3



一体どれ位走っただろう、息を切らし路地に逃げ込んだ二人は、切れた息を整えつつ表通りの様子を窺った。明るい夜の街からは、まだ絢也じゅんやを探す人々の声が飛び交っているが、その声が近づいてくる様子はなかった。追いかけられていた集団からは、無事逃げきれたようだ。

あおいがほっと胸を撫で下ろしていれば、するっと繋がれていた手が離れた。つられるように葵が振り返ると、彼は帽子を取って勢いよく頭を下げた。


「ごめんなさい!」

「え?いえ、あの、」


続けて言葉にしようとした声が、思わず喉の奥に吸い込まれる。

申し訳なさそうに視線を彷徨わせているその顔は、やはりどこからどう見ても、三崎絢也みさきじゅんや、その人だったからだ。


髪こそペタンと寝てしまっているが、印象的なまっすぐと力強い瞳は変わらない。人目を引く整った顔立ち、背は葵より高く、体つきはがっしりとしている。思ったより大きいな、というのが葵の印象だった。何よりオーラがある。だが今は、しょんぼりとしていて、まるで飼い主に叱られた大型犬のようで、葵はつい笑みをこぼしてしまった。なんだか可愛らしく見えたからだ。

絢也のしょんぼりとした姿は、そのイメージからは程遠く、だがそれも、世の女性達が見れば、母性本能を擽られるポイントとなるだろう。


そんな風にぼんやりと考え、それから葵ははっとした。今は可愛さに癒されている場合ではない。


「あ、あの、謝らないで下さい。俺の方こそ、ごめんなさい。三崎さんの名前を出さなきゃこんなことにはならなかったのに」

「いえ…元はぼーっとしていた俺のせいでもありますから」


葵が慌ててその顔を上げさせようとすれば、絢也はそろそろと顔を上げ、それでも申し訳なく呟いた。そんな風に自分を責める絢也に、葵は目を瞬かせながらも好感を抱いていた。

あの場面では、葵が悪いと責められても仕方ない、絢也にぶつかったのも、周囲を確認しなかった葵にも非はある、何より、あんなはっきりと彼の名前を言う必要はなかった。

それにと、葵は絢也に握られていた自身の手に視線を落とす。


絢也が自分を引き連れて逃げたのも、もしかしたら、自分が絢也とどういう関係なのかと問い詰められるのを避ける為だったのかもしれない。


芸能人って、良い奴も居るんだな。


勝手な解釈だが、それでも彼の優しさに胸を温めていると、「あの、」と、絢也の手が再び葵の手を握った。途端に感動は心臓の音と共に跳び跳ねて、葵が驚いて絢也を見上げると、彼が何かを言い出す前に、ピロンと電子音が鳴った。スマホの着信音だ。それに気づき、葵が自分のスマホを確認しようとすると、絢也は小さく溜め息を吐いた。


「すみません、俺のです。ちょっといいですか?」


心なしか肩を落とした様子に不思議に思っていると、するっと繋がれた手が離れていく。なんとなくその手を目で追っていると、葵はその視線の先にあるものにぎょっとした。絢也は片手に葵の段ボール箱を抱えたままスマホを操作しようとしているので、葵は慌ててそれを引き取った。今の今まで、絢也に荷物を持たせていた事にようやく気づき、その申し訳なさと、絢也自身にばかり目がいく自分が何だか恥ずかしくて、葵は顔を赤くして俯いた。


まったく、何をやってるんだ。


自分に呆れ、ちらりと視線を上げた先に、絢也の手が見える。

温もりが離れた先、空いた右手に少しだけ寂しさを覚えていた。絢也には申し訳ないが、街中を走り回るのはちょっと楽しかった。彼の手は、雑踏に埋もれて消えそうな葵の心までも連れ出してしまった。

飛び出した夜の街は、こんなに明るかったのかと驚く程、絢也は葵の世界を一瞬にして変えてしまった。

それがたった一時でも、葵にとっては間違いなく、特別な瞬間だった。



葵は、そろりと視線を上げる。スマホの着信はメッセージアプリのようで、その画面を見つめる絢也は、少し困った様子で首の後ろを掻いている。


その様子に、一時の夢から現実に戻る時だと感じた。

これ以上、一緒に居る理由はない。

暗い海に戻るがそれでいい、それが葵の生きる世界だ。

こんな明るい世界に、葵は居られない。



「あ、えっと…それではここで失礼します。本当にご迷惑お掛けしてしまい、すみませんでした」


これ以上一緒に居たら、また迷惑になるかもしれない。

そう思って頭を下げたが、絢也は何故か慌てた様子で葵の肩を掴み、その顔を上げさせた。


「迷惑じゃありません!あの、ご飯一緒にどうですか?」


突然の申し出に、葵はきょとんとした。


「え…?あ…いえ、また迷惑掛けてしまうといけませんから」

「では、送って行きます!タクシー呼びますから」

「え?いえ、今日は……ホテルに泊まる予定なので」


何故こんなに引き止めてくるのだろう、掴まれた肩は痛くはないが、その手は葵を放す様子が感じられない。

どこか必死とも取れる絢也の様子に、葵は困惑した。

彼は良い人そうだし、誘ってくれる事については嬉しさもある、でも、何故こんなに必死なのか。絢也の気持ちは分からないし、分からないものは怖い。


「えっと、じゃあ…」


何かないか、彼は葵を帰さない理由を探しているように見える。


夢から覚める思いでいたので、夢の続きがある事など想像していなかった。それに対する戸惑いもあり、葵はやんわりと、肩を掴む手から逃れようとしたが、今度は再び手を掴まれてしまった。


「それでは俺の家に来ませんか?ホテル代もかかりませんし!」

「……え?」


その申し出には、さすがに持っていた荷物を再び落としそうになった。

絢也ははっとした様子で葵の手を放すと、「違うんです、違うんです!」と、慌てた様子で両手を振った。


「ふ、深い意味はないんです!あの、これも何かのご縁かと思い、少しお喋りなどしてみたいなって……ダメでしょうか」


そう言って、今度は捨てられた子犬みたいな顔をする。葵はそんな彼を、再びきょとんとして見上げた。


頑なだった胸の奥の何かに触れられて、小さな光がパチ、と弾ける音がした。




これが、葵にとっての絢也との出会いであり、絢也にとっては再会だった。



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