第4話 公爵家令嬢 グレネ・コンラディン(3)
「まだ痛みますか?」
「このくらいどうということ………いえ、まだ痛いです。かなり痛いです」
ライルに覗き込まれて、グレネは慌てて鼻の付け根をなでて答えた。
ライルはグレネに大した怪我がなくて安心した。反面、渾身の頭突きでその程度のダメージしか与えられないのは、男としてどうなんだろうかと少し落ち込みもしていた。
二人は石畳の下り坂を歩いている。学校は小高い丘の上に立っており、帰り道はずっと下り坂だ。校門を出ると、すぐに迷路のような路地を歩くことになる。
青の商都は古い街だ。数百年の間、古い街の上に新しい街を積み重ねるようにして造られていて、街全体が迷路のようになっている。学校の生徒には、一人ひとりに異なった通学ルートがあると言われているほどだ。
グレネは物珍しそうに、きょろきょろと周囲を見ている。いま歩いている道は、朝、グレネが登校してきたときの道と違う。このルートはライルが選んだ。なんとなく今日はこっちのほうがよさそうだと感じたからだ。人気の無い狭い路地を、グレネは不審がることもなく素直にライルに付いてきている。
「東噴水広場のマンションですか?」
ライルはグレネの住所を聞いて、思わず聞き返してしまった。
「変ですか?」
「変ですよ。あなたは貴族でしょう?」
東噴水広場前は、迷路のような青の商都の中では珍しく広く開けていて明るく、おしゃれなカフェなどが多い。治安もよく高所得者が多く住んでいる。マンションのお値段も相当で、高校生の独り住まいにはかなり贅沢だ。だがそれは一般庶民の話であって、公爵家の令嬢には当てはまらない。
青の商都でグレネのような貴族や政治家、大商人の多くは「壁の丘」と呼ばれる地域に居を構えている。この地域には門があり、出入りには警備員にチェックを受けなければならない。ライルはグレネの家も、壁の丘にあるものと思い込んでいたのだ。
「壁の丘って、なんだか年よりの集会所みたいじゃないですか」
「まあ、東噴水前の方がおしゃれですね」
「でしょ!」
グレネが拳を握って力説し始める。
「東噴水広場には可愛いものがたくさんあって、本当に楽しいです。知ってますか?東噴水広場で売っているアッシャベーキーヤがとてもおいしいんですよ!」
「ア、アッシャ??」
ライルはグレネの勢いに圧倒された。公爵家の令嬢は、案外庶民派なのかもしれない。ちなみにアッシャベーキーヤというのは揚げ菓子の一つだ。
「それなら、ちょっと寄り道しましょう」
ライルはそう言って、一人で石畳の路地をどんどん進んでいく。グレネもあわててついていく。
迷路のような路地にグレネは自分がどこを歩いているのか完全にわからなくなった。しかし不安はなかった。路地のあちらこちらから伝わってくる人の気配は自由で明るく、それは公爵の娘として壁に囲われたきたグレネには新鮮で心地よかった。
ライルとグレネは無数の角を右に曲がり左に曲がり、いくつもの階段を下りたり上ったりして、やがて露店と買い物客で賑わう広場に出た。
ライルはひときわ長い行列できている露店に向かった。グレネが人垣の外から露店を覗くと、店主がせっせと油の中から揚げたての食べ物をとりだしている。あたりはとてもいい匂いが広がっていた。
「どうぞ」
ライルはいつの間にかその食べ物を買ってきていた。グレネはライルが差し出したそれを両手で受け取り、じっと見て、それからライルのほうを見た。ライルは笑って
「魚のコロッケです。お口に合うかどうか」
そう言うと、自分のコロッケにかぶりついた。美味そうに食べるライルを見て、グレネもコロッケを小さく一口食べた。
「おいしい……」
グレネはそう言うと、コロッケの残りを、カプ、カプ、カプとあっという間に食べてしまった。
「ライルさん、これとてもおいしいです!」
「よかった。ここのは街でも一、二ですよ」
ライルも、残りを一口に頬張った。
「お魚もおいしいけど、このスパイスが癖になりますね」
「今日のはいつものと違うようですけど。でも美味い。さすがオヤジさんだ」
「どうして私をここに?」
「コンラディン様もこういう庶民的なものが好きなのかな、って思って」
グレネは左眉をピクリと動かし、むっとした表情をした。
「ライルさん、その『コンラディン様』って止めて下さい」
グレネはライルに詰め寄った。
「え?なぜですか?」
「腹が立ちます」
「えええ……??。それでは……、なんとお呼びすればいいですか?」
「グレネで構いません」
「グレネ様?」
「『様』も、あと敬語も腹が立ちます」
グレネはさらにライルに詰め寄った。もうライルとグレネの体が触れあいそうな距離だ。具体的にはグレネの大きな胸が触れそうだった。ライルは焦って大きく後ずさった。
「じゃあ、……グレネ。これでいいで……か?」
「よろしい」
グレネはにっこり笑った。
その瞬間、ライルは心がキュンと鳴った。むちゃくちゃかわいい。
グレネは、銀髪、碧眼、巨乳、そして本物の貴族という度の過ぎた美少女だ。その美少女のあんな笑顔に心奪われない男がいるなら、それは別の趣味の持ち主だ。あいにくライルはそっちではなく、こっちが大好物だ。
だが落ち着けと、ライルは自分に言い聞かせる。
相手は公爵家の令嬢、皇家第二王子の妃候補だ。そのような貴人相手に気の迷いを起こしたら人生が終わる。気を引き締めろ。
とりあえず目の前の美少女と巨乳を視界から追い出そう。あれは最終理性破壊兵器だ。
ライルは急いで視線を街並みに向けた。するとライルの目に珍しいものが映った。
グレネもライルの視線の先を追うと、向こうの青い屋根の上を一匹の黒猫が歩いていた。
「黒猫ですね」
「見えるのか?」
「これでも目はいいほうですよ」
驚くライルに、グレネがウインクをする。
黒猫はリズミカルな足取りで屋根の上を歩いていく。その様はイタズラを思いついた女の子のようで、妙に人間じみて見えた。
グレネが眉をひそめた。
「イヤな感じですね」
「嫌いか?」
「黒い猫、人間を見下す魔の物。そんなのを好きになる理由がありません。ライルさんは好きなんですか?」
「人間を見下す魔の物。つまり人間より高位の者。結構好きだな、そういうの」
「ライルさんって……被虐趣味なんですか?」
グレネは素早く二、三歩離れた。
「俺はドMじゃねー。けど、さっきはグレネの前にひざまずいて忠誠を誓っていいと思ったかな」
「さっきって?」
「朝、教室で」
「私そんなふうに見えましたか?」
「庶民の前に降り立った女王様、って感じだった」
「えー、うそー……」
グレネはがっくり肩を落した。どうやら気を使っていたらしい。
ライルは仕方ないだろうと思った。グレネの外見は度の過ぎた美少女で、内側からは輝くような気品が溢れ出している。グレネの前にしたら庶民は一、二歩引いてしまうだろう。
「……ライルさん。私は傷つきました。頭突きはされるし、女王様なんて思われているし。とても傷つきました」
「頭突きは、俺もびっくりした」
「はい?」
グレネは貴人らしからぬ声を出した。ライルが話を続ける。
「だって、左手を振るのが決闘の合図だったなんて知らなくてさ」
「そんなの、私も知りませんよ?」
「え?じゃあ、さっき教室で俺に襲いかかってきたのは?」
「まさか、私がライルさんを決闘で殺そうとしたとでも言うのですか?」
「違うのか?」
「当たり前です!だっておかしいでしょ!?手を振ったら初対面の人と即殺し合いなんて!!」
「コンラディン家は随一の武門だから、そのくらい普通だって……」
「うちはどんなバーサーカーですか!?」
グレネの顔は見る見る赤くなり怒気が噴き出し始めた。まずい。このままだと本当にバーサーカーになってしまう。
「ライルさんに、頭突きされるわ、女王様と思われるわ、バーサーカーだと言われるわ………」
グレネは肩を震わせながら言うそれは、言葉というよりも獣のうめき声のようだった。
「あんまりです!!!!」
グレネは叫ぶとともにダンっと地面を踏みつけた。その瞬間、踏みつけられた石畳の何枚かが大きく割れた。
「え?」
ライルは目を疑った。石畳は石でできてる。いくら古い街だからといっても、それが美少女に踏みつけられたぐらいで割れるなんて。
しかしグレネは石畳が割れたことなど意に介さず、ダン、ダン、ダンと石畳を踏みつけてライルに詰め寄った。
「ライルさん!」
「は、はい!」
「私がなぜ、この街の学校に転校してきたと思っているんですか?」
「わかりません!」
「なぜ、私があなたに飛びついたとお思いですか?」
「理解できておりません!」
「なぜ、いまあなたと一緒に学校から帰っていると思っているんですか!?」
「申し訳ありませんっ!」
ライルは最後にはなぜか謝ってしまった。グレネはそれも気に入らず、まなじりを釣り上げ、ライルの鼻に触れんばかりに詰め寄った。
「私はあなたとこの街を歩きたかったからです!」
「はいっ」
「私はあなたとやっと会えたのが嬉しかったのです!」
「はい?」
「私はあなたに会う為にこの街に来たんです!」
「…………うそ?」
「嘘なもんですか!」
「なんで?」
ライルが目を丸くして聞くと、瞬時にグレネの顔が真っ赤になった。
「そ、それは……」
さっきまでの勢いはどこへやら、グレネの声は今にも消え入りそうだった。しかし顔を上げてライルをまっすぐに見た。そして、今から言うことがちゃんと伝わるようにと、腹から声を出して言った。
「私は、あなたの愛を手に入れる為に、ここにきました」
ライルは頭の中が真っ白になった。しばらくして少しずつ頭が動き始める。
順番に確認していこう。
いまは学校からの帰りで、寄り道の最中。ここは青の商都にある露店の前。
目の前には美少女が立っている。彼女は銀髪で、碧眼で、巨乳で、本物の貴族で、度の過ぎた美少女だ。彼女とは今日出会ったばかりだ。
その美少女がライルに、いま何か言ったのだ。何と言った?
あなたの愛を手に入れる為に、と言ったのか?
今日会ったばかりなのに?魚のコロッケを奢っただけで?いや、コロッケは関係ないのか。彼女がここに来たのは、ライルがコロッケを奢る前なのだから。
もしかして、コロッケのスパイスがいつものと違ったのが原因なのか?
だからコロッケは関係ないんだ。落ち着け。
ライルは正常な思考ができなくなっていた。
女子から告白されるなんて生活とは無縁だ。そんな場面など想像したことすら無い。そんな自分が、いきなりグレネのような度の過ぎた美少女から告白されたのだ。
全く現実感がない。まともな思考なんてできるわけがない。
「あの、ライル……さん?」
グレネに呼びかけられてライルがハッと見ると、目の前に恐る恐るライルをのぞき込むグレネの顔がある。というか、近い、顔が近い!このまま唇が触れそうなぐらい近い!息が届いてきてる!なに、このいい匂い?!こら!瞳をうるませるな!
ライルは大慌てで飛び退き、十分な距離をとった。まだグレネ吐息の甘い余韻がある。心臓がバクバクいっている。
「大丈夫ですか?」
グレネが心配するその声にすら引き込まれそうになる。ライルは漠然とした大きな危機感を覚えた。このままグレネのペースに巻き込まれたら、なにか致命的にヤバい。絶対何かある。ライルはとろけていく理性を叱咤した。
「理由は……、理由を教えてくれ」
「あなたに愛されたいからですよ?」
「今日、初めて会ったこの日から?」
「二人が出会ったこの日から、愛が芽生えることだってありますよ」
「無い無い無い、そんなの無いから!」
ライルは全身でグレネの言葉を否定した。グレネはその様子にクスクスと笑いながら、おもむろに鞄から黒い手帳をとりだした。
ライルはその手帳とグレネの表情を見て、ぞわりとした悪寒に襲われた。
「確かに、ライルさんにお会いするのは今日が初めてです。でも、あなたのことはずっと前から知っていました」
グレネは楽しそうに手帳を開く。グレネは笑っている。しかしそれはゴゴゴゴゴゴという効果音がつきそうな笑顔だった。グレネは手帳のページを読み上げた。
「例えば一年前の入学式の日に、道に迷っていた女の子を案内して、一緒に登校しましたね。その日は、一日中機嫌が良かったんですよね」
「え……」
ライルは言葉を失った。確かにそんなことがあった。しかし、そのことは誰にも話していない。ましてや彼が一日中ニヤニヤしていたことなんて、余人が知るわけがない。
「他にも、ライルさんが13歳のとき、パン屋のお姉さんからおつりをもらうとして手が少し触れました。それが嬉しくて3日間も手を洗いませんでしたね」
「ちょっと待って?!」
「あと、12歳の時、組体操のピラミッドで一番下になり……」
「おい、やめろ……」
「保護者関係者が見守る中で、女子に踏み台にされて……」
「頼む!止めてくれ!!」
「こともあろうに、競技中にエクスタシーを感じていましたね」
「ぐっはっ……!!」
ライルはその場に崩れ落ちた。「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」と、壊れたように地面に向かって謝っている。グレネはそんなライルに歩み寄り、膝を曲げて手を取り、優しく言った。
「大丈夫。私ならライルさんを受け止められます」
「突き落とした本人が言うな!!」
ライルはグレネの手を振りほどき、涙を拭いて顔を上げた。
「抱きしめたほうがよかったでしょうか?」
「そいうことじゃなくて!」
ライルはまだ立ち上がれていない。しかしそれでも聞かなくてはいけない。
「なぜ、そんなことを知っている?」
「愛ゆえにです」
「ストーキングか?!ストーキングしてたんだな?!」
「失礼な。私は白の皇都から離れていませんわ。手の者がやったんです」
「ああぁぁぁ……」
「さあ、あきらめて私にあなたの愛を与えてください」
「あきらめたら、そこで終了じゃないか……」
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