育美の聖地巡礼旅①
この時、十三時二分。
大きなキャリーバックはすでに秋田駅のコインロッカーに入れていた。身軽なリュックひとつに一日分の着替えと、史上唯一大河兼任をテーマにした古本と、必要最低限のものを入れている。
育美は駅から南へ少し歩き、
ここはなにげない田舎の住宅地。史跡や名勝などなにもない。近くに八郎潟が広がるも、ここからでは宅地と防波堤と並木でよく見えない。それでも育美にとっては聖地巡礼なので、ワクワクする。
「ここが
と、辺りを見渡す。とある電柱に住所が記されていた。ここは"
「なにこれ、
そんなわけないけど、育美は見慣れないパターンの地名が面白くて、スマホで写真を撮った。
「ていうか、どうしてそんな名前になったのかな?」
育美は、
「でてこない……」
ヒットするのは住宅情報と地図情報ばかりだったので、諦め、八郎潟方面を散歩した。
住宅地から広い水田地帯にでる。この境目が微妙な下り坂になってるので、
「なるほど、ここからが昔の八郎潟なんだ。きっと大河次郎がいた
と想定できた。そうなると、その時代の風景が脳裏から見え始める。
ーーーーーーーー
開拓前の八郎潟は広大な汽水湖で、十余槽の中型船が脇本湊から大川湊を往復する。小型漁船の数は数えきれない。ワカサギ、シラウオ、ウナギなど様々な魚類からシジミまで、数多の海産物を取っていた。
この大川は河川湊で栄える中堅の町だ。すぐ北東の山で製鉄所があり、これを軸にして莫大な富をなしている。奥州は古代から
ちなみに八郎潟開拓計画は
そこに農業開発しか知らない東国武士が、兼遠ら藤原氏旧臣たちの上役に送られたのだ。
この男、父とともに
公業は、
兼任は、驕る公業に言われた。
「この館はワシが使う。お前は本領へ退け」
兼任は承服できない。
「ここよりも、平泉の出先だった秋田城で良いではありませんか!」
それが当然だと信じていた。秋田城は古来より出羽国の監督官庁の役目を持っていたからだ。
しかし、公業は聞かない。
「ダメだ。お前は馬場目川に戻れ」
「それがしは、平泉のいくさに加わっていません!」
「一族が参陣したではないか。連帯責任だ。どちらにしても罪人源義経を匿ったうえ、鎌倉の裁判にもかけずに勝手に殺し、鎌倉殿(源頼朝)にまで刃を向けた。その罪は重いから、小鹿島を取り上げたのだ。だからさっさと退け。あ、妻子は人質にするから残しておけよ」
兼任と家来衆は公業の家来衆に刃を向けられ、館の外に放り出された。色白美人の妻は公業の妾にされ、子供達は牢屋に放り込まれた。
取られたのは脇本のみではない。領地のほとんどが没収され、兼任の土地は八郎潟より東側まで減らされた。
十一月、雪が積もる奥州に、橘公業は大河兼任ら地頭にとんでもない命令をだした。
「農地を開拓する。ここは荒地ばかりで開拓し放題だ。先ずは
無論、兼任は反対した。
「無理です。雪の季節は始まったばかりですぞ!」
「昨日の雪はそんなに積もらなかった。だから大丈夫だ」
「せめて雪解けまで待ってください。冬はむしろ製鉄に力を入れるべきです。八郎潟の開拓も賛同できません。漁や貝で生活してる者も多いうえ、大量の鉄を船で移動できなくなります」
「漁取りなんか辞めて、米を作ればよい」
「そもそも米に不向きな土地です」
「鉄を運ぶなど、陸路で構わんではないか」
「数が限られます」
「浅い潟だぞ。大船は入れない」
「舟一艘で牛馬十頭ぶんの荷物は運べます」
「ワシの言うことやることに、いちいち口出しするな。妻子を殺すぞ!」
開拓は結局、強行された。この一ヶ月、昼夜天候を問わず、駆り出された民衆は苦しんだ。凍死者や餓死者が日を重ねるごとに増える。
兼任は眼前の悲しみに涙しても、公業は遠目で、
「全ては鎌倉殿に貢ぐためだ」
と繰り返し、知らん顔を貫いた。
民の悲鳴は増えるばかりだ。
「土地を耕してるのか雪かきしてるのか分からん!」「みんな凍え死んでしまうぞ!」
など、その声は次第に荒れ、高まる。
十一月、白銀の世界。公業は、開発が進まない現状にイラついた。
「製鉄所を取り上げ、我が直轄とする」
「来年から全ての物品に一割の税をかける」
「来年から牛馬や船を動かす毎に税をかける」
「来年からインボイスを導入する」
「来年から要介護の一と二の保険を外す」
「武器を増やすから増税だ」
「鎌倉殿に金品を送るから新税を設ける」
と、押し付けた。
無論、領民は激怒の声を高める。
「闇雲な税取りだ! 我らを飢え死にさせる気か!」
なぜ急かす? なぜ焦る? 公業の政治は、理屈もなければ大人の余裕もない。
源頼朝は昨年、正二位に昇叙した。だが、もっと上に登って武家の長としての威厳を確かなものにしたかった。そのためには征夷大将軍の座に着かないとならない。ゆえに昇官運動費はバカにならない。もし将軍になれば、その権力に相応しい自立基盤の所有が必然的に認められる。
平清盛は将軍になれなかったが、従一位
この現状から脱したい。
だから頼朝の目標は簡単である。
名実ともに平清盛を超えることである。
大河兼任は分析した。
ーー公業様は頼朝様の非力を知ってる。だから、その手始めが我が秋田郡なのだろう。東国武士を執拗に差別した平家を打倒し、敵を無くした。頼朝様は東国武士の目覚めを避ける為、我が藤原様を敵認定して滅ぼした。しかし今、刃向かえる敵はどこにもいない。忠義を尽くす東国武士の中にしかいないのだ。だから頼朝様が迷走を始めた。その証拠がこの増税祭りだ。あまりにも急ぎすぎている。ならば放っておいても東国武士連中は、頼朝様の価値のなさに気づく。頼朝様は殺され、鎌倉は暴走ののち共倒れするだろう。それでも構わないが、その前に我らが公業様に潰されてしまう。今の我らは、平家に虐められていた頃の東国武士と同じぞ!
これに対する答えは二つある。
だが今は、これしかない。
「決起だ!」
兼任は気持ちを昂らせ、家臣に命じる。
「我らがこの調子なら、他の藤原旧臣も同じはずだ。連絡をとり、共に立ち上がりろう。皆が慕った藤原様と義経様を窮地に落とした鎌倉武士を、この奥州から放り出しそう。決起は早い方がよい。ワシは今すぐにでも戦うと伝えろ!」
家臣たちは喜んで、各地に散った。
橘公業は、大河兼任と領民のサボタージュに激怒し、数百の手勢を率いて大川に出陣する。
しかし、それを見据えた大河兼任の軍勢の方が圧倒していた。そのうえ未だ各地から兵が集まる。その数、現在一万。
大河兼任は正門の櫓から腕組みして、動揺する橘公業の軍勢に叫ぶ。
「見たか。この差が、お前の統治に対する奥州の答えだ!」
橘公業はビビりを押し殺し、強がる。
「ふん、鎧も刀も買えないクズの上に女子供まで混じってる寄せ集めではないか! たとえ数百でもこちらはいくさの専門集団だ。その上、ワシは数多のいくさで名が知れた弓の達人。恐るるに足りないわい!」
「ならばどちらが強いか、今すぐ確かめてやる!」
兼任は弓を握り、鏑矢を放った。
橘勢の旗指物が浮き足立つ。
公業は怒鳴った。
「やいてめぇ、ド素人が崇高なる鏑矢を放つんじゃねぇ!」
大河勢は橘勢にむけ、数百もの矢の雨を降らせた。
橘勢は矢をよけ、斬り落とすも、あまりの多さに命中して死傷する者が多数現れ、たじろぐ。
味方の兵たちがそれを見て馬鹿にした。
「武士のくせにだらしがない!」「我らの藤原様を返せ!」「九郎義経様の仇!」「奥州から出ていけ!」等々、罵声は尽きない。
橘公業は撤退を命じ、脇本は逃げた。
大河勢は初戦の勝利を得た。
勝ち鬨をあげても、兵糧が乏しくて祝杯ができない。なのに賛同者は更に集まってくる。数日のちには、この小さな河川湊町の、それなりに大きな兼任の館には、三万まで膨れ上がった。
「想像以上だ」と兼任は喜びよりむしろ、驚いた。
十二月五日、いつもより冷える朝、天気は晴れ。八郎潟は凍りついていた。
大河兼任は全軍を率いて、脇本に籠る橘公業の掃討作戦を決行する。
ーーこんな大軍勢、率いるのは初めてだ。
緊張する兼任。しかし、心の支えはある。
ーーワシは平泉で、源義経様と何度か会ったことがある。そのとき、鎌倉攻めの必勝法や大軍勢の扱い方を教えられたことがある。あと、頼朝様は本気で義経様を怒っていなかったこともな!
義経様、我らを導いてくれと願った。
男鹿半島は半島ではあるが、小鹿島と呼ばれるように島扱いされている。北側から回れば陸路つづきで脇本に行けるのだが、あまりにも遠回りだ。ならば凍結した八郎潟を渡るのが近道である。
軍勢は三つに分けて進ませた。
しかしその中の中央の軍勢、つまり、
渡り始めたとたん、氷が割れたのだ。
幸い浅瀬だが、死者が一気に数千人を超えた。
兼任は行軍を中止した。
ーーーーーーーー
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます