なんであの馬鹿社長は、簡単にそんな金を棄てられるんだ」


 疾風の言葉にアルテミスは首を左右に振り、溜息をつくと同時に存の両手を握ってお願いをする。


「とにかくご両親にはばれないようにしてください! 貴方に資金があることを!」

「そのまま持ってるだけでもアブなさそうだよな、いっそのこと黄金に預けたらどうだ」

「あの金の亡者にですか!?」

「金の亡者だからこそ、定期的に金額支払えば絶対的に安全に預かってくれるんじゃねえかな。金で出来た約束は守る奴だ。このままだと他の奴らから狙われて危ない」

「まさかあの社長、それ含んで楽しんでるんじゃないでしょうね!? はああ……そうするしかないですね」


 アルテミスは胃薬を取り出して、さらさらと飲み始めて痛むのか胃を抑えた。



香水を、刺繍しておいた魔方陣の中央にことんと置く。置く前に三度ほど虚空にプッシュはして置いてから。辺りに煙幕が漂い眼を瞬けば、あっという間に異空間。

 異空間の先には数々の蜘蛛の巣。金糸で出来た蜘蛛の巣を揺すり、クッションに埋もれる美少女は頬笑む。


「まあ。いらっしゃい、存様。何のご用?」

「お金を預かって欲しいんだ、とてつもない額で身に余る……」

「あらいやよ。人のお金は気を遣うもの。弁償も出来ない」

「頼むよ、元からないような金だ、何かあっても弁償しなくていい」

「それなら頂戴?」

「それはちょっと駄目だな。ただより怖い関係はないからな」

「それは判る気がしますけれども。どなたから頂いたの?」

「人間界の企業の社長だ。道楽息子なんだ、独水譲っていう」

「あらあ、それはそれは。お金になりそうね、それならその人紹介してくださらない? それが手間賃にしてさしあげますわ」


 黄金は目を細めれば楽しげに扇を揺らし、口元を隠して笑い囁いた。存は戸惑うように一緒に居た疾風を見やれば、しょうがないといった意味で頷いた様子だった。


「判った引き受けよう。紹介するから預かって欲しい」

「判りましたわ、それでしたら人間界での口座をお教え致しますわ」

「口座持っているの?」

「当たり前よ、全部自宅保管なんてやってられませんわ。お部屋が狭くなっちゃう」


 「お花も飾りたいもの」と黄金は爪のチェックをあらゆる角度でしながら、ふーっと爪に吐息を吹きかけ気怠そうに応えた。存は承諾の返事にほっとして、頭を下げると受け取った名刺裏の口座番号を確認する。


「ほんとうに。何があっても知りませんわよ? 人間の情報なんてみんな見られてるようなものだから、誰かにいつか暴かれても」

「そしたら黄金さんの身を一番に守ってよ」

「そんなこと仰るなら預けないでよ、まったく。まあそれでも。新たな金の人脈を得たから、いいのですけれどね」


 黄金はふう、と吐息をつけばふーっと白い息を周りに漂わせる。それだけで煙幕が立ち込み、一同は現実世界に戻された。

 現実に戻れば、アルテミスがスマホゲームを動かしていて、弓と一緒に攻略法を相談している。弓が気付いてアルテミスを叩けば、アルテミスの目が存とあった。


「あ、おかえりなさいです! どうです? 預かってくれましたか?」

「僕はなんというか。悪魔にばれそうでこわいな」


 疾風の言葉は肯定の合図で、アルテミスは眼を瞬かせてから小首傾げ、考え込む。


「黄金さんのほうが賢そうですけど」

「悪魔のずる賢さには勝てないよ、あいつは何だかんだで根は優しい」

「預けても無意味ってことですか?」

「存の親にはばれないから、そういった意味はある。これは存のストレス防ぎだ」

「なるほど、世界一周旅行にでもいかれたら、今度こそ破滅するほど使い込まれそうだ」


 疾風とアルテミスの言葉に、存は興味なくそうっと弓に近づいて、弓の頭を撫でてやる。

 弓が心配そうに見上げたので存はにこっと笑いかけた。


 その日の晩だった。存の耳元で、いつもと違う悪魔が囁く。高音の声で、きんきんと超音波めいた声だった。


「存よ、勝負しろ」

「嫌だよ……だれだおまえ」

「聞いたぞ、お前は金持ちだ。金は悪魔を呼び寄せるんだ、金の匂いがする。勝負をしろ」


 姿の見えない悪魔に、存はソーイングセットに手を伸ばすも、ソーイングセットは何処かへ弾き飛ばされる。腕の中で弓は眠っている起こしたくないと感じた存は、虚空を睨み付けた。


「……黄金の元に金ならある、持っていけ」

「駄目だ勝負をしろ、悪魔は対価とならないと持って行けないんだ。じゃんけんでもいい。勝負をしないなら、その娘を食ってやろう。娘がどれくらい痛みに耐えられるか勝負だ」

「……じゃんけんしよう、ほら、ぐーだ」


 存の言葉に悪魔は大喜びできゃらきゃらと「ぱー!」と叫ぶ。悪魔はそのまま気配が消え、黄金からアプリにメッセージがくる。お怒りスタンプがきたので、盗みが入ったのだろう。

 弓を起こさないように存は、そうっとアルテミスと疾風の部屋に向かい、小さな音でノックをした。間を置いて扉がゆっくり開き、疾風が出てくる。隙間からはアルテミスが腹を出して酷い寝相で寝ている。

 気まずい顔で疾風を見上げれば疾風は、指先を台所に示しそこで待つように指示してきた。

 存は台所に移動し、疾風も遅れてやってくる。ホットミルクを淹れてやり、疾風は存の様子を窺っている。存はメッセージアプリを見せ、黄金のお怒りスタンプで全て察してくれた。


「何もされてないのか」

「怒らないのか? 大金を逃したんだぞ」

「命が無事ならそれでいい。元から返金できない困った金のやり場だったんだ」

「……なんで。なんでそんなに、おれを気遣うんだ」


 存にとってずっと疑問だった。疾風はずっと存を出会い頭から気遣ってくる。最初はただの人好きか変人だと思っていたが、観察している限りでは存のみに過保護が発動している。

 存にとって疾風の気持ちの流れは理解できないものだった。アルテミスはまだ首を奪還するのに手伝った恩があるなど、少しだけ判る。それまでの過程が納得いく。弓も父親だと慕うのだからと理解できる。疾風だけは最初からどうやって、自分を気にかけ続けているのか不思議だった。


「おまえ少年趣味でもあるのか」

「ばーか、そういうんじゃねえよ……昔、すげえ大事な親友がいた」


 疾風はゆっくりと昔話をしようとしていた。存はじっと疾風を窺うと、疾風の話に集中しながらホットミルクを口にした。


「昔昔。迷信の影響が強い時代に、親友は人柱になっていった。俺は力が足りなくて防げなかった。親友に似てるんだお前」


 疾風は明るく言葉を続けようとしていたので、存は疑問をぶつけた。


「おれをそいつの代わりにしているのか」

「あ……いや、僕は……」


 疾風は快活に応える行為ができず、もやっとする存は顔を顰めて言葉を続ける。


「わから、ないんだ」

「わからない? そいつと似ているから、助けられなかったからおれを助けようとしているのだろう?」


 存は自分でも言葉を止められなかった。存は誰かの代わりというだけで機嫌を害したのだ。きっとそれまでに疾風は悩んだだろうし、疾風の苦悩や悲しさを理解したい気持ちもあった。それ以上に存は、代変え品という事実に耐えられない気持ちでいっぱいになり。ぐっと唇を噛みしめた。

 疾風は顔を一瞬顰め傷付いた顔で、それでも嗤った。


「お前の口から聞きたくなかった。お前が、大事だから」

「その人の代わりだからか」

「……なんだろうな、もう。もうお前はあいつじゃないと、判っているのに」


 疾風は顔を俯かせ、ふ、と吐息を押し殺すとベランダへ向かい。そのまま翼を現すと、外へと飛んでいった。


 疾風はそれから、帰ってはこなかった。



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