4.
巳影が病院へ行っている間、那智は百合の自宅でドミノをしていた。麻雀のパイがあったのだ。
途中、百合の店の従業員がやってきて、クローゼットから服を取り出し、小物を集め、カバンに詰めていったが、無視だ。
落ち着かない時、那智はドミノ倒しをして過集中状態になる。従業員にこれを頼みますね、とカバンを指し示されたが、返事をしなかった。
ドミノをやめたのは、とっぷり日が暮れたころだ。聞きなれた足音に気づくと、那智はすぐに玄関に走り寄った。巳影が姿を現す。
「那智、悪かったな。待たせて」
「百合は?」
「脳挫傷だって。死ぬ危険はないけど、手術が必要らしい。……手術しても、マヒが残るかもしれないってって話だった。
身内じゃないから、できることが少なくて。付き添っても、あんまり意味がなかったな」
巳影は軽くため息を吐いた。
「荷物は? 百合さん、このまま入院するから、従業員の人に、荷物をまとめておいてくれるよう頼んだんだけど」
那智はきょとんとしたが、リビングダイニングの出入り口にカバンが置かれていたため、巳影が困ることはなかった。
「集中してたから、気づかなかったんだな」
ローテーブルに整然と並べられている麻雀のパイを見て、巳影は苦笑した。
「一人で待たせて悪かったな」
「那智はちゃんと留守番できただろう?」
「そうだな。偉いぞ」
巳影は那智の頭をなでた。カバンをもって、百合の自宅を後にする。
帰宅すると、二人は頂き物のあんこうで鍋を作った。わざわざ港から取り寄せているだけあって、身は新鮮で、肝も絶品だった。那智はあん肝をつまんで、表情をとろけさせた。
「うまいな。百合も一緒に食べられたらよかったのに」
「そうだな。百合さんが快復したら、もう一度作ろうか」
夕食が終わると、那智はあくびをした。ふにゃ、とテーブルに突っ伏す。
「疲れたか。いつもなら寝てる時間だもんな」
「巳影、この後、また病院に行くんだろう?」
「百合さんの荷物を届けに行くけど、おまえは寝てていいよ」
「うん……」
巳影になかば抱えられながら、那智は寝室へ入った。なかば舟をこいでいる状態で着替え、背中からベッドに飛び込む。すでに寝息を立てている身体を、巳影はベッドに収めた。
「さてと。もう一仕事だな」
百合の手荷物をもって、巳影はマンションを出た。車で病院にむかい、百合の病室を訪れる。
「遅かったな」
病室にいた、思いもよらぬ先客に、巳影はぎょっとした。
「な――!」
「大声を出すな。ご近所迷惑だぞ」
ベッドのそばの丸椅子にちょこんと腰かけているのは、マンションへ置いてきたはずの那智だった。
着ているものは、寝間着ではない。去年、巳影が買い与えた桜柄の着物だ。きれいに着つけられている。もちろん巳影のしわざではない。那智のしわざでも、ない。
那智の中に眠る別人格、ヤシロのしわざだ。
「ヤシロ、どうしてここにいる」
「この女を助けるためだ。もう心配ないぞ。治しておいた。明日には退院できるだろう」
こともなげに、ヤシロはいう。あまりに唐突な展開に、巳影は目を白黒させた。
「待て。治した? おまえが? そんなことまでできるのか」
「全知全能といったろう」
「だいたい、どうやってここに」
「テレポートしたに決まっているだろう? おまえが内鍵を閉じて行った部屋から抜け出し、おまえより早く病院に到着するのに、他にどんな方法があるんだ?」
「いや……ないけど」
ないが、普通、それは選択肢に入らない。
「なぜ百合さんを助けに?」
「個人的な事情だ。今後、百合の存在が必要になるのでな」
那智は病室の入り口に目をやった。第三者の硬い足音が近づいてきて、扉が開く。庵治だった。
「やっぱりここだったか」
庵治は指に挟んだパスポートを見せた。
「ほらよ。頼まれてたやつ。腕時計は?」
「今はもってないよ。自宅だ」
「了解。あとで住所送るから、そこに送ってくれ」
庵治はパスポートを渡すと、さっさと身を翻した。ベッドの上の百合には見向きもしない。
「あんたはクズだ」
巳影の非難に、庵治は肩をすくめた。
「クズで結構。そのクズに搾取されてるおまえらはクズ以下のカスだろ? 俺が悪いというなら、なぜだれも俺を裁かない? なぜ俺は捕まらない?
俺の方が優秀だから。優れているから。だれも手出しできないのさ。
百合が倒れたのは、俺のせいだっていう証拠はあるのか? 百合は俺のせいだっていったか?」
巳影は相手をにらみつけた。胸倉をつかみ、乱暴に壁に押しつける。
「殴れよ。蹴れよ。刺したっていいぞ。傷を証拠に、一生、おまえに付きまとってやる」
「このクソ野郎。木っ端みじんにしてコンクリに詰めて海に沈めてやる」
「傷害罪に脅迫罪も追加だな」
巳影が怒れば怒るほど、庵治はおもしろがった。
澄んだ声が、二人のやり取りに水を差す。
「巳影。手をはなせ。庵治は悪くない」
ヤシロのセリフに、巳影は信じられないという顔をした。手から力が抜ける。
「庵治は悪くない。生まれる世界を間違えただけだ。不幸なことに。そうだろう? 庵治」
それまでと雰囲気がまるで違う少女に、庵治は怪訝にした。しかし、深くは追及しなかった。巳影に乱されたエリを直す。
「そうだと思うよ。俺は生まれる世界を間違えた。愛だの友情だの信頼だのがない世界に生まれていたらよかった」
「おまえは人でなしの世界に生まれ変わりたいと願うか?」
「ああ、願うね。ぜひとも。俺には理解できない理屈で動いているこんな世界、クソくらえだ」
靴音を鳴らして、庵治は去っていった。
「ヤシロ! おまえ、なぜあいつに味方する。おまえは守り神だろう。あんな、生きているだけで周りに害を与えるようなやつを、どうして肯定するんだ」
「あれを否定するなら、私も否定されなければならないからだ」
ヤシロは丸椅子から立ち上がった。着物の裾を払い、髪を払う。帯飾りの鈴が鳴った。
「すべての生き物は生まれながらに完璧だ。たとえ手足が欠けていようと、自我がなかろうと、心がなかろうと。
人の定めた法には背いていても、世界は、自然は、今生きているものすべての味方だ。等しく生きる権利がある。善も悪もない」
「だから、あれを野放しにしておくのか」
ヤシロは傲然と、とがった小さなあごをそらした。
「違う。善悪はないが、どの生き物にもルールはある。人には人の、獣には獣の、虫には虫の、それぞれの掟が。恒久的に存在が持続するには秩序が必要だ。
庵治は人のルールを拒んだ。ならば、人でないものの掟に従わなければならない。そうは思わないか? 巳影」
カラリと、ヤシロは病室の窓を開けた。冷えた空気が入りこんできて、部屋の熱気を一気に冷めさせる。
「私たちのような、人の理から外れている存在にも、常世からの来たり人にも、ルールは必要だ。そして、そのルールは、私が今から定める。人ならぬものの中で、私は圧倒的強者だから」
ヤシロは物の形が判然としない夜闇を見据えた。
「巳影、おまえは那智に、佐倉の守り神になって欲しくないのだろう? 那智が守り神として有能であればあるほど、那智の自由は無くなるから。
だが、私は、佐倉の守り神でありたい。相反する意見の妥協案として、私は身代わり人形を用意することにした」
「身代わり人形?」
「庵治だ。おまえの父親。あれを私の操り人形にする。
幸い、庵治の籍は佐倉だ。庵治を意志なき人間に改造して、新たなキタリド様になってもらう。百合を家守につけてな。
今後、私が庵治の身体を通していかに奇跡を起こそうとも、それはすべて庵治の功績となる。那智の身は、庵治ほどには注目されないというわけだ」
どうだ? とヤシロは小首をかしげて見せた。
「……そんなこと、本当にできるのか?」
「愚問だ」
ヤシロはにっと笑った。ふわりと、少しも体重を感じさせない動作で、窓枠に立つ。
「さあ、心なき化け物よ。自我なき怪物が行くぞ。完膚なきまでに征服してやる。屈服しろ」
華奢な体が宙に舞った。桜柄の袖が翻る。
凛とした鈴の音だけを残して、ミツクラ様の姿はかき消えた。
*****
三日して、百合は退院した。入院した翌日には、すっかり元気だったのだが、医者が全快を信じなかったので、遅れたのだ。
「自分でも信じられないわ。階段から落ちたことが夢みたい。痛めた足もすっかり治っているし」
百合は右のつま先で軽く地面を叩いた。出迎えに来てくれた巳影に、頭を下げる。
「入院中、色々ありがとう、巳影さん。助かったわ」
「庵治のことなんですけど……」
百合はかぶりをふった。
「いいんです、わかっていますから。あの人、もう、ここにはいないんでしょう? 新しい女がいることは知っていました」
「違うんです。こっちに来てもらえますか?」
巳影は百合を、別の病室へと連れて行った。
ベッドには、頭部を包帯でぐるぐる巻きにされた人物が横たわっている。枕元におかれている凝った腕時計と、ベッドの長さいっぱいの身長とを見て、百合は目を見開いた。
「まさか、この人」
「庵治です。あなたが入院した日に、事故を起こして。こんなことに……」
百合はおそるおそる、患者の身体に手を伸ばした。胸に、肩に、手に触れる。大きな手が、百合の手をかすかに握った。
「庵治! 私が分かる?」
百合が両手でつかむと、包帯に埋もれた唇から、かすかな声が起きた。
「……俺のことは、忘れてくれ」
言葉に反して、決して離すまいと、百合の手に力がこもる。
「俺はもう満足に動けない。おまえに最期まで迷惑をかけたくない」
「いやよ。最期まで私に迷惑をかけて。一緒にいさせて。私はどうしたって、あなたを愛しているのよ。わかって」
庵治は少し黙った。それからまた、言葉を紡ぐ。
「……わかった。それなら、俺と一緒に、故郷に帰ってくれ」
「故郷に?」
「正確には、本物の佐倉庵治の故郷だ。だが、俺はそこを故郷だと思っている。巳影の住んでいた場所さ。そこで一緒に暮らそう」
不意に、かすかに庵治が笑った。
「百合、おまえ、最近、猫を飼おうと思って、保護猫を見に行っただろう」
「やだ。なんで知っているの? 何も言ってないのに」
「俺も不思議だよ。事故の後、急にこれまで見えなかった物が見えるようになったんだ」
庵治は天井を見上げた。
「本物の庵治は、故郷で神様になるはずだった」
「神様?」
「その土地特有の風習でな。一族の中にいる風変わりな人間を、守り神として奉る風習があるんだ。キタリド様っていうんだが。
俺に戸籍を譲った後、本物の庵治はキタリド様になるべく、父母と一緒に、祖母のいる故郷へ帰った。
ところが、三日と経たないうちに、庵治は祖母とトラブルを起こし、もみあっているうちに、父親に刺されて死んだ。一家は過失を隠すために、床下に庵治を埋めた」
百合が息をのんだ。
「――そういう夢を、事故に遭ってから何度も見るんだ。庵治は神様になれなかった。それが心残りだったのかもしれない。だから、庵治の生きた亡霊である俺が、今になって、妙な能力に目覚めたのかもしれない」
庵治は手を下ろし、包帯に覆われてのっぺりとしている顔を百合に向けた。
「故郷に帰って、庵治を弔ってやりたい。庵治の無念を晴らしてやりたい。庵治の果たせなかったことを、果たしてやりたい。俺はあの土地の守り神になろうと思う」
「庵治」
「あの土地には、昔、迷惑をかけた。償いをしたい。人生をやり直したい。
庵治の一家はすでに死に絶え、庵治の実家は空き家のまま放置されているから、そこに引っ越す。
正体を疑われるかもしれないが、この通り、事故で顔はつぶれているし、庵治は大柄なやつだったから、背格好は似ているんだ。ごまかせると思う。
百合、手伝ってくれないか?」
「……本当にそう思っている? 成り代わって、その力を使って、悪さをするんじゃないの?」
「疑うなら、そばにいてくれ。俺を見張っていてくれ。キタリド様には、家守という世話係がつくんだ。おまえがそれになればいい」
庵治は手に力をこめた。
「一緒にやり直そう。一から」
言葉もなく、百合は庵治の手に頬をあてた。閉じた目の端に、涙が浮かんでいた。
「庵治、何かして欲しいことはある? 食べたいものは? 飲みたいものは?」
「……」
「庵治?」
「じつは、意識のないときの方が多いんです、百合さん」
巳影の説明通り、庵治はぱったり話さなくなった。木偶のようにベッドに横たわっているだけだ。
「ときどき、思い出したみたいにしゃべるだけで。こんなにしゃべったところ、入院してから、初めて見ました」
「そうなの」
百合はいとおしそうに、庵治の頭をなでた。
「巳影さん。最期までこの人のそばにいること、許してくれます?」
「俺とこの人は無関係なんですから、許可なんかいりませんよ。むしろ、面倒を見ていくのは大変だと思いますが、平気ですか?」
「そばにいられるなら、なんだっていいわ」
巳影はかるく頭を下げて挨拶し、身を引いた。二人を残して、出口にむかう。
戸口のそばには、ひっそりと、だれにも気づかれずに、着物姿の少女が立っていた。
巳影に続いて、廊下へ出る。頭からかぶった薄衣の下で、愛らしい小さな唇が笑った。
「どうだ。私の人形は。よい人形だろう? 私の思う通りにしゃべる」
「ほどほどにしろ」
巳影は白くほっそりとした手から、ストローのささった紙パックの酒を奪った。腕に抱えているワンカップ酒も没収する。
「未成年なんだぞ。那智の意識を眠らせておくためとはいえ、必要以上に飲むな、ヤシロ」
「私は人外の存在だぞ。人外には人のルールなんて関係ない」
ヤシロは半身を引いて、ぶつかりそうになった看護師を避けた。
着物を頭から被っていて怪しさ満点、目立つはずだが、誰もヤシロに注意を払わない。動くたびに鈴も鳴るが、誰も気にしない。ヤシロの異能によるものだ。
「二十歳になったら、たまには酔い潰れるくらいに、那智に飲ませるから。譲歩してくれ」
ヤシロはとがらせていた唇を引っ込めた。
「おまえだって、那智の一部だ。受け入れるよ」
「……私だけじゃなく、他も指名できるぞ。ヒルコは会話が成り立たないからムリとして、この身体の中には、他に六人いるからな」
「なんだって?」
片眉を上げた巳影に、ヤシロは超然という。
「名乗ったろう? 私の名は、八番目の代と書いてヤシロだと。
私の前には、ヒルコを含めて七人の人格がある。私の全能は、それぞれの人格が持っている異能を管理し、必要に応じて取り出しているからだ。
ぜひ他の人格にも、この身体の居住権を認めて欲しいものだな」
「……時間をくれ」
新たな事実に、巳影はうめいた。
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