第5話:遠出

瀬沢古戦場①

 緑の日の朝九時、東急とうきゅう新横浜線しんよこはません新綱島しんつなしま駅の地上出入口前。ここが市治ちはるに指定された待ち合わせ場所だった。

 架橋かけはしは、今度は山でも歩ける服装で決めた。

ーー社会人初給料。一日入社で十五日締めだからいつもの半分しか貰えなかったけど、近場の散策ならそんなに使わずに済むからいっか!

 と、金銭面だけが不安だから、節約しながら歴史を満喫しようと決めていた。

 架橋が到着したとき、創和はじめ育美いくみが既に待っていた。

「あ、ごめんなしい。みんな、待った?」

 育美は気にしてない。

「大丈夫だよ」

 創和も頷いた。

 市治がレパードで来た。運転席に座ったまま助手席側のドアを開け、席を落とし、三人に言う。

「申し訳ございません。予定変更です。県外へ出るのでお乗り下さい」

「えっ?」架橋は、少し冷や汗がでた。

 とはい交通費は、全て市治が受けもつのでホッとした。市治にとってはそれが予定を変えた者の責任としていた。






 到着は午後一時を過ぎた。昼食はその間に済ませた。

 ここは円山まるやま公園。数十メートルほど下の麓はちょっとした住宅街がある。その向こう側は一面の森。雲一つない青空と、険しい山脈も確認できた。

 架橋は興奮した。

「わー、すごく綺麗! これも横浜なんねー?」

「ちがーう!」創和と育美は突っ込む。

 創和は呆れる。

「そらちゃん、ごはん以外ずーと居眠りしてたし」

「楽しみで眠れなかったんねー」架橋は苦笑い。

 育美は深呼吸しながら、しんみりしていた。

「空気もうましい、初めて見る絶景」とスマホをだし、写真に収める。

 架橋も創和も同じく、撮影した。

 市治は三人の後ろにある木陰のベンチに座り、携帯ポットのルクリリを飲んでくつろぐ。

 架橋は山脈をさし、

「あれはなんて山?」と質問した。

 創和はタブレットの地図で確かめ、答えた。

八ヶ岳やつがだけだって」

 架橋は北陸の山しか知らないので、

「やくざだけ?」と聞き返す。

「ちがーう!」創和と育美は声を揃えて否定し、笑った。

 創和「八ヶ岳に謝りなさーい!」

 架橋「も、申し訳ございませんでした!」と頭を下げた。

 市治はそんな呑気な連中に、口を隠しながら笑ってる。


 ここは長野県ながのけん諏訪郡すわぐん富士見町ふじみまち落合おちあい。新横浜から約一八八キロも離れた日本有数の高原地帯である。


 育美は問うてみた。

「市治ちゃん、ここには何があるの?」

 市治は教えた。

瀬沢せざわ古戦場です。天文てんぶん十一年の二月二十七日を行われたといわれる、武田 晴信はるのぶと信濃四将の戦いなんだそうです。あ、西暦に直せば一五四二年です」

 武田晴信とは言わずと知れた武田信玄だ。信濃四将とは小笠原おがそわら長時ながとき村上むらかみ義清よしきよ諏方すわ頼重よりしげ木曾きそ義康よしやすをさす。瀬沢合戦は甲陽こうよう軍鑑ぐんかんという軍記物のみに記された合戦で、これを参考にするなら、信濃連合軍は武田勢の倍の一万六千も従えながら大敗し、全軍の一割にのぼる一六二一名の戦死者を出したと記されてる。

 これは物凄い痛手だ。

 創和も育美も、聞いたことない合戦である。

 素人の架橋は言うに及ばず。

 創和は訊ねる。

「なるほど、私らに信玄鶏を食べさせたのも、このフラグだったのね」

 市治は肯定し、言った。

「本当は永禄えいろく十二(一五六九)年、小田原侵攻の途中で横浜に侵攻した武田軍の足跡、綱島の諏訪すわ神社と、片倉かたくらと神大寺から帷子かたびらに至るま道を散策する予定でした。私が歴史に興味を抱いたきっかけです」

 創和は驚く。

「えっ? 武田信玄が横浜まで来てちょっかいを出したなんて、違和感しかないなぁ……」

 育美も初耳だった。

 市治は、誰もが知らないことは理解してる。

「あれを教えてくれるのは綱島にある伝承と「北条五代記」のみで、証拠となる一次史料が一つもありません。故にあれは"歴史"ではなく"疑惑"なのです。瀬沢の戦いは同じ疑惑でも、案内板があります。なので、教科書が教えない歴史ですら教えない要素は、横浜よりも瀬沢のほうが分かりやすいと判断しました。横浜では神大寺が被っていますし」

 ここで架橋が「神大寺?」と反応する。

 市治「はい。小机城の戦いで処刑はりつけ原を見たときに立った道が、武田軍が小田原攻めの途中に進んだと「北条五代記」にあります。ちなみにそれは、鎌倉街道下の道です」

 架橋「おお、神大寺、なにげに凄いねー」

 創和「でもさ、いくら軍記物と現場証言が一致しても、一次史料にないものを専門家のお墨付きなしに、歴史認定する訳にはいかないもんな」

 市治「はい。瀬沢の戦い、武田信玄本でも一九八〇年代まではよく扱われていました。ですが、九〇年代から忽然と姿を消しました。否定した書籍も論文もないので理由は分かりませんが、間違ってる前提での憶測はできます」

 創和「なに?」

 市治「この戦いがあったことも無かったことも証明できないのでしょう。つまり、史料が発見されるまで箱に閉まったのではないでしょうか?」

 創和「かもな。ネタ元が軍記物オンリーじゃ危ないもん。そのせいでどれだけの歴史が軌道修正かけられたことやら」

 市治「なのにこのいくさ、信玄戦績の勝ち星にはカウントされてるのです」

 創和「あれま……」と、顔がひきつった。

 それは通算72戦49勝3敗20分けだという。

 育美は興味が湧く。

「歴史認定されるか否かの狭間にある歴史か。ロマンだわ」

 創和は慎重を促す。

「いや、危険物を引っ込めただけだよ」

 育美は苦笑いした。

「まあ、そうだけどさ……」

 その間、架橋の頭がフリーズしてる。

 会話のレベルが高すぎた。

 創和は慌てた。

「あ、あるなしはもういいから、舞岡さん、ここにはどんな話が残ってるのか教えて」

 市治は語る。

「向こうに見える尾根先に登矢ヶ峰とやがみねの砦があったといい、諏方頼重が陣を構えたといいます」

 創和が城好きの反応する。

「砦か。いいねぇ」

 市治は続けた。

「で、手前の住宅地はかつて"血ヶ原ちがはら"と言ってたようですが……」

 これを聞いた三人は、いかにもな所以の地名だと思った。





ーーーーーーーー


 視界から現代建築物が全て消え、木々と自然地形があらわとなる。ここは高原といえど、釜無川とその支流が作り出す複雑で険しい谷地形である。

 ベンチに座る市治の正面から、武田軍の奇襲攻撃がはじまる雑音が響き出していた。

ーーだ、だれの妄想?

 市治は考えると、うしろから声が聞こえる。

「こらこらそこの村人、危ないから何処かへ逃げなさい」

ーーむらびと?

 その可愛らしい声色は、架橋だ。

 市治が振り向くと、架橋が武田信玄の仮装をしてる。それは錦絵でよく見る諏訪法性の甲冑に真紅の衣を纏っている。錦絵やマンガ、ドラマでお馴染みのコスチュームだ。

 市治は妄想のゆるさから、

「やはりきのしたさんですか……」

 と、唖然とした。

 市治は、架橋の派手な姿にツッコミどころが満載で指摘したかったが、面倒なのと、架橋が満悦してるので、やめた。

 架橋はこの時点で勝利を確信していた。

「おっほっほ! 作戦は大成功ねー♪」

 と戦況を眺める。奇襲がうまくいき、無勢の味方が面白いように敵を押してる。一方的な展開だ。敵は抗えども、受け手のため、多勢の力が出せない。

 架橋の左右には、重臣の板垣いたがき信方のぶかた扮する創和と甘利あまり虎泰とらやす扮する育美が立つ。

 創和は架橋を褒める。

「さすが御館おやかた様。親父様を追放したといい、この作戦の大当たりといい、冴えてますな」

 育美は知らせる。

「敵は登矢ヶ峰へ逃げていきますよ」

 架橋は軍配団扇を煽り、「重たいし涼しくないねー」と不満がりながらも、ドヤ顔となる。

「あはははは。見ろ、人がゴミのようだー!」

 と、調子に乗ってムスカ大佐のモノマネをしたつもりでも、似てないので誰も気づいてくれない。

 滑った架橋は、突っ込んで欲しかったと寂しい。


 ともかく、武田軍は大勝利した。

 架橋は勝鬨を命じた。

 味方の雄叫びがあがるこの草原は、敵の鮮血で染まっていた。


ーーーーーーーー





「もしもーし、きのした架橋かけはしさ〜ん」と、市治。

「はい?」我に帰る架橋。

「血が染まったのは、このいくさが所以ではありません」

「えーっ! なんでー?」

 架橋の妄想は無駄骨で、残念がった。

 市治は教えた。

「ヤマトタケルがここで大蛇を退治した伝説が所以です」

「ヤマト?」

「神話の英雄です」

 市治の解説に、架橋はすねた。

「もう、紛らわしいねー」

「申し訳ございません。でもここは、戦況を確かめるには良い場所だったようですね。では、次、行きましょう」

 市治は立ち上がる。

 架橋は「ちょっと待って。記念写真とろう」と、八ヶ岳をバックにして、まるで正義のヒーローみたいなポーズをとる。

 これに創和が市治にタブレットを渡し、育美とともに架橋の左右に並んでポーズをとった。

 架橋は「戦国最強、シンゲンジャー!」とふざける。

 市治は苦笑いしながら注意した。

「撮っても構いませんが、貴女たちの後ろは墓地ですよ」

「えっ?」

 三人が後ろを振り向くと、真下の斜面全てに墓石が並んでいる。どうりで真正面から見えなかったわけだ。

 育美は唖然とした。

「あれ、ここ、公園じゃなかったの?」

 創和は「地図には確かに公園ってあったよ」と、信じられなかった。

 架橋は「もしかして戦死者のお墓?」と感じた。

 育美は否定する。

「よくみて。現代の墓石だよ」

「あ、ホントだ。もし心霊写真が撮れたらバチがあたるね……」

 架橋は諦め、創和も育美も従った。

 市治はゾクっとした。

 架橋は斜面を眺める。この急すぎる階段を降りることが、なんだか面白そうになった。

「ねえ、ここ降りようよ!」と提案した。

 創和も育美も、高低差の迫力に面白さを感じる。

 育美は「降りよう!」と乗った。

「じゃ、競争だ!」創和が真っ先に降り、育美と架橋は追いかけた。

 市治はため息を吐いて立つ。

 架橋の声が聞こえる。

「市治ちゃんも降りようよー」

「く、車、置いて行けませんから……」

 と、三人の姿を確認せず、数歩ほどあとずさりしてから、公園前に停車させているレパードに乗り、回り道して麓まで車を走らせ、三人を拾った。

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