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どうしてこうなった。


あおいは、ぼんやりとした頭で室内を見渡した。こざっぱりとした殺風景なリビングには、大きなソファーとローテーブル、壁際にテレビ、山積みの段ボール箱が手付かずで幾つも置かれ、傷の無いフローリングの床には、散乱したビール缶と脱ぎ散らかった服。


「………」


それを手に取り暫し眺めていると、葵の顔から次第に血の気が引いていった。

慌てて家主を探すと、絢也じゅんやは下着姿でフローリングの床に転がっていた。場所は、葵の居るソファーからローテーブルを挟んだ向こう側。絢也のあられもないその姿を見て、葵は青ざめたまま自身を見下ろしたが、自分はしっかり服を着ている。その事に、葵は心底安堵した。


「良かった、服着てる…」


おまけにタオルケットまで掛けてある。それを見て、葵は再び血の気が引いていく思いだった。

自分は絢也を差し置いて、ソファーの上、タオルケットまで掛けているというのに、絢也はパンツ一枚で冷たい床の上だ。暑くて脱いでしまったのだろうか、夏とはいえ、体に良くないのは明らかだ。

葵は慌てて絢也の体の上にタオルケットを掛ける、いや、起こした方が良いのかもしれない。


三崎みさきさん、朝ですよ。そんな格好じゃ体壊しますよ」

「ん~…」

「うわ、」


絢也の腕が伸びてきて、何を思ったかそのまま抱きしめられてしまう。お約束の展開にドキリと胸を震わせたのは、相手がスターだからか、それとも逞しい体のせいか。葵は赤くなりながらももがき、どうにか腕の中から抜け出すと、タオルケットで絢也の体を簀巻き状態に仕上げた。

とりあえず、これで体は冷えから守られた筈だ。


「危ない危ない…」


ふぅ、と息を吐き、葵は状況を把握する為にも、散らかった部屋の片づけをする事にした。

床に転がるビール缶を拾いながら、昨夜の出来事を思い出そうとするが、酒を煽り始めてからの記憶があまりない。


とりあえず、今分かる状況を整理しようと、葵は空き缶片手に眉を寄せた。



先ず、葵が服を着ている事に安心を覚えたのは、葵の恋愛対象が男性だからだ。

なので、いくらヒモとはいえ、今まで世話になってきた女性達と肉体関係を持つことはなかった。

葵が何故このような生活をするようになったかも含め、その理由は、世話になってきた彼女達にも分かっていた。ご飯を食べさせて貰う代わりに家事をこなし、彼女達の愚痴を聞き、慰めのハグをする。

彼女達が葵に対して抱いたのは恋愛感情ではなく、養ってあげたいという母性本能かもしれない。ヒモというより、どちらかといえば、家事をこなすペットみたいなものだったが、それでも葵は望んでその生活を繰り返していた。


そして、どうして絢也の部屋に居るのかといえば、答えは簡単だ。昨晩、家に来ませんか、という絢也の誘いに頷いてしまったからだ。

あんな有名人が、よく初対面の人間を家に上げたなと、これでもあまり人を信用出来ないでいる葵は、何か裏があるのではと邪推したが、絢也は単純に人が良かっただけだった。


引っ越したばかりだというこのマンションは、日々の生活に追われてか荷物の整理もままならず、冷蔵庫も空。

何かお礼は出来ないかと、葵が買い出しに行き、夕食を振る舞い、ワインボトルが空き、ビール缶が転がり、気づいたらこの惨状という訳だ。話の内容は、残念ながら葵は全く覚えていないが、そんな葵でも、恐らく楽しく飲んでしまったのだろうと予想はつく。楽しくなければ、記憶が飛ぶ程飲んだりしないだろう。



「…うっかり羽目を外したのか…」


自分の失態にげんなりして、葵は再び部屋の片付けを再開させた。

ゴミを集めつつキッチンへ向かえば、シンクの中には、うるかしたままの食器が残っていた。後で洗おうとして忘れていたのだろう。これを先に洗ってしまおうと、葵は食器に手をつけた。

食器を洗いながら、それにしてもと、葵は再び部屋を見渡した。テレビをつければその顔を見ない日はない絢也が、セキュリティも家賃も一般的なごく普通のマンションに住んでるとは思わなかった。昨晩別れた麻里の方が良いマンションに住んでいる、この不思議。


初対面の人間を簡単に部屋に上げたり、誰にでも侵入出来そうなマンションに住んだり、これでやっていけるのかと少し心配になる。


まぁ、のこのこついてきた自分が言える事ではないが。


葵自身、自分の行動に驚いていた。顔と名前は知っていても、本心の分からない男の家に泊まるなんて。それを思うと、絢也は本当に、ただ知り合えたから、というそれだけで葵を部屋に上げたのだろうか。

好奇心に振り回されるのはもう嫌なのに、絢也の目を見ていると、殻を被った筈の心がゆっくりと解きほぐされていくようで、不思議だった。


これも、スターのなせるわざなのだろうか。


そんなことをぼんやり考えてながら皿を洗っていると、突然背後から抱きしめられ、葵はびくりと肩を跳ねさせ、ぎゃ、と叫んだ。


「あはは、そんなに驚かないで下さいよ」


振り返らずとも分かる、ここには葵と絢也しかいない。


「な、何するんですか!」


葵は心臓が壊れない事を祈りながら、その腕を解こうと身を捩り、更に驚く。裸の胸が手に当たる、絢也はまだ下着姿のままだった。絢也にとっては構わないかもしれないが、葵にとってはよろしくない。


「ふ、服を着ろ!服を!」

「別に良いじゃないですか、減るもんじゃないし」


楽しげな絢也は、葵を放そうとしない。


「減るだろ!少なくともあなたに対する好感度は減りました!」


そう訴えれば、絢也はしょんぼりと肩を落とし、渋々といった様子で腕を解いた。


「葵さんが言ったんですよ、ハグまでは良いって」

「…え?」

「俺、着替えてきますね。あ、葵さんシャワーは?」

「……いえ、朝は浴びない派なので」

「分かりました。あ、これからは使いたい時に好きに使って下さいね」


そう微笑んでリビングを後にした絢也を見送り、葵は呆然としたまま、暫しその場に立ち尽くした。

そして、思い出したように皿の水を切り、冷蔵庫へ向かう。


「…そうだ、朝飯作ろう」


そうして開けた冷蔵庫の扉を、今度は何かを思い出したかのように突然閉め、それに思い切り頭を打ち付けた。


なんだ、ハグまでは良いって。今まで世話になってきた彼女達との条件と同じじゃないか。


「…俺、何を話したんだ?」


いくら昨夜の出来事を思い出そうと試みても、なんか楽しく飲んじゃったな、くらいにしか思い出せない。


「これからはってなんだよ、これからはって。その言い方じゃこれからここで暮らすみたいじゃん…」


呟いて、はっとして顔を上げる。


そうなのか。まさか、そういう約束を交わしたのか。

そんな事ある筈ない、酒に呑まれていたって、そんな簡単にヒモのような生活を相手が受け入れる筈がない。


俺だって、そんな簡単に…。


そう考えて、絆され続けている自分を振り返り、葵は暫し固まった。だが、やがて顔を上げ、頷く。


「…朝飯作ろう、とりあえず」


考えていても仕方ない、いや、どちらかといえば考えたくない。

葵は混乱しそうな頭をどうにか押し止め、冷蔵庫を開き、卵を手に取った。

キッチンを見渡せば、棚の上に食パンの袋が置かれていた。絢也は、朝はお米よりパン派かもしれない。もし朝は食べないと言ったら、仕方ない、自分のお昼にさせてもらおう。葵は黙々と朝食の準備をすすめるのだった。




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