差し馬
ホリデータカナは、初めての皐月賞を前に緊張していた。
芝2000mのGIレース。もし勝てれば、念願のGIウマギャルだ。
優秀で信頼できるトレーナーのもとで、血のにじむようなトレーニングを繰り返してきた。2000mという距離は逃げ馬のホリデータカナにとって決して短い距離ではないが、最後まで脚を持たせるためのスタミナとパワーは身に着けたつもりだ。
もちろん、ライバルは手ごわい。
ニコニコバンジーは強烈な差し脚でGI二連勝中だし、ケガから復帰したばかりとはいえ、老獪な走りでゴール前に残るコンビニガラスも要注意だ。今日は馬場もあまりよくないので、怪物並みの脚力を誇るスタッドレスもマークから外せない。みんな、このレースを狙って十分な調整をしてきている。
だが、パドックに見慣れない異様な姿のウマギャルがいて、そいつが最も記者の注目を集めていた。
カンチョーイッパツという地方の馬だ。
戦歴をトレーナーが確認していたが、はっきりしない。GIに出走しているのだからそれなりの戦績があるはずだが、データベースを漁っても、差し馬ということ以外、何もわからない馬だった。
それが本番当日になってやっと姿を見せたのだが、ホリデータカナを含め、見た全員が困惑していた。
まず、どう見てもオスである。ウマギャル協会では、オスの出場は認めておらず、テストステロンの量で出場制限をかけているはず。なのに、どう考えてもあれはマッチョのオスだ。
そして、衣装がふんどし一丁だ。これもちゃんとした規定があるはずだ。ウマギャルはレースに勝った選手がレース後のステージに立って歌うことになっているが、ふんどし一丁でおっさんが歌うというのか。
どう考えてもおかしい。
なのに、誰も止めなかった。
あまりにもおかしいものが出てくると人間は思考が止まるというが、その類かもしれない。タカナも、深く考えないことにした。
ファンファーレが鳴り響き、各ウマギャルがゲートに入る。
ホリデータカナもゲートに入り、集中力を高めた。スタートダッシュは逃げ馬の必殺技だ。何としても成功させなければならない。
スタートの合図とともに、タカナは必死でスパートした。
その甲斐あって、序盤で先頭に立つことが出来た。
ちらりと後方を確認すると、馬列は結構縦に長く伸びており、このアタックが集団にダメージを与えたことが伺えた。タカナは心の中で、小さくガッツポーズした。
実況を覆い隠すほどの歓声に、タカナの気持ちは最高潮だった。
『序盤から逃げる逃げる、ホリデータカナ。4馬身離れてスタッドレス、コンビニガラスがそれにつける。さらに後方にはタイミングを計るニコニコバンジー』
ニコニコバンジーの動きが気になるが、後半に入ればみんながペースを上げてくる。この馬場に対応できていない他のウマは落ちていくだろうが、スタッドレスだけは注意しなければ…。
「ああっと後方で落馬です。オイルスラッジが落馬」
観客から一瞬戸惑いの声が上がるのをタカナは聞き逃さなかった。
オイルスラッジは最後方付近を走っていたはずだ。何の問題もない。
『ああ、さらにピンクスライムも落馬、その前でもダーティーフィルター。これはどうしたことだ、後方にいたウマギャルたちが次々に倒れていく』
観客のどよめきが大きくなる。後方で何かが起きている。
だが今のタカナに後ろを振り返る余裕はない。
『カンチョーイッパツがするすると追い上げる。抜かれたウマギャルたちが次々に落馬。すでに4頭が倒れている。ああ、とうとうスタッドレスも失速だ』
ただならぬ事態が後方で起こっている。
だがまだタカナは振り返れない。ニコニコバンジーが残っているからだ。彼女は必ず先頭まで上がってくる。落馬より、負けるほうが怖い。
『審判団から報告ありました。カンチョーイッパツ、追い抜きざまに他のウマギャルにカンチョーをしているようです。カンチョーイッパツ、カンチョーをしながら上がっている。これは妨害だ。許されない妨害だ』
(…なんて?)
タカナは、実況の言葉が一瞬理解できなかった。
(カンチョー、カンチョーってなんだっけ)
『各ウマギャル、お尻を押さえてうずくまっている。相当深く刺さったものもいるようだ。これは競争中止か』
(カンチョー、って、あのカンチョーか!)
タカナは、やっと状況が飲み込めた。
あのふんどしマッチョが、信じがたい末脚でこちらに向かっているのだ。追い抜きざまにウマギャルの肛門に指を突き立てながら。
後ろから悲鳴が上がる。コンビニガラスだ。
とうとうタカナは後ろを振り返った。
必死の形相でニコニコバンジーが上がってくる。
その後ろに迫っているのが、ふんどしをたなびかせたマッチョだ。
(殺られる…!)
タカナは前に向き直り、ペースを上げた。
逃げ馬にとって地獄と言われる最終コーナーの追い込みだが、泣き言を言っている暇はない。また後方で悲鳴が聞こえる。ニコニコバンジーだろう。彼女の末脚をもってしても、奴は引き離せなかったのだ。
タカナは覚悟を決めた。
ここは皐月賞だ。ふんどしマッチョにトロフィーを与えるわけにはいかない。
限界を超えて速度を上げる。視界が白く狭まってくる。
それでも、前へ。とにかく、前へ。
2000mを逃げた最後のスパートとしては史上最高速と思われる速度で、ホリデータカナはゴールを駆け抜けた。
新たなGIウマギャルを、観客の大声援が出迎える。
もう一歩も走れない。酸欠の頭でもうろうとしながら、その場に膝をつく。
立ち上がれるわけもない。四つん這いのまま、うつろな目でトレーナーを探す。
トレーナーがコースに飛び込んでくる姿が見える。あの人のために、どうしても勝ちたかった。
そこに、最後まで彼女を追い詰めたライバルが後ろから近づき、両手の人差し指を揃えて彼女の尻に突き立てた。
皐月賞のTV中継は、そこで途切れた。
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