牆壁

忌音生

最終話


殺してしまった。



 ここで用いた「しまった」という表現は、例えばでっぷりと太った団栗を見つけて筆箱に「仕舞った」幼少のように、のちの悔恨と抱き合わせた急峻な情動を含意しない。

 寧ろ、その対蹠点に存在する思惑の顕れだと考えていただいて差し障りない。熱り立った悋気が冷えた鈍をついに彼の胸に押し当てたという、ひどく物理的な接触の帰結を示す。


 案外私に抵抗はなかったし、意外彼も抵抗をしなかった。戸棚の下から菜刀が取り出だされ、溷濁を映す力なき眼がそれでも的を見定め、喜悦を溜め込んだ肺腑が乱暴な再構成を余儀なくされるまで、その過程の一切に於いて、彼はただ、鴛鴦のごと黙りこくっていたのである。


 愚見に依拠する論辯を遅蒔きながら張るとすれば、原始的な暴力への反抗というものは、倒懸の苦悶を感じる前に開始すべきである。

 一たび懐中を許せば、犀利な刃によって手前の胸が抉り返される様を拱手傍観する他ない。狂悖暴戻の溢者にとって、骨の浮いた細い咽喉の跳ねる様は、兇刃の抜挿を促し、剰え雄峰の聳峙を亢進させる刺衝たりうる。


 ただ、噛み殺せど嚙み殺せど溢れ出す彼の歔欷は、幾許かの驚きと慄きを孕んでさえいたが、窮状泣訴や狂瀾抗拒などと書き表される卑陋な響みを含まず、大方は迚も斯くてもといった諦観であるように感ぜられた。

 そんな私の見立てを知ってか知らずか、末魔の叫喚は次第に──或いは迅速に──止んだ。汎ゆる生命が劫末を迎謁するまで、同じ並びの細胞群が端無くも成立しないようにと、丑の刻詣でに擬えた願が逸速く副次的な霊験を示したという視座も成立しよう。屍体は物に過ぎず、人形代の要件に対する剴切な解である。恐らくは。


 鉄の寂静が狭小なる栖に立ち込め、グレナデン・シロップを切らしていたことを思い出す。嗚呼、下腹の魂胆を覆い隠すように並ぶ小洒落た瓶は、数百竓の矮躯にそぐわない厖大な冀求を、ついぞ不結果に終わらせたのだ!引換に譲り受けた鈍麻した舌では、潸然と下る泪の塩辛さを憶えることも叶わない。

 だが、それが何か不都合を生ずるかと問われれば、返答に窮することもまた純然たる事実である。ありえたかもしれない未来の記憶、すなわち互いの唾液が封蝋のように唇を塞ぎ、冷蔵庫が低く呻るその時々のこと、これらが合切喪われたとする野放図な悵恨が拵えた甘美な虚妄に溺れているに過ぎない。


 ここで私がはたと思案することは、精到な殺害計画の頁を仔細に眺めようとも、事後の筋書きが全く欠落していること。確かに過去の私は逃避行の旅程を(掻い暮れ)書いてくれなかったが、もとより逃げ遂せるなどという考えはこればかりもない。(さりとて残渣の日々を粛々と贖いに徹する摯実な心を持ち合わせているはずもなく、命脈等々は麁略に擲つ心算である。)


 ただ、ただ、ただ、眇眇たる一点でも、私の手によって、変じることができていたなら? 私が、"私"でなかったなら?


 否、自らに諄々と戒飭する。暗澹たる堂々巡りの自己否定から逃奔できる、ぽつねんと冴え渡る慥かな解法を、「これしかなかった」と。



 彼の腹に撒かれた腥い汁を摘み掬い口に運ぶと同時に、只ならぬ気配に怯えた隣人は善良な市民としての責務を果たすべく震える手で通報を完了させたという。

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牆壁 忌音生 @IMU-OTO-UMI

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