悪役令嬢は隣国の王子に攫われる
「イライザ嬢、おはよう」
邸の玄関を出ると、王家の紋章を掲げた馬車が待機していた。
馬車の前には、麗しい笑みを浮かべたパトリック第一王子。背景に薔薇が見える気がする…。
私は、朝からがっくりと肩を落とした。
「第一王子って、暇なんですか?」
「イライザ嬢を迎えに来るために、早起きしてちゃんと仕事は片付けてきたんだよ」
朝からこの上なく顔面が強い。これは確信犯だ。このキラッキラした笑顔を向けられたら、私が強く出られないことをわかっていてやってる。
「それはどうも。お迎えは頼んではおりませんが」
「朝からちゃんと一緒に登校して、君が僕のものってこと、皆にアピールしとかないとね?」
「アンジーじゃないんだから、そんな心配はいりませんよ…」
「君のことアランも狙ってるし、他にもちらほらそんな生徒がいることが耳に入ってるからね。ちゃんと牽制しとかないと」
パトリックはにっこりと笑って、馬車のドアを開けて私をエスコートする。
なんでこの人も私と同じように数日前に転生してきたばかりなのに、こんな流れるようなエスコートができるんだろ…。王子擬態も完璧だな…。ハイスぺ怖い。
「…ありがとうございます」
私は不本意ながらお礼を言って馬車に乗り込んだ。するり、とパトリックも私の隣に座ってドアを閉める。御者さんが仕事をとられて、慌てる顔がドアの隙間からちらっと見えた。お気の毒に…。
「そっちに座ったらいいじゃないですか!王家の馬車広いのに!」
私は向かい側の席を指さすが、パトリックはしれっと言い放つ。
「広いから、隣に座るんだろ」
2人になった途端、沢渡部長の口調になった。
さすが、オンオフの切り替えも完璧。ダメだ。かなう気がしない。私はむすっとした顔でため息をついた。
昨日の朝、王城からの書状でパトリックに求婚されたと思ったら、なんとその日のうちにパトリックは私の邸を訪れ、お父様からも許しを得た。もちろんそれはすぐに国王に報告され、私たちは正式に婚約者となったのだった。
私は、その前日にリアムと婚約破棄になったばかりだったというのに、だ。
いや、どんだけ仕事が早いんだ!って話よ。元エリートリーマンの沢渡部長の手腕を、目の前でまざまざと見せつけられてますよ。
――まあ、それだけ私を真剣に思ってくれてるってこと?なのかな?そうなの?
「そうだよ。お前逃がさないために必死なの、俺。アンジーがリアムルートに入ったからだか知らないけど、いろんな奴湧いてくるし」
ぐるぐる考えを巡らせていた私の胸中をすべて察しているかのように、不敵な笑みを浮かべてパトリックが言った。そんなに私、考えてること顔に出てる!?
てゆーか、こういう時は、パトリックの顔してるのに本当に沢渡部長にしか見えないんだよな…。
思わず顔をじっと見つめていると、
「余裕ないんだよ。可愛いもんだろ?」
いきなりちゅっとキスされた。ゆ、油断も隙もない!このために隣に座ったな、この人。
真っ赤になって睨みつけたものの、もはやそれも逆効果のようだ。
「その顔、可愛い」
もっと濃厚なキスをお見舞いされる。もう、朝からやめてー!
「わ、かりましたから!もう!私はこういうの免疫ないんですから、やめてください!」
「免疫ないから、今こうやって免疫つけてんだろ」
「いらないから!免疫!」
大胆になっていくにもほどがある。耳まで真っ赤になっている私を、パトリックは満足気な笑顔で見つめた。それからふっと目を細めて私の頭を優しく撫でながら、瞳を覗き込む。
「大城だった頃から我慢してたんだから、このくらいいいだろ」
だからそういうとこだよ!フリーズドライかってくらいにカッサカサだった元社畜OLに緩急つけたえげつない技使うのやめていただきたい。心臓がもたないから!
「よくありません。私たち、ここでは18歳ですよ?アラサーの色気垂れ流すのやめてください」
またすぐキスされそうな位置にある顔を、ぐぐっと押し返す。この距離はダメだ。顔が熱くて爆発しそう。
「お前だって中身はOLのくせに」
顔を押し返され、不満気な表情をする沢渡部長。
「百戦錬磨の沢渡部長と一緒にしないでくださいよ。私は仕事ばっかで、恋愛からは何年も遠ざかってたって、知ってますよね?」
「俺だって百戦錬磨なんかじゃないっつーの!そんなだったら、お前の恋愛嗜好探ろうとして乙女ゲープレイしたりしねーよ」
拗ねたように私の頭をわしゃわしゃする。せっかくメイドさんが綺麗にセットしてくれたのに!
「ちょっと!イライザはいつも隙なく綺麗にしてる公爵令嬢なんだから!やめてくださいよ!」
ぷんすかしながら手櫛で髪を整えていると、ちょっとだけしゅんとした顔をして沢渡部長も髪を一緒に直してくれた。
「だってさ、俺だけ浮かれてんの、悔しいだろ?やっと大城が俺のものになったんだぞ。そりゃ、はしゃぎたくもなるだろ」
しゅんとするな!可愛いかよ!どこまでキャラ崩壊するの沢渡部長!なんか、私が悪いみたいじゃん…。
「私も、付き合うとか学生の時以来で…。だから、ええと…。もうちょっと手加減していただけると…。できるだけ善処しますから…」
「善処するんだな?よし」
するっと私の指に自分の指を絡めると、沢渡部長がパトリックの顔でにやっと笑う。嵌められた!?
「これから、登下校は毎日一緒な。学園でも、できる限り一緒にいること。1人になるなよ?」
「えぇ!?無理でしょそんなの!それに、もう婚約者になったんだから、そんな心配いらないと思いますよ」
沢渡部長が、絡めた指にぎゅっと力を籠める。少しだけ真剣な表情になった。
「いや、マジで1人になるのはやめてくれ。俺が一緒じゃない時は、せめてメリッサといろよ。――特に、アランには油断すんな」
――沢渡部長?
「わかりました。ちゃんと気をつけますから」
少しだけ以前の沢渡部長に戻ったような真剣な声色とその様子に、私はなんだかただならぬ気配を感じて、素直に頷いた。
「うん。よろしくな」
沢渡部長は、そう言ってパトリックの美麗な顔に優しい笑みを浮かべ、私の頭をポンポンした。
だから、これずるいやつだって…。
その手の感覚が心地良くて、ちょっと悔しいけれど私はしばらくされるがままになっていた。
馬車が学園に到着し、御者さんからドアを開けていいかの確認の声がした。もう、毎回聞くのがデフォルトなのね…。
パトリックにエスコートされながら馬車を降りると、周りの生徒たちから歓声が上がる。
「おはようございます!パトリック様、イライザ様!」
「ご婚約、おめでとうございます!」
噂の広がる速度って恐ろしい。普通に皆知ってるって、どういうこと?いくら公衆の面前で求婚を受けることになったとはいえ、それまだ昨日のことなんですけど…。
「皆、ありがとう」
隣で華麗にパトリックが微笑む。ええい、頑張れ公爵令嬢イライザ。
「皆様、ありがとうございます」
負けじとできうる限り美しい笑顔で応えると、パトリックがちらり、とこちらを見て、満足そうに目を細める。私にだって、ちゃんとできるんですからね。
「やっぱ、お前はできる奴だ」
パトリックは私のことは何でもお見通しとばかりに、耳元に顔を寄せ、沢渡部長の口調で囁いた。
すれ違う人すれ違う人に祝福の言葉を掛けられながら教室に入ると、メリッサが待ち構えていた。
「イライザ様、おはようございます!今日こそは色々、聞かせていただきますわよ」
わあ、めっちゃ目輝いてるじゃん…。
だよね、そうなるよね。だけど、話せることは限られちゃうんだけど…。
まさか、異世界転生しまして、なんて話せるはずもない。どうやって説明しようか悩んでいると、横からパトリックが助け舟を出してくれた。
「メリッサ嬢、おはよう。実は、ずっと僕がイライザ嬢に片思いしていたんだ。イライザ嬢にはリアムという婚約者がいたし、この思いは胸の奥に秘めておかなくては、と思っていたんだけれどね。だけど、2人が話し合って円満に婚約を破棄したと聞いて、居ても立っても居られなくて、すぐに求婚してしまったんだ。晴れてイライザの婚約者になれて、とっても光栄だよ」
メリッサは、きゃー!の顔で、頬に手を当てている。悪役令嬢キャラは見る影もない。まあ、悪役落ちしてないけど。
「そうだったのですね!パトリック様がずっとイライザ様を…!素敵ですわ!」
うん…。確かに間違ってはいない?のかな?
「イライザ様、本当に良かったですわね!パトリック様は素晴らしいお方ですもの」
そうね。私の最推しだしね。顔面も強ければスペックも鬼強だしね。今は中身がちょっと黒いけど。
「ええ、私もこの上なく光栄ですわ。まさかこんなに早く、また婚約をすることになるとは思っていませんでしたけど」
ちょっと本音が滲んでしまった。だけどメリッサはそんなのお構いなしだ。
「善は急げですもの!慶事は早いに越したことがございませんわ!婚約披露はいつなさるのですか?」
――婚約披露!全然考えてなかった!そうだよね、第一王子の婚約だもん。何もしないはずないよね。そういえばゲームでも、どのキャラのルートに入っても婚約したら盛大に婚約披露してたわ!スチル満載のビッグイベントじゃん!
「婚約披露は一月後には行う予定だよ。メリッサ嬢の言う通り、早いに越したことはないからね」
当然のようにパトリックが言う。まさか、もうそこまで根回しを…?
驚いてパトリックを見上げると、当然、というように頷かれる。さすが元エリートリーマン、抜け目ない…。
この期に及んで逃げようとは思ってなかったけど、すでに周到に逃げ道は塞がれているようだ。
「ああ、楽しみですわね!イライザ様!」
自分事のようにはしゃぐメリッサを尻目に、私はおほほ、と乾いた笑いしか出てこなかった。
すべての授業が終わると、前の席に座っていたパトリックが振り返った。
「今日の生徒会の会議、申し訳ないけれど出席できなくなってしまったんだ。皆に伝えてくれるかな?」
そういえば、昼休みに王城の従者の人がパトリックのところに来てたな。何かあったんだろうか?
「ええ、承知いたしました。お伝えいたしますわ」
頷くと、パトリックが心配そうに言った。
「帰りも一緒にと思っていたけど、急いで王城に戻らなければならなくなってね。君の家にも迎えを頼んであるから、くれぐれも気をつけて帰ってほしい」
やっぱり、何かあったのかもしれない。
「わかりました。パトリック様も、お気をつけて」
「ああ、ありがとう。また明日ね。――本当に、気をつけて」
慌ただしく教室を後にする背中を見送る。あんなに心配するってことは、絶対何か起きてるんだろう。私はパトリックの言いつけ通り、メリッサと一緒に教室を出た。
生徒会室の前でメリッサと別れて1人部屋に入ると、もうすでにアランがいた。
「お疲れ、イライザ。昨日の今日で、俺の周りもパトリックとイライザの話題でもちきりだぞー」
わ…、いきなりアランと2人だけになっちゃったけど…。これは仕方ないよね?もうすぐ皆来るはずだし。
「ごきげんよう、アラン様。お騒がせしてしまって申し訳ございません」
「第一王子の婚約者なんて、すごいじゃん。パトリックがあんなにイライザのこと好きだったなんて、今まで気づかなかったわ」
そりゃあね…。こうなったのは私たちが転生してきたからでしょうしね。
「せっかくリアムと婚約破棄したっていうから、本気で落としにいこうと思ったのになー」
「またそういうご冗談を」
アランはゲームの中でもよくこんな軽口を叩いていた。いつものやつだな、とあしらおうとすると、不意にアランに腕を掴まれて引き寄せられる。
「冗談じゃないって言ったら、どうする?」
――いつものアランの雰囲気じゃない。その鋭い視線に身体が強張る。危険だって、頭の中で警鐘が鳴ってる。
「わ、私はパトリック様の婚約者ですよ」
慌てて離れようとするが、腕の力が強くてびくともしない。どうして?アランってこんなキャラじゃなかったはず。それに、他の皆はなんで来ないの?
どくどくと心臓の音が高鳴っていく。
入口のドアに送った私の視線に気づいたらしく、アランが言った。
「他の皆なら、来ないよ。今日はパトリックが出席できないから、会議は中止って伝えてあるから」
「どう…して?」
「色々事情が変わってさ。ごめんね、イライザ」
アランはそう言うなり、さっと私に何かの小瓶を嗅がせた。
「!!」
咄嗟に顔を背けようとしたけど、間に合わなかった。
くらっと視界が歪み、意識が遠のく。
沢渡部長、ごめんなさい。1人になるなって、アランに気をつけろって、あんなに言われたのに…。
襲い来る眩暈に抗いようもなく、私は意識を手放した。
気がつくと、私は後ろ手に縛られて、ビロードの張られた座席に転がされていた。
身体を揺らす振動と音。どうやら、馬車で移動させられているようだ。ご丁寧に足も縛られ、猿轡まで嚙まされている。
身を捩って顔を上げると、アランと目が合った。
「あ、イライザ、起きた?悪いな、途中で目を覚まされて大声出されると面倒だったからさー」
にこっと笑って、アランが私の身体を起こし猿轡を外す。いつものように軽いノリの笑顔だけど、目が笑ってない。なんだか背筋にうすら寒いものを感じた。
「ここは?一体どういうこと?」
ぎろっと睨みつけると、アランが苦笑する。
「まあ、そう怒るなよ。って、怒るかぁ。もうすぐネメシアに入るから、そうしたら手足の拘束も解いてやるよ」
ちらりと窓に目をやると、カーテンの隙間から茜色の空が覗いた。どうやら、気を失ってからだいぶ時間が経っているようだ。国境が近いのも嘘ではなさそう。
「アラン様の国に?なぜ私を攫ったの?目的は?」
強い口調で問い詰めると、さっきまでヘラヘラしていたアランの顔から、急に表情が消えた。
「クーデター」
「クーデター?」
「俺の父上、つまりネメシア国王が、昨夜叔父に殺された。今、ネメシアは叔父に支配されてる」
「――!」
背中に冷たいものが流れる。これ、もしかして…。
アランルートのバッドエンド!
ラブソニのアランルート。バッドエンドはアランの国ネメシア王国でアランの叔父によるクーデターが起きて、アランは白魔法が使えるアンジーを攫って母国に戻る。そこで魔法の力を使って叔父を倒そうとするけど、寝返った国王の臣下たちに囚われ、処刑されてしまう。
その後アンジーは人質として、この国カンパニュラ王国とネメシア王国との取引材料にされてしまうのだ。
だけど、それはアンジーが貴重な白魔法の使い手だったから。私は白魔法なんて使えないのに、どうしてアランは私を連れてきたの?そもそも、アンジーはアランルートには入らなかったのに、何故このバッドエンドが?
「私を連れて行ったところで、どうにもならないはずよ?白魔法も使えないし、何の役にも立ちはしないわ」
「そんなことないさ。イライザは公爵令嬢で、第一王子の婚約者だ。隣国カンパニュラの第一王子の婚約者を連れてきたとなれば、迂闊に手出しもできないはずだ。それに、カンパニュラの貴族の中でも最上位の公爵の令嬢を嫁にできれば、ネメシアでもハクがつく。今ここの王族には、残念ながら王女がいないからな。――だけど、そんな御託より何より、俺がイライザを欲しいんだ」
アランが真剣な目で近づいてくる。頬に触れられ、びくっと身体が震えた。どうして?アランがそんなに悪役令嬢ポジだったイライザに執着する理由がわからない。ゲームの中ではもちろん、そんな描写はなかった。
「なぜ、私なの?」
聞かずにはいられない。こんなに訳がわからない状態じゃどうにもならない。
「一夫多妻制のネメシアでは、弱い女はまず生き残れない。イライザみたいに、魔法も人並み以上に使えて、いつも胸を張って、まっすぐ自分の意見を言える女じゃなきゃ。そう思ってずっと見てた。前は、嫁にするならこんな女がいいなってくらいだったのに、ここ数日のお前は以前に増して格段に魅力的になった。気が強いだけじゃない、何か別の魅力が感じられるんだよ。パトリックがお前を変えたのか?とにかくよくわからないが、こんないい女、諦められるかよ。俺にはお前が必要だ。俺は必ず王座を奪還する。お前は俺の隣で王妃になるんだ」
何勝手なこと言ってんの!?いくら大変な状況だからって、こんな人攫いみたいなこと、許されるはずない。
「クーデターでお父様を亡くされたことは、お悔やみ申し上げるわ。だけど、私はあなたとは行けない。私はパトリック様の婚約者よ。パトリック様だってきっと、あなたを許さない」
「だろうな。でも、もうすぐ国境を超える。ネメシアに入ってしまえば、パトリックだって簡単にはお前を取り戻しに来れないぜ」
「だけど!あなただってネメシアに帰ったら、叔父上様に命を狙われるのでしょう!?あなたのお父様の臣下の人たちだって、叔父上様に寝返っているかもしれないのよ!?」
そうだ、アランだって、バッドエンドなら囚われ処刑されてしまう。そんなのは嫌だ。絶対に回避したい。いくら追い詰められてこんなことしてしまったんだとしても。とにかく今は、アランをネメシアに帰しちゃダメだ。
「確かに、父上の臣下たちはもうダメだろうな。だけど、まだ俺についてくる奴らはちゃんといる」
「本当にその人たちは信用できるの?勝算はあるの?私はあなたを死なせたくない」
「こんな状況なのに俺の心配?やっぱり、俺の嫁はイライザしかいないな」
そんなこと言ってる場合じゃないっつーの!キスされそうになって思い切り顔を背ける。手が自由ならぶん殴ってるとこだ!ゲームの中では楽しくアランも攻略させてもらったけど、現実ではパトリック以外の人なんて考えられない。想像しただけでぞっとする。
「絶対に今帰るべきじゃないわ!もっとちゃんと策を練らないと!これじゃ、やられに行くみたいなものよ!」
私が叫んだ瞬間、馬車が急停車した。
手足を縛られたままの私の身体が、宙に投げ出される。アランが自身もバランスを崩しながらも、なんとか私を抱きとめた。抱えられたまま、ドカッと馬車の壁に叩きつけられる鈍い感覚。
「ってぇー!どうした!?何があった!?」
強かにぶつけた頭をさすりながら、アランが叫ぶ。と同時に、馬車のドアが勢いよく開け放たれた。
「イライザ!!」
夕闇に浮かぶ、最推しのシルエット。
「パトリック様!」
アランの腕から奪い返すように、パトリックが私を抱き寄せる。
「よかった!間に合った!」
いつものパトリックの香りに包まれて、緊張の糸が切れる。全身の力が抜けていく。
途端に、身体が震えてきた。私、やっぱりすごく、怖かったんだ。
「――っふっ」
安心したら涙が込み上げてきた。どうしよう、止まらないよ…。
私はパトリックの胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
私が泣き止むまで、パトリックは黙ってぎゅっと強く抱きしめ、私の髪を撫でていてくれた。
「もう大丈夫だから」
何度も、そうやって優しく声を掛けながら。
「よく、追いついたな」
パトリックの護衛騎士たちにぐるりと取り囲まれた馬車から降りてきたアランが、ぼそっと言った。
拘束を解かれた私の、赤くなった手首を撫でながら、パトリックがアランに怒りの籠った視線を送る。
「今日の昼には、ネメシア王国でクーデターがあったことは聞いていたからな。その前から、不穏な動きがあるという話は耳に入っていたし。だからきっとアランはネメシアに向かうはずだとは思った。まさか、学園内でイライザを攫うとは思ってなかったけどな」
確かにそうだ。ゲームではアランが母国に向かうのは夜だったはずだ。
「公爵邸の警備は厳重だからな。イライザを連れ出すなら、学園しかないと思ったんだ。パトリックが王城に戻ると聞いて、あのタイミングしかないってな」
ゲームでは貴族じゃないアンジーを攫ったから、夜だったってことか。警備がないなら、夜の方が人目につかない。
「まさか、他の生徒会のメンバーを全員帰すとはな。帰り道が狙われると思って警備を固めさせたのに、裏をかかれた」
パトリックが悔しそうに眉間に皺を寄せる。
「それだけ、俺も本気でイライザが欲しかったってことだよ」
自嘲するような口調で、アランが言った。それから、バツが悪そうな顔で私を見る。
「悪かったな、イライザ。怖かったよな。――俺、だいぶ周りが見えなくなってた」
父である国王が殺されたんだ。冷静でいられなくなっても無理はない。でも。
「自暴自棄になるのは、もうやめてくださいね」
本当に怖かったんだから。あのままネメシアに入って、バッドエンド通りになっちゃったら、どうしようって。
「ああ、一度落ち着いて、策を練る」
よかった。アラン、いつもの表情に戻ってきた。
その表情の変化を確認するように、じっとアランの顔を見ていたパトリックが言った。
「その件だが、アラン。このままうちの王城に来るんだ。お前がネメシアを取り戻せるよう、手を打ってきた」
え?どういうこと?放課後急いで王城に帰って、もうその算段をつけてきたってこと?
驚きを隠せない私の隣で、アランもぽかんと口を開けている。
「は?パトリックが?俺がネメシアを取り戻せるように?どうやって?」
「それは、王城で説明する。まずはここを離れるぞ。アランは自分の馬車に乗れ。イライザはこっち」
パトリックが私をさっと抱き上げる。ちょっ、ちょっと!お姫様抱っことか聞いてないから!
驚いてバランスを崩しそうになった私を、パトリックがさらにぎゅっと強く抱きしめる。
「イライザ、ちゃんと掴まってて。危ないから」
じゃあ降ろして、と言いたかったけど、パトリックの真剣な顔を見たら言えなかった。本当に、ものすごく心配して、必死で助けに来てくれたんだって、伝わったから。
私は躊躇いながらも、大人しくパトリックの首に腕を回す。そんな私を見下ろして、パトリックがふっと優しく笑った。
そんな私たちの姿を見ていたアランが、ぽつりと呟く。
「なんかパトリック、口調とキャラ変わってない?」
パトリックは聞こえないふりをして、さっさと私を抱えて自分の馬車に向かった。
馬車に乗り込むなり、パトリックにぎゅっと抱きしめられた。
「よかった、間に合って。本当によかった」
抱きしめる手が、微かに震えている。パトリックも…沢渡部長も、怖かったんだって気づいて、私もそっとその背中に手を回した。
「私…ごめんなさい。アランに気をつけるように言われてたのに、生徒会室で2人になっちゃって…。助けに来てくれて、本当にありがとうございます」
自然と素直に言葉が出た。こんなに必死な姿を見せられたら、いつもの可愛くないセリフなんて引っ込んでしまう。
「お前がネメシアに入ってしまったらと、生きた心地がしなかった。悪い。俺が後手に回ったばっかりに、お前に怖い思いをさせた」
前世でも、こんなに余裕のない沢渡部長の姿は見たことがなかった。いつも無表情のまま、無理難題も事もなげに片づけていたのに。
「後手になんて…。ちゃんと私が攫われたことに気づいて、助けに来てくれたじゃないですか。しかも、ネメシアをどうするかの算段までしっかりつけて」
「いや。絶対にお前を1人にしちゃいけなかった。ゲームの展開と違っていることも、アランがお前を相当気に入っていることもわかってたのに、夜までは大丈夫なはずだって油断した。絶対に油断が許されない場面でだ。俺が悪い」
微かな声の震えを感じ取り、パトリックの顔を見上げる。白く美しい陶器のような肌が青ざめていた。
私はパトリックの背中に回した手に力を籠める。今こそ、ちゃんと伝えなくちゃ。
「大丈夫ですよ。すごく怖かったけど、私、ちゃんとパトリック…沢渡部長が来てくれるって信じてたんです。だって、いつだって沢渡部長は私のこと助けてくれたから。――初めて任された大きな案件のプレッシャーに負けそうになってた時も、頑張ってもなかなか結果が出せなくて落ち込んでた時も、いつも突然現れて何かアドバイスしてくれたり、ヒントをくれたりして、さらっと助けてくれてたじゃないですか。それって、私のこと本当にちゃんと見ていてくれたんだなって、気づいたんです。だから、絶対に沢渡部長なら来てくれるって思ってました」
沢渡部長が、後悔や恐怖が綯交ぜになった顔で私を見つめた。
大丈夫。もう怖くないから、そんな顔しないで。
「沢渡部長、ありがとうございます。いつもいつも、私のこと見守っていてくれて」
伝わったかな?私の思い。お願い、伝わって。
思いを込めて見つめていると、苦し気に強張っていた沢渡部長の表情が、少しだけ和らいだ。
「大城…。悪い、情けないとこ見せたな。お前を失ってしまったらって考えたら、冷静じゃいられなくなった。もう、二度とこんな思いはさせないからな」
うん、きっと伝わった。私も微笑んで、もう一度沢渡部長をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、大城」
沢渡部長はそう言って、強く私を抱きしめ返してくれた。
王城までの間、私たちはなんとなく離れがたくて、指先を絡め2人寄り添ったまま馬車に揺られた。なんだか、色々な気持ちが通じ合ったような、不思議な感覚。今までになく沢渡部長の存在を、心を、とても近くに感じた。
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