5.
ヤシロと巳影がマンションへ帰ると、扉の前に、やや小太りで、身なりのいい人影があった。二人の姿を見て、垂れた目じりをさらにやさしくする。
「金吾おじさん」
「銀子がここを探し当てたよ。巳影が那智と暮らすなら、きっと防音室付きの部屋を用意するはずだっていって。ここらの物件を片っ端からチェックした」
参った、というように、巳影は頭に手をあてた。
「話をする気はあるかい?」
「ええ。俺の方も、話がありましたから」
巳影は金吾を中へ通した。ダイニングの椅子をすすめ、お茶を淹れる。
「那智は?」
「ここにいますよ」
三人分のお茶が置かれて初めて、金吾は斜め向かいの着物の少女に気がついた。
「那智、元気していたかい?」
「全く問題ない。絶好調だよ、金吾」
口調がわずかにいつもと違うが、金吾は気がつかなかった。向かいの巳影と相対する。
「一家で相談して決めたよ、巳影。身代金を払う。全財産を君に渡すよ。君に佐倉の当主になってもらうという形でね。だから那智と一緒に帰ってきておくれ」
「……はい?」
耳を疑っている巳影に、金吾はもう一度言った。
「君のいう通りの身代金を払う。佐倉の全財産を君に渡そう。君に佐倉家の跡目になってもらうという方法で。どうだい? これで家に帰ってきてくれるかな?」
「いや、それは――」
「その顔、銀子に見せてやりたかったな」
うろたえている巳影に、金吾は少し笑った。
「これは銀子の案なんだよ。銀子は君になら跡目を譲るといっている。銅音も、もともと家を継ぐ気なんてないから賛成するといった。
宮子さんも反対しなかったし、僕もだ。全員の誓約がここにある」
準備のいいことに、テーブルの上に、誓約書が差し出された。
「コガネさんが許さないでしょう」
「よく見て。ちゃんと、コガネ姉さんの署名もある。姉さんは、ここまでやる度胸と行動力があるなら、いっそ味方に引き入れるのが一番いいと判断した。
キタリド様と同じだよ。最大の脅威は最高の味方だ」
誓約書はコガネの助言で作られたといわれると、巳影はぐうの音も出なかった。紙面から、絶対に逃がさない、という気迫が感じられる。
「本当に払うなんて。俺の負けだな。なにもかも。完敗です」
「じゃあ、帰ってきてくれるんだね」
「元よりそのつもりです。そのつもりで、おじさんに話をしようと思っていました。
ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」
巳影は額がテーブルにつくくらい、深々と頭を下げた。
「佐倉庵治の件はカタをつけました。那智を連れてもどります。どうかもう一度、俺を家守にもどしてください」
「完全に君の味方をしてあげられなくて悪かったね、巳影。君一人で庵治と戦わせてしまった。那智を連れて行ったのは、庵治を油断させるためかい?」
「はい。庵治の計画を手伝えば、懐に入りやすいと思ったので」
「それだけ?」
金吾はやさしく目を細めた。
「宮子がいっていたよ。巳影は那智を普通の人間にしたがっているって。
だとすると、二人でこのまま家にもどると、その願いはかなわないけど、それはいいの?」
「……いいんです。俺は、那智にキタリド様である以外の人生を与えたら、どうなるかを確かめたかったのもあって、今回の騒ぎを起こしました。
でも、那智はそれを望まなかった。那智はキタリド様であることを幸せに思っている。それが分かったから満足です。戻ります」
巳影は、自分に佐倉の家督を継がせるという誓約書を押し返した。
「これは結構です。おじさんたちが那智を、家族同様に大事に思っていることが分かったので、身代金なんて必要ありません」
「君のこともだよ、巳影。那智を自由にしたくてやったことなら、これはなおさらひっこめられない。取っておいて」
金吾は返された誓約書を、再度、押しつけた。
「僕には受け取ったものを次代に引き継いでいくだけの才覚しかないけれど、君にはきっともっと多くのことができる。
だから、僕の後を継いで、君が変えていきなさい。キタリド様の伝統を」
金吾は、ははっと笑った。ストレスによる過食で、また豊かになってきた腹をさする。
「いっそ、今日から巳影に譲るよ。僕はトップに立つより、だれかの補助役の方がむいているからさ」
「俺だって向いていませんよ。勘弁してください」
二人ははげしく首を横に振りあい、当主の座を譲りあった。
結局、当面はこれまで通り、金吾が当主でありつづけるということで、決着がつく。
「じゃあ、二人は家に帰ってくるということで。那智も、それでいいんだよね?」
「かまわん。那智も帰ることを望んでいるからな」
他人事のような物言いに、金吾は目をしばたかせた。つんと澄ました少女の顔を、まじまじとながめる。
「那智が美人でかわいいのはいつも通りだけど。今日は一味違った感じがするね?」
「ええと、おじさん。実はですね……」
「はじめまして、金吾。私は那智の別人格の一人、ヤシロだ。以後、どうぞよろしく」
金吾は身構えた。及び腰になる。
「大丈夫です、おじさん。この人格は、お正月の時とはまた別の人格ですから」
「正月のは、ヒルコという。私は突然暴れだしたりしないから安心しろ」
「あ! なるほど。じゃあ、今が、銅音がクリスマス・イブに出会ったときの人格なのか。二重人格じゃなくて、多重人格だったんだね」
金吾は安心して、ふたたび椅子に腰を据えた。毅然としている相手を観察する。
「納得してもらえたなら、話を進めたいんだが。いいか?」
「ど、どうぞどうぞ。ヤシロ、様?」
那智とはまったく違う雰囲気に気圧され、金吾は背筋を正した。
「金吾が当面、当主を続けるのなら、頼みたい事がある。佐倉家当主の協力がいる事だ」
「どんなことだい?」
「私と那智のために、新しいキタリド様を奉ってもらいたい」
ヤシロは佐倉の家を出てから、現在に至るまでの、佐倉庵治との長い顛末を話しはじめた。
*****
三月になってから、那智と巳影は佐倉家に帰った。
金吾と話がまとまってから、佐倉家へ戻るまでに間が空いたのは、引っ越しに手間取ったわけではない。せっかくだから外の世界を満喫しておいで、と金吾が二人に自由を許したからだ。行きたいところを好きにめぐってから、二人は故郷へ帰った。
佐倉へ帰っても、キタリド様に戻っても、那智は外の世界で知った自由を恋しがることはなかった。
「アレだな。やっぱり観光地というのは、テレビや雑誌で見ているのが一番だな」
自室である蔵に、腹ばいに寝そべって、那智は外の感想を語った。
「那智はやっぱり人込み苦手だし、音が多いと混乱するし、色々においがすると鼻がおかしくなりそうだし、乗り物は酔うし。外は疲れる。おうちが一番だ」
「そう思うなら、俺も安心だよ。おまえを蔵に入れておくのは罪悪感があったけど、これからは気にしないで済む」
巳影はニノ蔵のカギを、腰に下げた。巳影もまた、家守に復職していた。
すっかり以前の生活を続けている様子に、銀子が口出しする。
「結局、巳影のやったことが全部無駄骨だったって気がして、あたしとしては本当に良かったのかって疑問なんだけど」
巳影も那智も、心外そうにした。
「べつに無駄骨だったとは思ってないよ。那智が心底、この生活を納得しているってわかって、よかったよ」
「“リアル・母を訪ねて三千里”の主人公、ジョニーがいっていた。旅に出て初めて、故郷の良さを知ったって。那智も同じ心境だ」
時計を見て、那智は起き上がった。十八時。散歩の時間だ。佐倉家へ帰ってきたばかりだが、那智は進んで以前の生活に戻る。その方が落ち着くからだ。
身支度を終えて蔵を出る間際、那智は、そうそう、と奥へ引き返した。細長い紙袋を持ってくる。
「銀子、旅の土産だ。酒だぞ。那智が選んだ」
「あら。ありがと。……びっくりだわ。那智からお土産をもらう日が来るなんて」
「那智もだ。一回やってみたかったんだよな、だれかにお土産渡すの」
初体験に、那智はほくほく顔だった。本当は隣近所に土産を配り歩くというのもやってみたかったのだが、本来、キタリド様は外出禁止。公然と土産を渡すわけにもいかないので、断念だ。
「那智も巳影も戻ってきたんだから、もう泣くんじゃないぞ」
ニコニコと笑顔でいわれて、銀子は顔を真っ赤にした。巳影に殴りかかる。
「なんで俺に!?」
「うっさい! 勝手に一人で突っ走ったあんたが全部悪いのよ!」
「うわー、八つ当たり―。那智ー、逃げるぞー」
「おう」
二人は庭を突っ切った。母屋の台所からは、だしのいい匂いが漂っている。那智は小窓から台所をのぞきこんだ。
「刺身に天ぷらに、茶碗蒸しに煮物に、炊き込みご飯にお吸い物に。今夜はごちそうだな」
「今晩は、お二人の帰宅お祝いですから。予定通り、十九時までには、旦那様と奥様もこちらへ集まれるそうですよ」
「弥生の料理、久しぶりだなあ。卵焼きが食べたいぞ。巳影が再現しても、やっぱり味が違うんだ」
ご用意しておきます、と弥生は笑顔で請け負った。
駐車場に、車が停まる。パールピンクの小型車は、銅音だ。散歩に出る二人の姿を見て、かすかに口角を上げる。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「ただいまだぞ、銅音。そのカバンのアオガエル色、いいな」
「ライトグリーン! もう、あんたって本当、情緒がないんだから。那智」
銅音は大股で家へ入っていった。
「……なんか今、違和感が」
「銅音に名前呼びされたからだろ」
歩きなれた道を、二人は散歩する。冬の寒さは緩みつつあり、桜の枝には春の気配があった。花の蕾がふくらんでいる。
「お帰りなさい、巳影君」
「ただいまです、紫さん」
途中で、那智たちは、鳥井家の家守である紫と行き会った。紫のそばには、鳥井家のキタリド様、ヒイラギ様もいる。
「また会えて嬉しいわ。もう二度と会えなくても、それはそれで応援しようって決めていたけれど」
「お騒がせしました」
「銀子ちゃんから聞いたわよ。巳影君、佐倉の跡継ぎになったんですって? 今度から、若旦那って呼ばないとね」
「やめてください。してやられたって思っているんですから」
紫のからかいに、巳影は閉口した。
「ごめんなさいね。銀子ちゃんに二人の居場所を教えてしまって」
「いえ。それがキタリド様のお仕事ですから。さすがはヒイラギ様と、感服しましたよ」
紫のかたわらで、ヒイラギ様は静かにたたずんでいる。
那智は袂から、土産を取り出した。
「ヒイラギー、久しぶりだな。元気してたか? 那智はめっちゃ元気だぞ。旅行してたぞ。土産に有名神社のお守りがあるけど、青色か紫色、どっちがいい?」
「那智、質問は。っていうか守り神様に御守りは失礼だろ!」
巳影はツッコミつつ、那智の口をふさいだ。ヒイラギ様は質問されると、答えなければという強迫観念に駆られて、平常心を失うのだ。
だが、巳影の気づかいは必要なかった。
「紫色で」
ヒイラギ様は、落ち着いて答えた。紫が微笑する。
「完全にじゃないけど、兄さん、質問されるのはだいぶ平気になったのよ」
「そうなんですか。よかったです」
守り神様が、家内安全のお守りを受け取っていることに、巳影は物言いたげにした。
「ありがたいお土産よ。これから必要になるかもしれないから。
兄さんね、じつはそのうち、目の手術を受けるつもりなの」
紫は、布でおおわれた兄の目元を見上げた。
「本物の神様が現れたから、自分はもういいんだって」
「……よかったですね。ようやく、ヒイラギ様は現実に帰ってくるんですね」
「ええ。もう、未来の世界をさまようのは終わりだわ」
そう遠くない日、何十年ぶりかに、自分と兄の目が合う日を夢見て、紫は幸せそうに笑んだ。
「新しいキタリド様が増えるっていうし。もう、兄さんは引退してもいいかなって」
「長いこと、お疲れさまでした」
紫は、巳影をうかがうようにした。
「あまり驚かないのね。新しいキタリド様が増えるってこと」
「驚いていますよ。今時、めずらしいですね」
「あそこに住んでいた老夫婦の孫息子が、帰ってくるんですって。キタリド様になるために」
紫は坂の上の空き家を指した。集落の中で、一番高い場所にあるその家は“上(かみ)屋敷”という屋号で呼ばれている。
「新しいキタリド様を認める決議に関わった人から聞いたんだけど、新しいキタリド様――カミ様は、未来が視えるって話よ。すごいと思わない? こんなにタイミングよく」
「確かに。とてもタイミングがいいですね」
巳影は愛想のいい、鉄壁の微笑をくずさない。とうとう紫は、那智に背をむけてこっそり尋ねた。
「教えて。まさかとは思うけど、ミツクラ様のしわざ?」
「そうです。表立ってキタリド様らしく活動するのを俺が嫌がるので、別人格の那智が身代わりを作りました。
昔、ここで悪さした、更正不能な俺の父親をとっ捕まえて、自分の思い通りに動く木偶人形に仕立て上げたんです」
「嘘でしょ? そんなことまでできるの?」
「なんでもできますよ。まさに、異界からの来たり人様です」
二人は肩ごしに、那智をふり返った。
那智は無邪気に、旅先の話をヒイラギに聞かせている。ヒイラギから応答がなくてもかまうことはない。ともかく家人以外に土産話をする、という行為をしたいだけだ。
「なんだ、二人とも。まさか巳影、那智が旅先で二度もトンビに唐揚げをかっさらわれたのを話をしたのか」
「たった今、おまえが自分でバラしたぞ」
ひとしきり土産話をして満足した那智は、巳影に先を急かした。
「今日は早めに帰らないといけないぞ」
「そうだな。じゃあ、また。紫さん」
「ええ、気をつけて」
「また今度」
ヒイラギ様にも見送られて、二人は家路についた。
見慣れた屋敷を見上げて、いう。
「ただいま」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます