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彼の名前は、月島葵つきしまあおい、二十八才。さらりと揺れる黒髪にスラリとした体躯、切れ長の瞳に薄い唇。その美しく華のある容姿に、目を奪われる人も多いだろう。

そうして目を奪われた人々は、彼の背景をどんな風に想像するだろう。仕事は、家は、趣味は、恋人は。もしかしたら、高い望みを思い描くかもしれない。

だが残念ながら、彼は今、家を追い出されてきたばかり。家なし職なし恋人もなく、ついでに貯金もほぼ無い。ここ数年、ヒモ同然の生活を送っている。

見た目だけで、彼に夢を見ない方が身のためかもしれない。



東京のとある街、夜も賑やかな繁華街は、ネオンライトと人で溢れていた。夏という開放的な季節のせいか、街には浮かれた気配が漂っている。薄着の若者達の楽しげな声、仕事帰りの飲み会に浮かれ歩く足音、絶え間ない車の走行音、店舗からだろうか、どこからともなく聞こえてくる景気の良い音楽。

葵は、そんな賑わう人波に紛れ、段ボール箱を抱えたままぼんやり歩いていた。

この街は、たった一人なのに、一人きりではないような錯覚が起きるから不思議だ。

良くも悪くも一人ではない、そこが暗い海の底だとしても。


さて、今日の寝床はどうしよう。カプセルホテル、いや漫画喫茶か。今のところ所持金は、先程麻里が持たせた封筒と、確か財布に三千円位は入っていたはず。寝床を決める前に確認しなくては。


「それとも誰か泊めてくれる子いるかな…」


葵は歩道の脇に寄り、段ボール箱を抱えたままスマホを取り出す。ふと顔を上げた所で、店舗に貼られたポスターに目が留まった。

ポスターに写っているのは、三崎絢也みさきじゅんや、今人気の若手俳優だ。確か俳優業の傍ら、歌も歌っていた。そんな事を思い出しながら、葵はぼんやりとポスターを見上げる。


それはコスメブランドのポスターで、絢也は髪を掻き上げながら、ルージュを片手に視線をこちらに向けている。男性らしく、セクシーな一枚だ。


まっすぐ力強い瞳に、葵は、良いなと、胸の中で呟いた。


迷う事なく、まっすぐと人生を歩いているんだろう。端正な顔立ち、男っぽい色気、性格もきっと悪くない、芝居も歌も上手く、人気もあって人生勝ち組だ。


「……」


ポスターを眺めていると、途端に自分が惨めに思えてきた。日向を避けるように拠り所を探し歩いている自分は、彼とは真逆の人生だ。

葵は一つ息を吐いた。嘆いても今の生活が変わるわけではない、今更過去を塗り替えられはしないし、それに日の当たる場所は、まだ怖い。


過去を思えば、足元からジリジリと這い寄る暗い影の中へ落ちそうな感覚になり、葵は焦ってスマホをしまい体の向きを変えた。


今は思い出したくないのに、隙あらば甦る過去の記憶に囚われそうになり、急に恐怖が駆け抜けた。ここには何もないのに、この場に居る事が怖くなって、何でもいいからどこかへ行きたかった。


「わ、」


そうして、恐怖から逃れる事ばかり考えていたせいか、すぐ後ろに人がいるとは気づかず、振り返った矢先に思い切りぶつかってしまった。更に、そのぶつかった衝撃で、手にしていた段ボール箱を派手にひっくり返してしまった。


「す、すみません!」


すぐに焦った声が聞こえてきて、葵とぶつかった男性は、路上に散らばった葵の荷物を掻き集めてくれている。


「こ、こちらこそすみません…!」


葵は驚いて一瞬固まっていたが、すぐにはっとして、慌てて散らばった荷物を段ボール箱に詰め込んだ。夜でも人通りの多い歩道の上、通行人の人々が、なんだなんだと好奇の視線を向けてくる。恥ずかしい、こんな道の往来でと、葵は耳まで赤くしていたが、散らばったのは日用品やスケッチブック等、葵の数少ない所持品だ、二人がかりで拾えば、それはすぐに片付けることが出来て、葵はほっと胸を撫で下ろした。


「ありがとうございます、拾って頂いて」

「いえ、こちらこそすみません」


そう言って顔を上げた男性に、葵は思わず固まった。申し訳なさそうに下がる眉、それでもその瞳は、その顔は、間違いなく先程まで葵が見上げていたポスターと同じで。


「み、三崎絢也!?」


その驚きのあまり、葵は思わず声を上げてしまった。その名前を耳にした周囲の人々はどよめき、騒めきが波のように広がっていく。男はその様子に手早く帽子を目深に被ると、「すみません」と一言謝ってから、何故か葵の手を掴み、葵の段ボール箱まで抱えて走り出してしまった。


「え…?」

「走って!」

「な、なんで俺まで…!?」


走り出した途端、「本物の絢也だ!」と黄色い声が飛び交い、その声は瞬く間に膨れ上がり、葵達を追いかけてくる。

葵は自分の手を引く男の背中を見上げて、ただただ現状に困惑していた。


なんだ、何が起きてるんだ。


夜の街を駆け抜ける。キラキラと目に眩しいネオンの明かりが、まるで自分達を照らすスポットライトのようだった。

なんだかどこかの青春映画でも体現しているかのような状況に、葵は困惑しながらも、この手を引く彼の眩しい背中を、ただ見つめていた。




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