蜜の味
「はぁ……」
思い返せばため息しか出ない。私をどれだけ不幸にしたいのか。幸せと不幸を同時に味わっている気分だ。
「どったの?」
「あー、うん、いろいろ……ありまして……」
廃業寸前の仕事先『心』は私と店長しかいない。今日も今日とて閑古鳥が鳴いている。泣いているの方が正しいかもしれない。
「まあ、君がお客としてくるのが何かあったんだろうなって」
「昔の友人が、まあ、その、面倒くさくなってて……いや元々か……」
首元の傷のヒリヒリは既に無くなっている、というか傷すらもうない。まるで私も同じになったのかと思うくらいに。
「あんまり考え込まない方がいいよ? 私みたいになっちゃうから」
「店長になれるなら、それならそれでいいですよ」
「自分で言うのも何だけど、面倒だよ?」
「重々承知してます」
笑いながら頭を小突かれた。強くも弱くもなく、痛くない。まるであの時みたいな。
「もうそろそろ終電の時間だけど帰らないのかい?」
「遅くなるとは言ってあるので大丈夫だと思いますけど。もう子供じゃないんですよ」
「そうは言っても、私から見たら従業員皆子供みたいなものさ」
たいして私たちの年齢は変わらない。精々四個くらい。
「子供といっても、私の好みの女の子になったって感じだけど」
「…………そうですか」
「もうちょい喜びなさいよー」
いや、別にって感じ。
普段飲まないお酒が回り始めてきた。私も仕事で味見という観点で口にするが、酔うために口にする訳ではない。甘い、辛い、苦い、いろいろあるが甘いのしか飲めない。
「悩みがあるって、それだけで素晴らしいものだと私は思うよ」
「慰めですか?」
「いーえ、悩んでる姿でお茶が美味しいってだけ」
「バカ」
「おうおうそれだけ言える元気があるなら大丈夫だな」
きっと、店長なりに励ましてくれているんだと思う。この人にとってどうでもいい話なのに真摯に向かってくれていると思うと。
「でも実際そんなの本当にいるのかねぇ」
「実際に名刺も、その、被害じゃないですけど実体験者がここに」
「ファンタジーの世界じゃあないんだ。夢でも見てるんじゃないのかい?」
「現実を見ろって事ですか、じゃあ本当にそれは現実ですよ」
「にわかに信じ難いけども……まあ、可愛い従業員が言ってんだから。悪い夢ならいつか醒めるさ」
そう言い残してカウンターを出ていった。どうやら店じまいの時間になったみたいだ。
「そんなに飲んでちゃ動けないだろう。送ってくよ」
自宅兼店舗の店長は片付けを後に、私を車に乗せた。流石に車の運転をしなくてはならない事もあるから営業が終わるまでは一滴も口にしない。こういう事(私)があるから。
助手席のシートに深く腰かけ、背もたれを少し倒す。このまま眠れそうだ。お世辞にもいい車とはいえないが、とても落ち着く。実家のような安心感とでもいうのか。自宅からは地下鉄で十駅くらいだから歩いたら二時間は余裕で掛かる。車でも三十分くらいだ。
「ごめんごめん待たせたね」
「遅いですよ、寝ちゃうとこでした」
「寝たら写真撮るだけよ」
「ヘンタイめ」
冗談言い合う仲ではあると思っているが店長はどう思っているか分からない。今まで会ってきた仲で会った事の無いような人だ。不思議。
「このままホテル行っちゃおうか」
「なんでそうなんですか」
「私の好みだから」
「残念ながら私にはまだそういうのは早いので」
「残念ね、でももう少し話たいから少し遠回りしてもいいかしら」
「お好きにどうぞ」
自宅とは反対方向へ行く。繁華街の方向だった。とはいえ深夜の繁華街へ向かう道路は車通が少なかった。
「私ね、付き合ってる彼女がいるんだ」
カーステレオから流れるラジオはなんの面白みもない、何かの再放送のようだ。映像でも面白くない物を淡々と見てきた私が耳から聞くだけの物で頭に映像を浮かべたり出来ない。想像力が乏しいから。
「家の事何もしないしお金の使い方は酷いし、酒癖も悪い。寝相も悪い。会ったこと無い従業員がいるじゃん?あれ、私の彼女」
「へぇ、なんでそんなのとまだ付き合ってるんですか」
「なんでって、好きだからよ」
「変ですねホント」
「変なのよ私は」
ラジオから流れる年代物の音楽は私の知識に無い音楽だ。母も世代では無いだろう。
車は郊外へ出て海沿いと呼ばれる所へ。とはいえ海はまだまだ先だ。
「私たちに共通の知り合いがいるんだけど、その子と彼女ね」
声色を何一つ変えずに、でも寂しさが含まれている様な。
「キスしてたんだ」
「浮気されてたんですか」
「うーん、まあそうかもね。でももう半年以上前のことだから」
「結構最近……」
「そう?半年ってたらもう前の事だと思うけどね」
「でもなんでそんなに平気そうなんですか」
「そりゃあもちろんショックだったよ、信じてたのに裏切られたんだから」
昼間私も同じ事を思ったのかもしれない。ただ、まだ信じきれてない私の姿もそこにはあったと思う。
「別れないんですか」
「私はそのつもりはない。あっちから切り出してきたら……その時はその時ね」
そういえばその会った事の無い従業員はシフトも半年前から休みになっている。
「あーあ、こんな話する訳じゃなかったのになぁ」
「どうせどこかのタイミングで言ってきたでしょ?」
「ま、それもそうね」
暗闇を切り裂きながら車は走っている。多分相当自宅からは離れている。とはいえ付き合うと言ったのは私なので、大人しく助手席に座っている。
「君は好き人とかいないの?」
「今はまだ」
「どう、私と浮気しない?」
「残念ながらお断りです」
「そうよねー、年上は嫌よねー」
カーステレオのラジオは、オリコンヒットチャートを流していた。音楽はあまり聞かないのでほとんどが分からない。星がどうとか、夢がどうとか、愛がなんとか――明日がどうだとか。
「好きな人が出来たら教えてよね、その時はすっぱりと諦めるから」
「あー、あー。はいはい。ていうか本当に好きだったんですか」
「マージ」
車は海沿いから別の繁華街に向かう方向、つまり私の自宅に向かっていた。やっと布団に入れる。昼間の事なんてこの頃はもうすっかり忘れてしまっていた。
シャワーだけ簡単に浴び、寝る準備をする。身体もう睡眠を取れる状態になっている。まだやや酔っている身体に水を入れ、自分の部屋に向かう。
扉が開いていた。全部じゃなくて、閉めきれなかった感じに。
「扉、開いてる?」
入ろうとノブに手をかけ開けようとした。すすり泣く声が聞こえる。
「……ちゃん、お姉ちゃ……」
遅くなるとは言ってあったが、これ程遅くなるつもりもなかった。妹はかなり寂しがり屋なのだ。
ベッドでは一人泣いている妹が寝ていた。自分の部屋じゃなくて私の部屋で。非は私にあるので何も言わない。今日くらい甘えたっていいだろう。だって私が悪いし。
静かにベッドの空いているスペースに体を挟み込む。
「ただいま、遅くなってごめんね」
優しく頭を撫でた。あの時よりも。
心なしか表情が穏やかになった気がする。
手を取ってそのまま眠りについた。
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